雷雲の獣
数日後と思われていたトゥオーノ国への出立は、結局一週間以上後の話になった。
チドリが思っていたよりも国内の治安が悪く、話が通り辛くなっていたらしい。レーヴェとの長い話し合いを終えたレアンが、僅かに疲労の滲む顔でチドリの部屋を訪れる。
「お待たせしてしまい申し訳ありません……話がつきましたので、ご連絡に」
「いえ、こちらこそすみません。大変、みたいですね……」
「お気になさらず。あの国は昔からこうですから」
トゥオーノ国というのは、魔物と人間の差別が激しい国なのだという。街や城で共住するイリオルス国やリウビア国と違い、住む場所まで完全に切り離されているとのことだった。国を治める王族は人間で、政策として魔物隔離を打ち出しているらしい。
「ひどいですね……」
「ええ。俺達には到底理解し難い思想です。トゥオーノ国の創国神……膏血と雷霆の神、フルグ・ル・アストゥラ神が人間の身でありながらの神であるというのが、より拍車をかけているようですね。あの神は、数多の魔物を討ち取ったことでも知られていますから。国民の多くも、非常に信心が篤いらしいですし……」
レアンの思い溜息に、チドリも意を同じくした。
エスカマとアジーンを思い出し、胸が痛む。
「予定では、トゥオーノ国最大の鉱山であるオリクト山に向かうつもりです。そして、同行する者ですが……今回は、俺とチドリ様だけで行きます」
「わ、私達だけ、ですか……!?」
「はい。トゥオーノ国の治安は今のところ落ち着いていますが、いつ人間と魔物の間で抗争が起きてもおかしくない状況です。他に人を増やすのは危険でしょう……加えてチドリ様は魔道士で、俺は天狼です。人間側にも魔物側にも対処が効くかと」
「なるほど……わかりました」
「また、馬車は使いません。もしもの時に速さが出ませんからね……馬一頭で行きます。よろしいですか?」
「はい。大丈夫です」
「それから最後に……此度の渡国は、出来るだけひっそりと行います。トゥオーノ国への行商人達に混じって入国することになります。話はついていますので、ご心配なく」
微笑んだレアンに、チドリは力強く頷いて見せた。
「出立は明朝になります。行商人達と入国した後は、別行動を取ります。三日ほどの後、彼らと合流して帰国することになっていて……まあ、あまり説明を詰め込みすぎるのもよくありませんね。今日はお早めにお休みください」
「はい……!」
レアンが部屋を出ていくと、チドリは早速眠る支度を始めた。帰ってきたステラが目を白黒させる。
「なあにチドリ。もう寝るの?」
「うん……!明日の朝出るって聞いたから!私も早く寝ないと!」
「その割には興奮しきってるようだけど……?」
「こ、興奮っていうか……緊張してて」
「緊張?なんで」
「トゥオーノ国は治安が悪いって聞いて……私、レアンさんに迷惑かけるようなことにならなきゃいいんだけど」
『大丈夫よぉチドリちゃん』
フワリと風が吹き、翠妃が姿を現した。美しい髪が揺れる。
『チドリちゃんに手を出すような輩は、私が切り刻んであげるからぁ』
「き、切り……っ!?」
『そうだぞチドリ!アタシも丸焦げにしてやるからな!』
「ま、丸……っ!?」
続く紅焔の言葉に、チドリはサッと青ざめる。ステラはやれやれと肩を竦めた。
「まあ要するに心配するなってことでしょ。ともあれ、明日が早いならもう寝た方がいいわね」
「う、うん……そうする……」
まだ仄暗い暁の頃。チドリは優しく肩を揺すられて目を覚ました。薄闇の中で、青藍の明眸が微笑む。
「おはようございます。早速ですみませんが、ご準備をお願いできますか」
「んぁ……は、はい」
寝惚け眼を擦りながら体を起こした。侍女達が静かに近づき、チドリの支度を整え始める。
「ご準備が出来ましたら下へ。お待ちしております」
そう言い残し、レアンは踵を返した。チドリは頭を振って何とか眠気を追い出し、侍女に渡された服に袖を通した。
動きやすく風通しの良い服にブーツを履いて、チドリは階下へ急いだ。
既に馬を用意したレアンが、チドリの姿を見とめて笑む。黒地を基調とした詰襟の騎士服に身を包んだレアンは、その端整な顔立ちも相まって一層凛々しく見えた。腰に下げた剣の鞘が、僅かな光を受けて輝く。
眠気から来る体の怠さが吹き飛び、チドリは傍に近づくことを躊躇った。
「チドリ様?どうかされましたか?」
「へ!?あ、い、いえっ!すみません!何でもないです!」
慌てて誤魔化し、大きな黒毛の馬に乗ろうとする。が、いかんせん馬の体躯が大き過ぎるので上手くいかない。後ろで苦笑する気配がした。
「失礼致しますね」
「え……わあっ!?」
腰にレアンの手が回され、そのまま馬上までヒョイと持ち上げられてしまった。細腕からは考えられないような男らしい力強さに、心臓が高鳴る。
「チドリ様……きちんと食事されていますか?どうも貴方は軽すぎる気がするのですが……」
「き、き、気のせいです……!!」
侍女に渡されたローブに顔を埋め、チドリは真っ赤になった。レアンが軽く地面を蹴り、チドリの後ろに乗る。背中にレアンの体温が迫り、チドリの心臓がいよいよ破裂しそうになる。
「少し飛ばしますので、しっかり掴まっていて下さいね」
「は、はい!」
レアンが手綱を引くと、馬は鋭く嘶いて走り出した。