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紫黒の夜・四

紫燕のお話。

 紫燕は職場に足を踏み入れた瞬間、顔を歪めた。


「……匂うな」


 噎せ返る程に焚かれた香の匂いではない。

 果実が腐ったような、芳しいとも言える匂いだ。それが、目に見えるような色を持って、店内に立ち込めている。


「これは……」


 それは、力のある鬼の匂いに似ていた。

 鬼同士でのみ感じられる香りが、紫燕を誘うように残されている。だが、これは鬼の匂いとは何かが違っている。


「おはようございます、紫燕さん」


「誰か来た?」


 挨拶をしてきた若い男を捕まえて、紫燕はソファに腰掛けながら尋ねた。男は少し首を傾げて、ああと笑った。


「団体さんでした。女の子二人と、男が二人。女の子は、どっちも紫燕さんのお客さんさんだったんですけど、男の方は、他の店の奴っぽかったです。あと、子供が……」


「子供?」


 紫燕が、鋭い目を向けると、男が恐縮するように肩をすくめる。


「はい。やけに綺麗な顔した子供でしたけど……」


 紫燕は瞠目して、思わず、と言った風に嗤ってから、天を仰いだ。


「縁が無いと思ってたら、こんなところで……」


 あの子供は、まだ生きていたらしい。

 それも、紫燕を誘っている。何が目的かは解らないが、面白いではないか。紫燕は、ただただ悦んでいた。


 *


 其れが自らを紫燕と名乗り始めたのは、まだ朝廷が奈良にあった頃の事だった。初めは、他の鬼と変わらない、ただ食慾を満たすためだけに人を食う鬼でしかなかった。

 ある日、紫燕は坊主を食った。まるで、霧が晴れるかのように、世界をはっきりと見る事が出来るようになった。これはなんだ、と彼は思った。すると、頭の中で別の自分が、これは智識だと囁いた。

 智識というものは、どうやら巫女や坊主を食うと手に入るらしい。紫燕は、智識を欲して、手当たり次第、徳の高い人間を食うようになっていった。

 朝廷はいつの間にか、京都に移っていた。

 紫燕はいつも通り、人間を食うために町に出て来ていた。巷では、鬼を退治するために陰陽師なるものが活躍しているという話だが、紫燕には関係がなかった。人間が退治できるのは、せいぜい小物ぐらいだろう。


「……しかし、陰陽師は食ったことがないな」


 紫燕は、まるで悪戯を思いついた子供のように笑って、跳ねるように(みち)を歩いていた。

 そのうち、牛車に行き合った。

 不思議な香りが、牛車の中から洩れている。まるで……


「腐った果実と、花の匂いだ」


「あら、わかるの」


 牛車の中にいたのは、まだ幼いと言える少女だった。壮絶と表現するのを赦されるであろう程に、美しい少女が、牛車から降りてくる。匂いは、少女が放っていた。


「ふうん、そう。あんた、わかるのね。じゃあ、鬼なんでしょ」


「なっ……」


 智識を得た鬼である紫燕は、見た目には人か鬼か見分けられない程に人に近い外見をしている。それを、鬼だと言い切る少女。

 何者かは、わからない。わからないなら、食えばいい。食えば、わかるのだから。


「なんて短慮なんでしょう。あんた、謎掛けの答えを先に聞くのね。自分では考えもしないのね。勿体無い」


「勿体無い……?」


「そうよ。智識ってもんは、自分で努力して培うものでしょうに。あんた、智識はあっても、頭は悪いままって事よね」


 少女の言葉に、彼は目を瞠った。

 是迄、何故気づかなかったのだ。彼は独白する。今までやって来たのは、他人の智識を横から掠め取る、下劣な行為だったのだ。勿論、自らが考えて、手に入れたものなど何もない。

 なんと、愚かしいのだろう。


「ふうん、そう。あんた、後悔できるのね」


 少女は面白そうに紫燕を見ている。

 それから、口角を上げて、


「鬼を飼うっていうのも、悪くないわね。来なさいな、智識を与えてあげるわ」


 紫燕は少女の申し出を受け入れた。

 彼女は、名のある鬼殺しの家の娘で、今様(いまよう)と名乗った。彼女の家には沢山の本があった。紫燕は、本を貪るように読んで、智識を手にしていった。


「鬼とは、どうやって生まれるのだろう」


 人の記した本には載っていない。その疑問は、紫燕から生まれたものだ。鬼であるからこその疑問だった。

 何をいきなり、と今様は笑った。その頃には、少女は女になっていた。


「人間には、父や母があるだろう? 犬や猫だって、そうだ。では、鬼は?」


「……確かめてみる?」


「え?」


 女が、紫燕の手を取った。

 その目が、怪しく輝いている。


「今様……」


「鬼殺しの血脈と、鬼が交わるとどうなるのか、私は試したい。手伝って、紫燕」


 これは、正しい事なのか。

 これで、何かがわかるのか。

 その時の紫燕には、考える事ができなかった。今様は、鬼を手篭めに出切る程に、美しかったのだ。


 *


 紫燕は、店内の香りを深く吸い込んで、それから切なげに顔を歪めた。

 とても、いい匂いだ。これは、鬼殺しの血の匂い。鬼を誘き寄せるために、彼らの血から発せられる匂い。生まれながらにして、鬼と憎しみ合う事を定められた者の匂い。


「半鬼じゃなかったのかな……」


 紫燕は独りごちる。

 かつて出会った彼は、紫燕を見て酷く怯えていた気がする。限りなく人に近い彼は、限りなく鬼に近い何かを連れていたが、その何かは紫燕よりも弱いのだろう。だから、怯えた。

 いや。本当にそうだろうか。

 紫燕は軽く首を振る。鬼は鬼を殺せない。傷つける事は出来るが、鬼には異常なまでの賦活能力があるため、僅かな肉片からでも自身を再生する事ができる。だから、鬼同士で殺し合う事は出来ない。

 そもそも、鬼は縄張り意識は強いが、他の鬼を攻撃してまで縄張りを拡げようなんて輩は居ない。食事をする以外の事に、基本的には興味を持たないのだ。

 その摂理を、あの子供の連れていたナニカは、簡単に破っていた。限りなく鬼に近いナニカを、紫燕は殺せない。それは、初めての邂逅で彼が気づいていた事だ。


「では、何に怯えていたのか……」


 知りたい。確かめたい。

 そして……


「会いたいなぁ、あの子達に」


 紫燕の瞳は、何処までも穏やかだ。

 彼はおもむろに立ち上がると、店の入り口まで移動して、店内を振り返った。そこにいる人間を見渡す瞳は、妖しく光を放っている。


「……おいで」


 彼が囁くと、店のキャストもゲストも、全員ががくりと首を落とすように頷いた。その目は虚ろに、腕は力無く垂れ下がっている。

 紫燕は満足げに笑うと、店の扉を大きく開けた。


 会いに行こう。会いたいんだ。

 今様、君に、会いたいんだ……

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