白磁の朝・一
綿のような大きな雪片が、着物の肩に染みるように溶けるのを、千歳はぼんやりと見つめていた。辺り一面の白が、朝陽を受けてきらきらと輝いている。
昨夜、山越えの途中で降り出した雪を避けるため、打ち捨てられた山小屋で一夜を過ごしたのだが、朝目覚めてから外に出てみて、深く積もった雪に驚いた。子供らしくはしゃいでみようかと思ったが、どうにも上手くいかずに、彼は雪を見つめるだけに留まった。
幼い手足に、冷たい雪を感じる。千歳は自身の掌を空に翳して、目を細めた。
十五の頃から、時を刻む事を止めた身体。
あれから、幾星霜。心だけが歳を重ねていく。
名前とは、呪いだと思う。
千歳。長い年月、彼は生きてきた。
くるる……
小屋から、不安げな鳴き声が聞こえた。
兄が呼んでいるのだろう。もしくは弟か。
同じ刻に生を受けた半身は、彼と違って言葉を発しない。鳴き声のような音で、いつも彼に語りかけるのだ。
彼もまた、名前という呪いに縛られている。庇牙という名は、彼らの母親が今際の際にようやっと付けた名前だった。
母親は、死を目の前にしたあの瞬間まで、庇牙の事を呼ぶ事はおろか、見ようともしていなかった。
くるる……
再び呼ばれて、漸く千歳は小屋の中に戻った。自分よりもずっと背丈の伸びた半身が、やはり不安そうに蹲っている。
「どうした?」
きゅう、と彼が鳴いた。
動物のように、鳴くことでしか意思を表せない半身を、不憫に思う。話せればいいのにと、何度も思った事だ。
「腹が減ったのか……?」
庇牙が頷くと、千歳は残念そうに首を振る。この辺りでは、獲物を見つける事はできないだろう。雪が止んだら、山を降りて人里を探そうと伝えると、庇牙は大人しく頷いて、眠りに落ちていった。
話せたら、とは思う。
だが、実際に彼が言葉を発するのを見るのは怖い。いつか殺さなければいけない相手が、いつか自分を殺す相手に向けて発するのは、どんな言葉だというのだろうか。
「……呪い、か」
そう呟いて、千歳は目を閉じた。
思い出すのは、今よりもずっと幼い姿をしていた頃。そして、それよりも昔を思い出そうとすれば、思い出せるのだ。自分のモノとは違う、思い出を。
*
鬼のように美しく、人らしく浅ましい心を持った女だと、彼女は自覚していた。今様という名の女は、特別な力を持つ巫女だった。鬼殺しの家系に生まれて、人の身でありながら鬼を滅する力を持つ巫女は、その当時もその先も彼女しかいない。
そんな彼女が、鬼を囲っていた。
名前や容姿は思い出せない。千歳には知られたくないのか、彼女の記憶の中で、その鬼に関する事だけが靄のように曖昧だった。しかし、彼女が鬼を飼っていたという事は思い出せる。
彼女は、やはり浅ましい女だった。
鬼を殺せる鬼を創りたい。
そうして伸ばした手を、鬼は取ったのだろう。彼女の思惑通り、鬼は今様を孕ませた。
誘ったのは今様だったが、子が宿ったのを知ると、彼女は鬼と会う事を拒んだ。放逐された鬼がどうなったのか、千歳にはわからない。ただ、死んではいないだろうとは思う。
今様が鬼を放ったのは、胎の中の子が、鬼を殺せる半鬼であると確信したからだった。
父親である鬼を、殺せる子供だ。
それが、二匹も胎に居る。
彼女は慄きつつも、歓んでいた。
「……愛しい子」
早く生まれておいで。
鬼を全て滅するために。
私の望みを、叶えるために。
*
昼過ぎになって、雪が止んだ。空はまだ暑い雲に覆われていたが、庇牙が余りにも鳴くので、千歳は重い腰を上げて、山を降りる準備をし始めた。
「……小物の気配しかしないけど、いいか?」
尋ねた先には、幼子のような瞳で此方を見返す兄の姿があった。どうやら、我慢も限界らしい。
「そっか。じゃあ、行くか」
荷物を身体に巻きつけて、千歳は立ち上がった。それを、庇牙が抱き上げる。
一気に山を降りるつもりなのだろう。
本当に、難儀な性質だと思う。
生まれ落ちた瞬間から、喉を裂くような渇きと、腹を抉るような飢えに支配されている半身は、鬼を捕食する事でしか満たされないのだから。
人の食物を食べても、彼は満たされない。鬼のように人を食っても同じで、余計に渇きと飢えが酷くなるだけ。可哀相にも思うが、代わってやりたいとは思えない。
千歳は、自らの性質も難儀だと思っていたからだ。
決して死なず、老うこともない。
バラバラに引き裂かれても、半刻もすれば再生する身体には、巫女として強大な力を持っていた母の血と、鬼の血が混ざっている他に、母の怨嗟の呪いもかけられている。
どちらが幸せか、千歳には比べる事は出来ない。だから、代わってやれないのだ。
「一つだったらよかったのかもな……」
兄の背で、ぽつりと呟く。
母の胎にいた頃に、二つに別れた魂。
鬼を滅する為の、二つの生命。
それが、一つであればよかった。
くるる、と兄が鳴いた。
「……そうか。ごめん、そうだな」
人と鬼の、業を背負っていても、一人ではないから、生きているのだ。
「たまには兄貴らしいこと言うじゃん」
白い世界を、兄弟は駆け抜ける。
業の渦巻く、人の世界に向かって。
*
思い出すのは、まだ幼い自分。
屋敷の庭で、一人で鞠で遊んでいる姿だ。それを、母の視点で思い出す。
愛しい、と思うのは此方の子供だけだ。片割れは、鬼としての血が濃く、身を裂くような食慾に支配された、化け物だった。人と鬼の混ざり物だが、そのほとんどが鬼の、彼女にとっては滅するべきものでしかなかった。それでも、生まれた瞬間に殺せなかったのは、愛した鬼の面影を見てしまったからだった。
子を成す為の道具程度に思っていた鬼は、いつしか彼女にとって愛する男に変わっていった。しかし、彼ももういない。子供達に殺される姿を見たくなかったので、遠くに追いやった。だから、鬼の子を殺せないのだ。子供を通して、彼を見ていたいから。
母は、幼い千歳を抱き上げた。
千歳は、千年でも二千年でも生きて、いつか自身の代わりに鬼を滅ぼすであろう。巫女である母は、そんな未来を予見していた。
帝が知れば欲するような力を持った子供だ。
鬼を完全に滅ぼす力を持った、ほとんどが人の、今様にとって武器となる愛しい子供だ。
「千歳、千歳。母は人でしかない。鬼を全て滅するのには、時間が足りぬ。だから、お前がやるのだ。その為に、母の胎から産んだのだから」
彼女が、どうしてそこまで鬼を憎んでいたのか、彼女自身にも解らない。彼女こそ、鬼殺しの業を背負わされた被害者だったのかもしれない。
ただ、彼女は心から望んでいた。
鬼のいない世界なら、一人の女として生きていけたはずだった。
今様が庇牙を放ったのは、死の間際。
いかに巫女として力があっても、人相手には無力なただの女でしかなかった。そんな彼女の家が、落ちた。
敵対していた家からの攻撃か、力をつけ過ぎた事を懸念した帝の命か。兎に角、彼女の家は人によって滅ぼされた。
座敷牢に閉じ込めていた子供の元に、母は千歳を抱いて駆け込んだ。そして、子供の手足の錠を解いて、その顔を掴んで囁いた。
「千歳は牙を持たない鬼だから……お前は千歳の牙となって、千歳を庇って……そして」
母は最期まで、浅ましい女だった。
「千歳を護って、死んで頂戴。庇牙……」
それが、母から兄への、最初で最後の言葉だった。
今様は、悪い人ではありません。
可哀相な人です。




