霖雨の国(2)
出発の日。いつもより早起きしたチドリは、ワクワクしながら着替えに袖を通した。
まだ朝日は昇り切っていない。辺りは明け方の薄闇に包まれていた。
レアンの話によると、転移は準備に時間がかかるため、馬車で行くとのことだった。せっかくの旅なので、道中の景色も楽しんではという提案に、チドリは舞い上がった。
「チドリ、ワクワクしてるとこ悪いけど、貴方一応怪我人なんだからね?」
「包帯はほとんど取れたもん。もうどこも痛くないし、大丈夫だよ」
「お兄様には通用しないからね、それ……」
馬車に乗り込んで、白み始めた空を眺める。用意してある馬車は二頭立てが二台だ。一台にチドリ、レアン、ステラ、カイト、ファリアが乗り、もう一台に荷物と数名の侍女と執事が乗る。
想像よりずっと大きい馬車に、チドリの気分は高揚しきっていた。遊園地のアトラクションのようだが、見える馬の頭は本物だ。
「おはようございますチドリ様。お待たせいたしました」
「ふあぁぁ~……はよ~」
「だらしないわよカイト……おはようございます。御二方」
レアンに続き、欠伸混じりのカイト、ファリアが馬車に乗り込んだ。レアンが馭者に合図すると、馬車が動き出す。
チドリは興奮を抑えきれず、「わあ」と歓声を上げた。
「チドリ様、お腹が空いていませんか?こちらにご朝食を用意してありますわ」
「あ、食べたいです!」
「私も。早起きしたせいでペコペコだわ」
ファリアから受け取ったのは、パンに野菜や肉が挟んであるサンドイッチのようなものだった。瑞々しい野菜と香辛料のほどよく効いた肉に、チドリはご満悦の笑みを浮かべる。
「おいふぃいです……!」
「ふふ、よかったですわ。お飲み物もありますから、遠慮なく仰って下さいね」
「ファリアー俺喉乾いたー」
「自分でやりなさい」
抗議の声を上げるカイトを、ファリアは一蹴した。
「レアンさん、ここからどれくらいかかるんですか?」
「そうですね……昼頃でしょうか。手紙には昼食を振舞いたいとあったので、その時間に合わせて到着する予定です」
「ちょっと長旅になるわよ。チドリは休んどいたほうがいいんじゃない?」
「大丈夫だよ。それに、初めての旅だから景色とか見てたいし」
朝食を食べ終えたチドリは、窓の外の景色を眺めた。朝焼けの中で、木々や家並みがゆっくり流れていく。やがて、馬車は深い森に入った。芽吹き始めた緑の匂いが、肺を満たす。しばらくはその眺めを楽しんでいたチドリだったが、単調なままなのと満腹が重なって、瞼が重くなってきた。
正面に座ったステラが、目聡くそれに気づく。
「チドリ、眠いの?」
「ん……?んーん……眠くない」
「チドリ様?」
隣にいるレアンが顔を覗き込んでくる。チドリは目を擦った。
「眠いのでしたら無理されない方が……お体に障りますよ」
「んー……じゃあ、ちょっとだけ……」
そう言い、チドリは壁に頭をもたれかけさせた。ステラが苦笑する。
「あーチドリ。違う違う」
「ん……?」
「チドリ様」
顔を向けると、レアンが嬉しそうに自分の両膝をポンポンと叩いた。眠気に沈みかけた頭で一瞬意味を考え――睡魔が吹き飛ぶ。
「え、え、え、えっ!?」
「どうされました?」
「い、いやあの、だって、だって……!!」
「こちらの方が幾分か楽でしょう?決して柔らかいわけではありませんが……」
「で、でもでも!レアンさんに悪いっていうか私がすごく恥ずかしいっていうか……!!」
「俺は全く構いませんよ。チドリ様こそ、お体が万全ではないのですから遠慮なさらないで下さい。さあ、どうぞ」
「で、でも……っ!」
狼狽えるチドリだったが、結局レアンの笑顔に負け、恐る恐る体を横たえることにした。
遠慮がちに頭を乗せ、その感触に頬を火照らせる。
「ふわぁ……なんか私も眠くなってきちゃった」
「あらステラ様。私でよろしければ膝枕させて頂きますわ」
「いいの?ありがとー」
「ファリア~俺は~?」
「アンタは壁で十分でしょ」
「ひでえ!!」
「チドリ様、お加減はいかがでしょう?寝辛くはありませんか?」
「ダイジョウブデス……」
強張った答えを返すと、レアンは嬉しそうにチドリの頭を撫でた。チドリはギュッと目を瞑り、恥ずかしさを睡魔で追い出そうと奮闘した。
馬車が少し大きく揺れ、チドリは目を覚ました。
身じろぎすると、優しく頭を撫でられる。
「お目覚めですか?」
「は……は、い」
レアンの膝で眠っていたことをすっかり忘れていたチドリは、自分を見下ろす美しい顔立ちを赤くなりながら見上げた。
「ちょうど声を掛けようと思っていたところです。そろそろ着きますよ」
窓の外を見て、チドリはあっと声を上げた。
緑の葉をつけた木々の中に、見知った薄紅の花をつけた木が所々生えている。目の前を舞う花弁と、肺に流れ込む香り。
「桜……桜だ……!!」
自分の声が僅かに震えているのがわかる。陽光の中に溶けてしまいそうな薄紅の桜は、全てが元いた世界のものとそっくりそのままであるように思われた。
レアンが傍らに寄り添う形で外を見る。
「チドリ様、この花をご存知なのですか?」
「わ、私がいた世界にあった木で……私の国では、皆が大好きな、花です……」
懐かしさが込み上げてきて、チドリは半ば放心状態だった。目を覚ましたステラとカイトも、外の景色に感嘆の息を漏らす。
「へえ、綺麗ね……」
「すげえなぁ。こんな花見たことねえぜ」
一行が桜に見惚れている間に辺りの景色は変わり、瓦に似た屋根が並ぶ街に入った。街の人々も、皆どことなく日本の着物に近い服装をしている。
チドリが言葉もなくその光景を見つめていると、一際大きく立派な作りの屋敷の前で馬車が止まった。
「チドリ様、到着したようです」
レアンに手を引かれ、チドリは初めてのリウビア国に踏み出した。




