蒼薔薇の戦姫(5)
息を呑み、レアンは浅い眠りから覚めて体を起こした。
部屋の中は暗く、朝日が昇るような時間でもない。短い自分の呼吸音だけが響いていた。
体が震えている。夏場でも伝わない汗が噴き出し、夜着と肌を濡らしている。手足が冷え、感覚を失っていた。
(……何か……とても恐ろしい夢を見ていた気がする)
痛む頭を動かし、先刻まで夢の中で見ていた光景を思い出す。
鈍色の空。耳を裂く悲鳴。動かない身体。空に浮かんでいた、あれは――
「……チドリ、様……」
掠れた声が零れる。
そうだ。夢で見たあれは、紛れもなくチドリだった。
鈍色の空に浮かんだ、人形のようなチドリの体。誰かの高笑いも聞こえていた気がする。そして、自分がチドリの名前を叫ぶ声も。
そっと喉元に手を当てた。夢の中の自分の叫びようでは、この喉が裂けているのではないかと思ったからだ。
何故夢の中の自分は、あれほど悲痛にチドリを呼んでいたのか。何故、チドリは動かなかったのか。
最悪の答えが頭を過り、レアンは激しく頭を振った。
(いや、あれは夢だ。現実ではない。しっかりしろ……)
言い聞かせても、震えが収まらない。
レアンの心を支配していたのは、紛れもない恐怖だった。
魔族と対峙した時も、アロガンによって裁きに掛けられた時も、こんなに恐ろしい思いをしたことはなかった。
奮い立とうとする心と、怯えた心が鬩ぎ合う。
(落ち着け。落ち着かなくては……こんなところで失態を犯すわけにはいかない。それに……)
レアンは自分の唇に触れた。唇越しに触れた天狼の犬歯が、存在を誇張するように感じる。
(あの方が死ぬ時は俺も一緒だ。あんな形でなど、有り得ない)
一つ深呼吸をして、レアンは体を横たえた。
「お兄様ひどい顔ね。大丈夫?」
朝食後、レアンは傍らからそう声を掛けられた。
見下ろすと、ステラがジッとこちらを見つめている。
「……少し、夢見が悪くてな」
「珍しいわね。チドリに会ってからはそんなに寝つき悪くなかったはずだけど?」
「……そうだな」
「歯切れ悪いわねぇ……まあ、体調不良の原因はその夢見の悪さだけじゃないと思うけど」
ステラは一瞬、瞳を剣呑に光らせた。
「連日、城の中を案内して観光紛いの事させるだけ。ほとんど幽閉状態の中で、親しくもないここの王族共に愛想笑いしなきゃいけないし……それにね、一番の原因があるのよ」
「一番の原因……やはり、お前も気づいていたか」
「まあね。私はお兄様ほど影響を受けてはいないんだけど」
「俺が天狼であることと関係しているんだろうか」
「それは大いに有ると思うわ。この……城中に張り巡らされた魔力の膜みたいなもの。お兄様の魔力と相性が最悪なんでしょうね」
城に滞在して数日経つが、レアンは日に日に増していく体の不調に違和感を感じていた。体が重くなり、疲れやすくなっている。魔力の流れにも滞ったものを感じ、気分が優れない。体の内側が濁っていくような気分だった。
「私は元から魔力が少ない方だし……自分で解毒剤も作って飲んでるわ。でも、お兄様にはそれじゃ追いつかないでしょうね」
「参ったな……ここで倒れるなど許されないのだが」
「……ねえ、お兄様」
ステラは手招きし、レアンの耳に何やらコソコソと囁いた。
それを聞いたレアンの表情が、一瞬で明るくなる。
「なるほど。その手があったか」
「これなら一度に二つの得があっていいでしょ?」
「確かにな」
「じゃあ今夜、頑張ってね」
「ああ、ありがとう」
不敵に笑みを返し、レアンはステラと別れた。
「ぶえっくしょん!」
木造の一室で、チドリは盛大なクシャミをした。傍にいたエーデルが苦笑する。
「おいおい、この時期に風邪かよ?」
「うーん……?誰か噂でもしてるのかな」
鼻を擦り、チドリは椅子に座った。
エルローズに初めて会ってから数日、チドリとエーデルは街の宿に泊まり、色々と話し込んでいた。宿に泊まると決めた当初は、「若い男女が二人で宿になど」と可愛くむくれていたエルローズも、エーデルの「コイツに手を出すより先に俺の首が飛ぶから」という、死んだ目と共に返された言葉を聞き、大人しく受け入れている。
「月蝕会の方も、レアン達の訪問で結構騒ぎになったみたいだからな。式が若干遅れてるらしい……こっちにとっちゃ好都合だ。計画を練る時間に当てられるしな」
「でも、どうするの?エルローズさんを攫っちゃったら、向こうだって黙ってないんじゃ……」
「……まあな」
苦渋を滲ませ、エーデルが椅子の背もたれに体を預ける。
チドリはエーデルの自宅で話し合ってはどうかと提案したが、エーデルはシュティレがいる状況下で動くことを避けているようだった。
しばしの沈黙の後、ふとチドリが口を開く。
「そういえば、エーデルのお父さんとお母さんってどこにいるの?」
「へ?」
「いや、家にいる時会わなかったから……」
「あー……」
天井を仰いで、エーデルは複雑な顔をした。
「あ、ご、ごめん。触れちゃいけない話題だった……?」
「んえ?ああ、いや、そうじゃねえよ。ただなぁ……うーん……ちょっとめんどくさいっていうか……俺にもよくわかんなくてな」
「え?」
「数年前から行方不明なんだよ。俺の両親」
事も無げに言ったエーデルは、そのまま手元に広げていた地図に目を戻した。チドリはポカンと口を開けている。
「ゆ、行方不明……?」
「そう、ある日唐突にいなくなってな。最初は俺達兄弟も慌てふためいたんだけど、家の使用人とかは心配しなくていいって言うからさ……だからまあ、誰も探しに行かず知らず、って感じだな」
「え、えー……」
「だから言ったろ?めんどくさいしよくわかんないって」
「し、心配じゃないの……?」
「うーん……いなくなった頃はめちゃくちゃ心配したし、寂しかったけどな。なんかもう、慣れた」
「ええー……」
複雑な顔をするチドリの前でエーデルは立ち上がり、地図を懐にしまった。
「ちょっと出てくる。夕飯もついでにどっかで買ってくるから……っと、なんだお前か」
エーデルが開けた扉から、入れ替わるようにエルローズが顔を覗かせた。
「わ、あ、エ、エデ!」
「何だよ。そんなに驚くか?」
「す、すまない。いや、なんでもないんだ!」
「そうか?俺はこれから出かけるからな。ここにいてもいいけど、ちゃんと帰れよ」
「う、うん。わかった……」
部屋を出て行ったエーデルを見送り、エルローズはチラリとチドリの方を窺った。
「あ、あの……今、いいか」
「え?あ、うん。大丈夫だよ」
椅子に座ったエルローズは、モジモジと居心地悪そうにチドリを見ている。
「な、なあ、チドリ」
「うん?」
「その……本当は、どうなんだ?お、お前は、本当はエーデルの恋人ではないのか?」
「……ええ?」
「い、いや、しつこいのはわかっているのだ。で、でもその……真意を知りたいというか……エ、エデを信じていないとかではないのだ!決して!でも、でも……」
次第に小さくなる声に、チドリはフッと笑みを零した。
「……エルローズさんは、エーデルが好き?」
「へッ!?き、急に何を……」
「答えてくれないなら、私も本当のことは話しませーん」
口の前で指をバツに交差させると、エルローズがガタンと腰を浮かせた。
「……っもちろんだ!わ、私はエデが好きだとも!ああそうさ!心の底から好きだ!チ、チドリには負けないんだからなっ!」
両手を握りしめて言い放ったエルローズの顔を見て、チドリは思わず吹き出した。
「なぜ笑う!?ば、馬鹿にしているのかっ!?」
「ち、違う違う……っふふ」
「笑っているではないかぁ!」
「あっははは!ごめん!ごめんね!」
「むぅー!」
ふくれっ面になったエルローズを宥め、チドリは目尻に浮かんだ笑い涙を拭った。
「はー……ごめんごめん。ちょっとからかっただけなの」
「ひ、ひどいではないか……」
「ごめんね。それから、私は本当にエーデルの恋人じゃないよ」
「そ、そうなのか……」
「うん。恋人は、その……ほ、他にちゃんといる、から」
赤くなったチドリを、今度はエルローズがからかう番だった。
「ほほう?どんな殿方なのだその恋人は?」
「い、いや、私の事は今は……」
「私を笑った罰だ!さあ、聞かせて貰おうではないか!」
「ひええ……!」