結末
自分の感覚が酷く曖昧だった。
手足があるような無いような、内臓が正常に機能しているようなそうでないような。眼球が動いているような動いていないような、およそ確認出来る限りの全ての感覚が判然としない。
意識だけが確かなだけに鈍い己の感覚はより顕著となり、早く目覚めなければならないような焦燥感を抱く。しかしそれでも浮上の気配は見えず、己はただ何も見えない闇の中で漂うだけだった。
一体何が起きたのか、と記憶を思い出す。
己の異能を発動したのは覚えているが、その後の戦闘については朧気な部分が多い。
それでも最後にはグラムの方陣を破壊し、彼女と共に火の雨に飲まれたのは確かだ。過程を覚えていないのは戦闘後の常であるが、しかし今回に関しての俺の覚えの無さは酷い。
何を言ったのかも脳に刻まれておらず、どのような軌道を描いたのかも認識出来ていないのだ。
まるで全てが夢だったかのように、後には結果しか残っていなかった。
最近はまだそれほど酷くはなかったように思う。
訓練中以外での戦闘でも確り覚えている事は多かったし、この学園に入学してからの模擬戦でも然程苦労するような部分は無かった。英雄のように前向きな発言ばかりをしていたのは正直思い出すだけで頭を抱えて転がりたい気持ちなのだが、それを実際にやったら一気に俺のイメージは崩壊だろう。
そう、今回を除けば確かに何を言っていたのかは解っているのだ。
なのに、その今回の部分だけがどうしても思い出せない。だから不安にもなるし、皆の反応が恐ろしくも感じてしまう。
自分は下手を打たなかっただろうか。少なくとも、弱音は吐かなかっただろうか。
それだけでも解れば御の字なのであるが、こればかりは周囲に聞かねばどうにもなるまい。そしてそれを聞けば不審な目を向けられるも当然。
よって俺は聞けず、大丈夫かどうかを常に抱えながら生活せねばならなかった。
そう思い、取り合えずの終息に息を吐く。
実際にやった訳ではなく、ただそう感じただけのものだ。それでも落ち着くもので、しかしその直後に意識が浮上していく感覚が襲ってきた。
漸くお目覚めということなのだろう。先ず最初に起きてからは情報収集を行い、その後は鍛錬だ。
あの戦闘を鍛錬だと認識されていれば呪いの発動は最低限に済むだろうが、もしもの場合に備えて警戒をしておくに越した事はない。
刺されるのも焼かれるのも溺れるのも慣れたものである。いや、慣れたくて慣れた訳ではないのだが。
「……朝、か?」
視界が開ける。
黒以外の色が瞳に移り、横から差し込む光に目を細める。
天井に映るのは目に優しい木々。明るい茶色の素材は横の壁にも使われ、部屋全体に木材が多用されているのが解る。しかし平民が住むような損傷個所の多い家屋ではなく、確りとした綺麗な形を保っていた。
窓に映る自分の姿。取り付けられた硝子はこの部屋に住む主の影響か、とても汚れが見当たらない。
何処をどう見たとしてもこの部屋は誰かの家のようにしか思えないが、されど鼻は正確にこの部屋に漂う強烈な薬の臭いを捉えていた。
鋭い者であればそれだけで気分を害しそうな薬の正体はアルコールだろう。そして学園でアルコールを使う部屋といえば一つしか思い浮かばず、だからこそ自分の状態が簡単に察せられる。
此処は医務室だ。
恐らく今の自分はベッドで横になっていて、そのまま一日を過ごしたのだろう。
再度身体の感覚を確かめる。一日寝ていたお陰で疲労は少ないと想定していたのだが、しかし先程の状態と同じく感覚の殆どが朧気なままだ。
神経系に何か悪影響でも起きたとしか思えない域に何か障害でも負ったかと考えるが、その思考は扉の開く音と共に強制的に終了させられた。
壁と同質の素材で作られた扉の先では、タバコを加えた一人の男が居る。
学園規定の白衣を着て、面倒そうに首筋を爪で掻く動作は医者らしく見えない。髪も清潔であるかと問われると微妙といったところで、さりとて彼は学園の審査を合格した医者なのである。
「あー、起きたか」
目元には隈が見える。それは夜更かしをしていたからに他ならず、だが彼が片手に持っている水の入った桶を見るに俺の看病をしていたのだろうと予測を立てられた。
近づいてきた医者は桶を小さな箪笥に置き、そのまま丸椅子に座る。額に手を当て、俺の目を覗き込み、ついで手首を掴んで脈を測った。
それら細々とした確認を全て終え、この医務室に置かれていた用紙に全てを書き込んだ彼はタバコを口から話して胸元のポケットに入っている携帯用灰皿に入れる。
「どうよ、調子は」
「感覚の殆どが曖昧です。それにどうしてか身体を起き上がらせられません」
「まぁ、そりゃそうだろうよ」
医者は軽い口調だ。しかし、それを知っている俺は文句を挟まない。
この男――アーク・マヨルとは一年以上の仲だ。それは医者としてだけではなく、俺を心の底から心配だけしてくれる数少ない良識人としてものも含まれている。
最初に此処に訪れたのは、俺が三年生同士の戦いに巻き込まれた時か。
いきなりの事態故に武器らしい武器も無く、卒業間際の三年生だからこその同学年では先ず有り得ない出力の技を繰り出していた為に、俺は自分の身を守る為にも二人の三年を気絶させたのだ。
代償として身体のあちらこちらを縫う結果となったが、あの時の戦いは今でも経験としては濃かったと思っている。
まぁ、その後に目の前の医者からは軽い説教をされたのだが。見た目と違い、意外に目前の人物は生徒を思いやってくれているだと知った瞬間でもあった。
「阿頼耶の過剰使用だ。本来の限界値を超えて発動したもんだから、身体全体にダメージが入ってる。……それに恐らくだが、寿命も削られてるな。無茶な活動をするからだ」
「何時ものことでしょう」
凡人の俺は無理をしてでも勝利せねばならない。
そして無理をする以上身体の何処かで代償を払わねばならず、今回は全体と寿命の一部を差し出した訳だ。そうでもしないと勝てない相手だったのだと思えば、やはり俺はまだまだ精進が足りない。
そう思考を完結し、直後頭部に衝撃が走る。
一瞬遅れてそれが殴られたのだと理解するも、感覚が鈍い所為で痛みはそれほどでもなかった。
普段であれば痛みの一つでも訴えるところだ。今は感覚が少なくて感謝するばかりである。
「馬鹿野郎。そういうのは戦場でやれ。いや、戦場でもするな。少しでも長生きしたいならな」
「しかし――それでは勝てません」
「勝てる勝てないの問題じゃなくてだな……」
髪を搔きながら溜息を吐く彼の姿に俺は心底同情の意を示す。
言っているのは俺だが、彼の言っている事も解るのだ。このまま己の身の丈に合わない行動を続ければ、近い内に必ず何かしらの障害が襲ってくる。
今はまだこうして一時的に身体にダメージが入っている状態だが、何十と繰り返していればやがてダメージが入ったままであるのが常となるだろう。そのまま更に無理をすれば肉体が崩壊するのは想像に難くなく、そしてそれ意外にも寿命も短くなって死期も近づいてしまう。
その結果として勝利は得られるが、言ってしまえばそれだけだ。勝つ事を至上と思う者でなければこんなのは迷う内にも入らない。
早々に常識の範囲内に収め、その中で小さい結果を出せば良いのだ。一般兵は今の俺よりも酷い状態で戦場に出ているのだから、それと比べればまだ天国と言えるだろう。
本当に、この呪いは何処までも俺の人生を暗色に染めてくれる。
早く消せれば雲隠れでもするのだが、現段階ではとてもではないがそれは出来ない。
サウスラーナとの仲を良好に保ち、早く彼女の実家で例の呪いが書かれた本を探さなければ俺の安息は訪れないだろう。いや、例え呪いを見つけたとしても解除法が書いてなければ意味が無い。
最悪理論を理解してから自分で構築する必要があるかもしれないが、それは途方もない程に遠い話になってしまう。
いっそそれ関係の者と接触すれば良いのだろう。が、今の自分が特定の誰かと接触しようものならまた面倒な噂を拡散させられるのは目に見えていた。
有名人にならなければ話がやって来ないとはいえ、学園の噂好きには辟易だ。
正直決して的を外していないというのがあれなのだが、建前上は否定しなければならない。その度にあの婚約者という単語を使うのだが……言う度に確かな不快感があった。
それだけ自分がサウスラーナを好いていないということなのだろう。
「英雄を目指すのは良いが、それで倒れちゃ意味が無い。無理をすれば結果が来るとは限らないんだ。今は実力をつけて、見せるべき時に見せるのが最短だと思うぞ?」
思考をしている俺を他所に、マヨルは実に正論な部分を突いてきた。
確かにその方が俺が無理をする回数は少なくなる。寿命を削る回数が減ればその分長生き出来るのであるし、そうでなくとも呪いを解く時間を得る事も出来るだろう。
だがそれでは駄目なのだ、とも考えている自分も居た。
それは臆病な自分だ。もしも一回の敗北でサウスラーナが失望したのであれば、永遠にこの呪いに関する詳細な情報を得る事は無くなってしまう。
今はまだ勝っているから良いのだ。そしてそれを維持しなければ、どうなるのかなど想像出来ない。
故に如何に正論であるとはいえ、俺は首を横に振るのだ。マヨルの溜息が聞こえたとしても、俺はそれを無視するしか他にない。
「心配していただけるのは感謝します。ですがそれでも、俺は止まる事は出来ない」
「どうしてもか?……そんなに英雄になりたいのかい、お前は」
「――ええ」
どうしても、と俺は言葉を零して窓を見る。
強く硬く言い放った言葉は意思が固いように彼には聞こえただろう。その裏側が如何に反対であるのかなど知らず、俺は何処までも無謀な未来に挑戦する愚者として見られるに違いない。
人々は俺をきっと馬鹿だと思うだろう。それは間違いではなく、確かに俺は馬鹿そのものだ。
晴天の空とは真逆の心境に、心は暗く重くなる。無くならない重石は既に許容を超えていて、されどそれでも持たなければ生きていけない。
酒が飲みたいと、思った。全てを忘れてしまいたいと願い、されど自分の口からどんな本音が出てくるのかを知っている身としてはそんな危険な飲み物など飲めやしない。
何時かこの重石は外れるのだろうか。そして外れたとして、自分はその時どうなるのだろうか。
浮かぶ疑問の数々に答えは出ず。故に俺は自由に空を舞う鳥を睨んだ。
――――――――
泣いて、泣いて、泣き続ける。
泣けども泣けどもそこに意味は無く。泣いたところで何も変わらない。
そこは地獄の牢獄。誰にも侵入出来ない、深層心理とされる本人が知らぬ本人が居る場所だ。
何も無い暗闇の世界の中で奇妙な事に一人の少女が蹲り、年相応に泣き続けている。
されど誰も居ないが故に手を伸ばす者も無く。彼女はひたすらに涙の滴を地面に垂らすだけだった。
しかし、それを見ている者が居た。
身体は無く、あるのはただの精神のみ。身体の感覚が喪失している状態で、それでも彼女は確かに少女を見ていたのだ。
『何、これ』
女性――サウスラーナは見る。
そこに居る、幼き頃の自分の姿を。こんな場所など知らぬし存ぜぬが、何故か不安を抱かない。
夢なのだと結論を弾き出すのにそこまでの時間はかからなかった。そしてそうだと認識すれば、最後に自分がしていた事を思い出して納得する。
あの日。定期テストでノースとグラムが共に多少の火傷を負っただけの状態で発見され、そのまま医務室にまで運ばれた。
グラム側は公爵家専属の医者が連れて行ってしまったので医務室にはノース一人だけとなり、その看病としてサウスラーナが傍に居たのだ。
結局その日は彼は起きる事は無く、医者からも就寝時間であると追い出されて自分の部屋に戻ってきていた。そしてそのまま無理矢理眠り、此処に辿り着いたのである。
彼女は辺りを見渡す。やはり何も見えない闇ばかりが広がり、まかり間違ってもこんな場所に誰かが住んでいるなどというのはあり得ない。
しかも目前には小さい自分だ。これが現実だとは絶対に思えず、故に彼女は目覚めるまでの暇潰しと未だ泣き続ける少女の元へと感覚の無い足を動かした。
接近していると解るのは単に少女の姿が次第に鮮明になっているからで、そして細部が解るからこそ今彼女の着ている服が思い出深い物であると知る。
それは親にお見合いだと半ば強引に着せられた深紅のドレス。金の装飾が目立つその恰好は幼い少女には似合っていたが、しかし彼女は自分のその恰好に苦笑いを浮かべる。
当時の彼女は、今と然程変わらずかなり男性に対して高い要求をしていた。
参考にした本は物語に出てくる男性で、しかも英雄譚に出てくる主人公。そんな人物でなければ嫌だと思っていた自分はしかし、やはり侯爵という家の者である以上は社会の流れには逆らえなかった。
用意された婚約話は数限りなく、そこには驚くべきことに公爵家の名まである。
両親は素行を調査した上でその婚約話を持ってきたのだから、やはり嬉しかったのであろう。
英雄としての名前を持つとはいえ、やはり家を存続させていくには大きな存在が必要となる。それは功績であったり、王家という存在そのものだ。
特に公爵家というのならば結婚出来る格としては最上級に近い。受け入れて然るべきであり、だが両親が最初に紹介したのは別の人物だった。
両親の親友の息子。写真に映ったその顔はあどけない少年そのもので、それ自体はまったくもって普通。
秀でた何某かがある訳でもないその少年を提案をしたのは、多分に親同士の関係を強くしたかったからに他ならない。
無論それが無くとも親達の関係は強固なものだろう。
たかが結婚話一つで関係が変化する程親達の仲は曖昧ではない。
故に彼女に提案したのは、単純にただの思い付きのようなものだった。
公爵家との繋がりは確かに欲しいが、そこに愛があるのかと問われると非常に疑問が残る。逢瀬を繰り返せば愛が芽生えるかもしれないと思うも、やはり初めての結婚というのは慎重になるものだろう。
初の見合いで失敗が無いとも限らない。そういった諸々の意味も込めて後付けで言うのであれば、関係を強化したいのは事実である。しかし、練習台として彼と見合いをしてみてはどうだろうかとなるのである。
今聞けば憤慨するような話だ。だが、当時の彼女は何も知らない身。親からの提案を冷静に考えた上で、それに了承を示した。
結果としては見事に成功。彼は彼女の理想通りの男であり、将来に関しても他の恋愛話を除けば問題となる要素は何処にも無かった。
――――――本当に?
確信しているサウスラーナの耳元で、突如として少女の声が入る。
何時の間にか泣く事を止めて立ち上がった少女は、サウスラーナの目を見ながら口を動かしていた。
――――――嘘つき。本当は謝りたいくせに。
「何を言っているの?」
少女の顔は涙で濡れていた。しかしそれ以上に、サウスラーナの事を親の仇のように睨んでいた。
その瞳に憎悪を燃やし、殺せるのであれば殺してやるとばかりに手は握りしめていたのだ。
そんな異常な反応を見せる少女に、彼女は疑問の声を漏らす。
嘘つきとは何なのだろうか。謝りたいとは、何についてだろうか。
――――――死んじゃえば良かったんだ、私なんて。死ねばあの人は苦しまずに済んだ。
少女は呪詛を吐く。それは自分に向けて、そして彼女に向けて。
深く、深く。地獄の底から響く恨みの叫びは、天を壊さんと暗黒の感情で覆われていた。
意味不明。理解不能。正しく少女を見る彼女の気持ちはそれである。
一体どうして自分が自分に恨まれるのだろう。
そう思おうとして、瞬きをした次の瞬間には少女は目の前に立っていた。驚きのあまり彼女は二歩程後ろに下がるが、目線だけは固定化されているかの如く動かせない。
まるでそうしなければならないように、自分の罪を正しく認識しろと言われているように。
――――――死ね、死ね、死ね、死ね。死ねばあの人は生きていられる。私との事なんて忘れて自分の人生を謳歌してくれる。
「馬鹿な事を言うもんじゃないわ。彼が私を忘れるだなんて有り得ない!」
響く言葉に苛立ちを覚え、彼女は自分に向かって声を荒らげた。
それは否定だ。彼女の存在そのものを否定する、正しく己の理想こそが正しいとする言葉に他ならない。
私が死ねば彼は苦しむ。私を忘れるなんて彼には出来ない。
だってあの日に約束したではないか。あの日……あの場所で……約束して――
「……あれ?」
此処は深層心理の世界。彼女の世界が此処にある。
故に知りたくない事実も当然此処にあり、そして彼女は到達してしまうのだ。
あの日の事を。二人で将来を結んだ日の事を。そして約束した日の、彼の顔を。
彼がどんな顔をしていたのか。その事実を思い出し、彼女の心に一滴のシミを作った。それは所詮気にする必要の無い程度の小さな黒い一点だったが、切っ掛けとしては十分だ。
故に少女は嗤う。今まで忘れていた目前の女に。覚えていたのに何も出来なかった自分にさえ嗤い、人差し指を突き出して夢の終わりを宣言する。
――――――笑ってたと、本気で思っているの?
同時、サウスラーナの意識は暗転した。それは自己防衛本能によるものだったのだろう。
最後に意識が完全に消失する刹那、彼女は聞く。何処までも何処までも暗く悲しい、涙に濡れた笑い声を。全てを地獄に変えてやるとばかりに――少女は闇の世界で吠え続けた。
これで一章は終了です。次からは少し時間が飛びます。