狂乱の赤子
それを一言で表すならば――嵐だった。
吹き荒れる風、パイシズより放射され続ける水の波動。一直線状だったそれはしかし、端の部分を泡へと変えて広がっている。
その泡は大地にも当たり、そこに存在していた植物の悉くを腐食させた。
無事に逃げ切った者達やサポート担当の者は泡の腐食を見て怯え、意識せずとも回避に専念する。防御を展開するかと盾を構える者も居たが、その防御を強制的に腐食させてくるかもしれな事実を想像して他の者達が引き摺るように泡への接触を回避させていく。
迂闊に触れれば即死。一瞬で腐食させる以上回復が間に合う筈も無く、故に取るべき選択肢は自ずと定まる。
そうするしかない己に歯噛みしながら、逃げ切った者達は直撃を食らったであろう空中の者達を見やった。
泡だけでも汚染や死が待っているのだ。ならばこれが今発射されている水であれば、どれだけの威力になるのかなど想像も出来ない。
水流だけでも駄目だ。直撃を喰らい続ければ身体は粉砕されているだろうし、仮にそれに耐えたとしても窒息死がある。
それさえ何とかなったとしたら相当に頑丈であると思うが、泡の性質があればそちらも対処しなければならない。
大体の者は最初の直撃で終わる。如何に阿頼耶の恩恵があろうとも、自然の脅威に匹敵するまでになれば流石にどうしようもない。
それが出来るのは選ばれた者のみで、そんな者達は温存されるか決戦に出されるかのどちらか。
そして現状そんな真似を出来る者はいない。
水の操作が可能な者が居るには居るが、相手の吐き出している水を操作する事まではどう足掻いても不可能だ。
つまり現状助け出せる手はない。そも直撃した段階で普通は助からないのだ。
「……何人居なくなった」
「飛び出したのは確認した限りじゃ十五人。内脱出したのは六人程度だ」
「てことは九人か。……あの二年も脱出は出来なかっただろうし、此方の打つ手は皆無に等しいな」
最も攻撃力の高かったノースは飛ぶ手段が無い。
それ故にあれの回避は不可能だ。無理矢理身体を動かす方法があれば別だが、それならば今此処に居たとしてもおかしくない。
合流せずに単独行動を貫く可能性も零ではないものの、それは低い。
だからこそ死んだと考えるのが自然で、そうであってほしくないと思っても現実は無情だ。
――しかし。だがしかしである。忘れてはならない事が一つある。
彼は非常に諦めが悪い。生存を追求する姿勢はいっそ馬鹿正直と言っても過言ではなく、素直に倒れる事を良しとしない。
『――――』
悪足掻きと言っても良いだろう。
生きるという当たり前の事を願い続けているからこそ、その部分に関しては他者を置いていく。
周りが不可解に思わないように仮面を嵌め続けているから気付かれないだけで、もしもそれに気付いてしまえば誰もが彼の渇望を変だと感じるだろう。
願いは人それぞれ。小さいモノもあれば大きいモノもあり、その大小が優劣を付ける瞬間はどれだけ深くその願いを抱き続けていられるか。
阿頼耶にも影響を及ぼす程にまでなればそれは人類にとっての至高だ。完全な形で阿頼耶の力を引き出し、常に思うがままに力を振るえる。
例えそれが詠唱の無いものでも、例え多数の枷が嵌められていようとも。
そんな事など関係無しとばかりに真の顔を見せるのだ。全ては己の願いを成就させる為に。
『―――ォ』
最も水を受ける場所。
その後ろでは困惑の顔をする者達が揃っている。落下を起こしていないのは一重にメンバーの中でも重力操作に長けた者が逃げれなかっただけで、本人は別の人物に抱きかかえられていた。
その人物もまた、皆が困惑する方向へと顔を向けている。
相手の一撃は絶対に死ぬ程だ。自身に走る激痛すら無いままに絶命すると思うのが当然であり、足掻いた所で意味など無かった。重力操作をしたのは他のメンバーを助けたかったからだ。
それ以外に理由など無く、少しでも救出に成功すれば満足して死ぬつもりだった。
だというのに、これは何だ。……一体全体何が起こっている。
周りは全て水の壁に囲まれ、とてもではないが逃げ出す事は出来ない。背後も完全に閉じられ、このままであれば水がこの空間を飲み込んで全員溺死だ。
それが持続されているのは、一重に支えている人物が居るからこそ。
『――ォォォォォォォォォォォォ』
低く、低く、恨みの限りを込めたが如き咆哮。
人間にしては似合わない、およそ動物染みた声は力があった。他者の気を引き、否が応でも気力を漲らせる――そんな声だ。
自分も立ち上がらなくてはならないと強迫観念に襲われ、無意識の内に全力の阿頼耶を発揮する。
それが大したモノにはならなくとも、今目の前で努力している者のように己も英雄になりたかった。
支えるは一本の剣と一つの身体。都市を丸ごと流し、潰す量の水を真正面から両断している。
顔には余裕の字は無い。歯が折れようとも軋らせ、既に全身から血は流れている。服も時間と共に防御の役目を喪失して破れていき、その下にある罅を露出させた。
両腕に一気に広がった罅の隙間からは焔が立ち上り、彼の身体を激しく燃やす。
他人には優しくとも、自分にだけはその業火は襲っているのだ。彼の中に居る人物は鍛える事を第一としているからこそ、その厳しさは他よりも苛烈極まりない。
常に死と隣。油断すれば一直線に地獄の底に落とされるぞと脅すが如く、彼が危機に陥っていてもそれは変わらなかった。
刀身に罅は入っていない。
街を一つ丸ごと飲み込む量であるというのに、矮小な金属の塊は一向に折れる気配を見せていないのだ。
それは一重にあの魚と同質の者の力があったればこそだろう。生物的な脈動を行いつつも頑強性を存分に発揮する様は刀剣鍛冶からすれば白旗を挙げたくなる程だ。
武器そのものは拮抗している。であるならば、後は使い手の問題。
彼が折れずに居れれば、それだけ長時間皆は生きていける。しかし同時、彼が折れればその時点で全員が死ぬ。
それに耐えているだけでは駄目だ。これを突破せねば逃げる事すら不可能。
どうにかしなければならないのは勿論であるが、さりとて只の学生や警備隊員では答えを導き出せない。
史上において怪物はそれなりに確認されてきたものである。
村々を滅ぼし、英雄を殺し、国を殺し、されど最後には真の強者によって滅ぼされた。
疲弊していても人類の足掻きは強靭だ。窮鼠猫を噛むが如く、その一撃は確かに敵の心臓を貫いていた。
ならばこそ、という道理自体は存在している。しかし、それが今訪れるのかと問われれば首を傾げる他にない。
他の者ではこの状況を打開出来る術を見出せない。試しにと全力の阿頼耶でもって水の壁を切り裂いてみたものの、触れた先から刀身は錆び折れた。劣化が急速に進む現象は目視では捉えられず、だからこそ接近系では突破は出来ない。
ならば遠距離技だと次に誰もが思うだろう。それは彼等も同じで、しかし成果は良いものではなかった。
火球をぶつければ相性の所為で消される。風の刃で脱出出来る隙間を一瞬でも作ろうとするも、水を切り裂いた先に見えたのは泡の大群だった。
それが魚から発生しているのは言うに及ばず。死ぬ気で脱出出来たとしても、更に困難が続くようであれば足掻いた意味が無い。
「どうする?」
「どうする?」
――どうするのが最適解だ?
考える者達が脳裏を過らせるのは、やはり目の前の彼のみ。迂闊に接近をしないようにしていたものの、今此処で突破が出来そうな人物など一人しかいないだろう。
幸いにして剣は未だ受け止めている。彼の表情は余裕の無いものであっても、取り敢えずは拮抗という本来有り得ない事実が成されているのだ。
であれば此処で皆が協力すれば覆せるのではないか。阿頼耶という法則を数人で一斉に解き放ち、瞬間的に彼の位置を前へと進ませる。
一回で構わない筈だ。それだけ出来れば、後はもう倒れたって構わない。
全てを任せてしまう事に罪悪感はある。己の力不足を罵倒することだって、当然ある。
それでも頼むしかない。情けなくも懇願し、土下座をしてでも命を張ってもらうしかない。
生き残るには、最早それしか方法が無いのだから。
「……二年生。今ままで耐えてくれて感謝する。だから、次は俺達の番だ」
代表として、この場で最も接触していた茶髪の男が話す。
その言葉に彼は顔を動かす事は無いが、しかし耳は確り動いた。それだけで十分だと頷き、これからする無謀な行いについての説明を始める。
彼は歯を食い縛ってそれを聞いていたが、聞く度にその確率の低さに馬鹿なと叫びたくなった。
現在これを防いでいるが、その威力は絶大だ。どう転んだとしても飲まれるのは時間の問題で、押し返すなんて芸当はどんな馬鹿でも思いつかない。
その馬鹿を今からするのだ。そう宣言した以上、もう止まる事は無いだろう。
止めろと言おうと思っても、少しでも力が抜ければ負ける。故に何も発する事は出来ず、彼等は彼等なりの発想でもって行動を開始した。
『――――起動せよ、我が神意』
各々の想いが宿った祝詞が水に溶ける。流れる力の波動は確かに強大で、人間が相手であれば紛れも無く絶命必至の塊だ。
それでもまだ足りない。全力稼働を起こしても、如何に能力の応用をしたとしても、此方は蟻で相手は像。逆転劇を見せるにはどうしても素の性能が足りず、ならば足りない分を他でもって補填するのみ。
今生き残れなければ命が無いのならば、寿命を削る程度は安い代償だと更に更にと阿頼耶の深度をあげていく。
一人の命で足りずとも、残った者達全員の命を足せば殺すのは無理でも支えを変える事は出来る。
未来が減っても今を取る。究極的な選択であるし、この状況でなければ決してやろうとはしないだろう。
ある意味捨て身に近い。成功する可能性とて確かではないのに、それでも彼等は賭けていた。
ならばこそ、彼はその者達の期待を背負わねばならない。望んで背負おうと思ったものではないというのに、彼は強制的にその荷物を渡された。
勝手な話だ。愚かな事だ。辛いのは彼だけで、心に掛かる負担は並では済まされない。
泣きたくなるような思いを抱き、されど表面上は皆の想いを受け取った英雄の顔を無理矢理作り上げる。
それは歪で、誰もがらしくないと言ってしまうような不完全な顔だった。
今だけは全員が後ろに居た事に救われるも、そもそもの原因を考えて直ぐに彼は思考を変えた。これが終われば全員を一度怒鳴ろうと決め――全員が祝詞を告げ終わった。
払った代価は如何程になったのだろう。
少なくとも彼程ではないだろうが、それでも全員の未来がこれである程度消失してしまった。
そしてその分を無理矢理にでも彼に背負わせた以上、彼等は全力で道を作らねばならない。故に、決死の突撃隊はこれにて完成してしまった。
道が出来るまでは彼等は更に命を削る。彼と同じ様に。
『…………』
――その様をパイシズは狂気に浸った目で見ていた。
僅かに残った朧気な理性が何かを訴える。止めろと告げているようにも聞こえるし、邪魔者を滅ぼせと告げているようにも聞こえ、どちらが正しいのかは解らない。
ただ、目の前で自身の攻撃を防いでいる者は気になった。己の攻撃を防いだのは嘗て数人しか居なかったからこそ、狂気の中でもそれだけは残っていたのである。
出来うる事なら、あの者であれば。
薄まった意識の中での祈りは、突如として起きた閃光に消されていった。




