荒涼の狼(2)
青い月明かりが降り注ぐ夜。
レアンは一人廊下を歩いていた。
湯浴みの後の見舞いは、チドリの容体を聞くだけで終わった。
傷の数は多かったが、一つ一つがそれほど深くないらしい。塞がるのはすぐであるとのことで、ひとまずは安心した。
皆が寝静まった城は閑寂としていて、自分が廊下を踏む足音しか聞こえない。
チドリの部屋の前まで来ると、音を立てないようにそっとドアを開いた。
窓際のベッドには、チドリが一人で眠っていた。ステラは、チドリの体を気遣い、フィオーレの部屋で休んでいる。
静かに歩み寄り、ベッドの傍にある椅子に座る。
月明かりに照らされた寝顔は、いつもと同じように安らかであどけなく、穏やかに見える。
自分がしていることがどれほど無礼なことであるかは、重々承知していた。それでも、チドリの無事を確認しない事には、眠れそうもなかったのだ。実際ベッドに入っても、昼間のチドリの様子や感じた血の温度を思い出してしまい、寝付くことなど出来なかった。
毛布を整え、長い髪を梳く。
眠っている相手に無断で触れるなど、とは思ったが、止められなかった。
チドリに触れていると、ひどく安心する自分がいる。
会話していれば楽しいし、笑顔を見れば嬉しく感じる。同時に、心臓が小さく締め付けられるようにも感じる。苦しんでいる姿を見ると悲哀が迫り、傷つく姿を見ると胸が張り裂けそうになる。
自分が天狼だからだろうか。何度も考えたが、この気持ちは、そんな言葉では片づけられない気がする。もっと大きくて、深く、激しい何か――。
「レアン、さ……?」
掠れた声に、ビクリと体を震わせた。
見ると、黒い瞳が揺れていた。
慌てて口を開く。
「も、申し訳ありません……!起こしてしまいましたか」
「……いえ、大丈夫です……」
微かに微笑んで、清光を受けた瞳が煌めく。
「……夜分に無断で女性の寝所に来るなど、失礼極まりないのですが……どうしても、ご無事を確認したくて」
「そうだったんですか……私は気にしてませんから、大丈夫ですよ。むしろ、来てくれてありがとうございます。心配かけて、すみません」
「いえ、そのような……」
沈黙が降りる。チドリは、静かに天井を見上げた。
「……いつか、こうなるんじゃないかなって思ったんです」
「え?」
「昼間みたいに……抑えてた感情が、いつか爆発するんじゃないかって」
瞳が、僅かに潤んだ気がした。
「私……元いた世界で、エーデルさんみたいな人に囲まれて、生きてました。才能があって、自信があって、成功しか知らなくて……被害妄想かもしれないけど、私みたいな人間を、見下して生きてるような……自分と弱者を比べることでしか自分の価値を見出せないような、そんな人達です。私は……ずっと、それが疎ましかった。そんな人達が嫌いで嫌いで、堪らなかったんです」
「チドリ様……」
「可笑しいでしょう?嫌うことしか出来なかったんですから……それも、悔しかった。あの時、エーデルさんがレアンさんを馬鹿にした時……もう、限界だったんです。ふざけるなって、いい加減にしてって思いました。私の周りにいた人達の面影が、あの人に重なって…………私、私……っ」
震えた声に、涙が混じる気配がした。
毛布を引き上げ、チドリが顔を隠す。
「こ……殺してやるって、思って……っ!」
「……チドリ様」
「と、止まらなかったんです。あの人を、とにかく傷つけてやりたくて……それしか、頭になくて……っ!皆の声が、聞こえなくなって……レ、レアンさんの声まで……わ、私、私…………怖くて……っ!!」
「チドリ様」
毛布の上から、震える体を抱きしめた。
背中に、遠慮がちに手が回される。押し殺された嗚咽が、耳元で聞こえた。
熱い吐息だった。子どものように震え、涙を流す小さな少女。
胸の底から湧き上がる感情の名を、レアンは知らなかった。
ただその情動のまま、チドリを強く抱きしめる。
「……大丈夫。大丈夫ですから……」
囁く自分の声が、ひどく優しく聞こえる。こんな声を出したことがあっただろうか。チドリが震えながら首元に縋ってきた。肌に触れる彼女の熱い吐息と涙に、なぜか、無性に泣きそうな気持ちになる。
「チドリ様はずっと、我慢しておられたのですね……お辛かったでしょう」
「っで、も……ほ、とに、誰かを、傷、つけた、ら……っ」
「……俺の声は、ちゃんと貴方に届いていましたよ。精霊王も、あの大鎌は本来の姿ではないと言っていましたし……貴方は、決して忘我されたわけではありません」
安心させるように、頭を撫でる。震えと涙が、少しずつ治まってきた。
「同じことがあっても、俺がきっと止めてみせます。貴方が、俺にしてくれたように」
ややあって、チドリが小さく頷いた。体を離し、上体を起こす。
ベッドの上に起き上がったチドリの目は、涙で光っていた。優しくそれを拭い、寝巻の下から覗く包帯に目を留める。
「……すみません。お怪我、大丈夫でしたか」
「あ、はい……大丈夫、です」
月明かりの下、チドリの頬がわずかに赤くなった。
その頬に手を伸ばし、触れる。触れた指先から、熱が伝わってきた。気のせいか、どんどん上がっている気がする。
「熱が出ていらっしゃるようですが……」
「へ!?あ、いや、これは多分、違うと、お、思います……」
「そうですか……?」
レアンの心配をよそに、チドリはその手から逃れるかのように身を引いた。
なぜかそれが、無性に気に食わない。
「チドリ様っ」
「わひゃあっ!?」
両手で頬を挟むと、チドリが奇声を上げた。掌に包まれた溶けそうなほど柔らかな頬が、熱い。
「夜分遅くに訪ねてきた身分で言えることではありませんが、お体が辛い時はきちんと仰って下さいね!?」
「い、い、言います言います言います!!言いますから!!」
「ほら、ちゃんと寝て下さい!」
「ね、ね、寝ます!寝ますから……!」
半ば無理矢理毛布をかぶらせ、ポンポンと叩く。
顔を覗かせたチドリは、恨めし気な目で見つめてきていた。
「では、俺はこれで失礼しますね。遅くに申し訳ありませんでした」
「い、いえ……」
「くれぐれも、無理はなさらないで下さいね」
「し、しません!」
そう言ったチドリに笑みを向け、レアンはドアに足を向けた。出て行こうとしたその背に声がかかる。
「レアンさん」
「はい?」
「……ありがとう、ございます」
「…………いえ」
微笑みを残し、廊下に出る。
月光の差す廊下は、相変わらず静かだった。
肌に蘇るチドリの熱が月魄に冷まされていくような気がして、レアンは一抹の寂しさを感じた。