24.冷たい右手
初瀬がそのレストランに着いたのは20時を過ぎた頃、ここに来るのは2度目だ。前回は理事長と共に次期理事候補としての話をもらって以来だ。だが、今日はそんな浮かれるような話では無いのは明白。連日浴びるほど酒を飲んでも胃をやられたことなどないのに、今日ばかりは既に胃が焼けるように痛い。そんな初瀬の気持ちとは裏腹に、落ち着いたクラシックが静かに響く。
この会員制のレストランのエントランスは、薄く暗く照らされた店内に合わせるように、全ての調度品が落ち着いたブラウンで統一されている。唯一、飾られた生花だけが豪華に美しく咲き誇っていた。
支配人自ら店内の奥へと案内される。全て個室であり、しっかりとドアで仕切られているそのレストランは聞かれたくない話をするのには都合が良い。
「こちらでございます。」
静かな声でそう告げると、支配人が扉を3度ノックする。
すると中から返事をする声が響く。
「竹中様、初瀬様がお見えになりました。」
「通してくれ」
その言葉を聞くと、支配人が恭しく扉を開いて初瀬を中へと通す。
「もう下がって構わない」
そう竹中が伝えると、支配人は一礼して扉を静かに閉めると去っていく、部屋の中は黒いテーブルと椅子が4脚、しかし座っているのは1人だけ。
「突っ立っていないで座ったらどうだ初瀬君」
「……失礼致します。」
そう言って、理事長の真向かいの席に座る。
理事長の竹中が、ワインを一口煽るとそのグラスをテーブルへと置く。
「まぁ、まずは駆けつけ一杯」
そう言うと、既に用意してあったさらのワイングラスにドバドバとグラス半分くらいまでワインが注がれる。まるで安酒のように扱われているが、見れば1本5万はする赤ワインだ。胃の調子が悪いので遠慮すると言えたらどんなに良いか、生唾を飲み込んで
「頂戴いたします。」
と、そのワイングラスを受け取って一口飲めば、口に広がる芳醇な香り。体調が万全な時に飲めたらどんなに良かったか、キツイアルコールが胃に染み渡るようだった。
「随分と顔色が悪いな初瀬、図太い神経の君でも流石に今回は精神的に参っているようだな」
「沼田とは20年近く共に仕事をしてきたので、身内を失ったようなものです。」
「フッ、そんな心にもないことを言うな。お前がそんな奴じゃないことは私以外もわかっている。医局員もだろうな、お前の普段の振る舞いは私の耳にも入っていた。外科というのは体育会系気質だ。
珍しいことではないが、まぁ、反感は買いやすい。」
「……。」
「君をここに呼んだのはもちろん事件に関してのことだ。
警察はどうやら君を容疑者として見ているらしい。
一度、君には話を聞いているがその際は全くの無関係という話だった。
実際はどうなんだ初瀬?警察がここまでお前のことを調べている。
本当に思い当たる節がないのか?」
「……本当に……ありません」
「マスコミは抑えているが、学生や職員達が書き込んだSNSにより今回の事件がニュースに取り上げられなさすぎる。大学が抑えているのではないかと、ここのところ大学も病院もどちらも批判の電話で患者の電話が繋がらない状態だ。」
「全て話せ初瀬、火のないところに煙は立たない。
流石に殺人などと馬鹿な真似は犯すような奴ではないと、高校の後輩のよしみで庇ってきた。
だが限界がある。警視庁高官に私の従兄弟がいるが、奴の話では現場は君が今回の事件と白骨化遺体について何か知っていると睨んでいるようだ。
……お前は一体何を隠している?」
「……何も、隠してなどおりません。」
しっかりと、竹中の目を見つめながら答えれば、ふぅーっとため息を吐き出す竹中。
「お前が無関係であると言うのならば、大学としては警察へ全面協力する。
君もそうしろ初瀬……。
お前の保身の為に、我々を道連れになどしてくれるなよ。」
「……勿論……心得ております……」
そう答えれば、竹中はフンっと鼻を鳴らすと席を立つ、それを追うように自分も席を立とうとすれば手で制される。
「……白骨化遺体は右手首が欠損していたというが、1号館の地下にそれがあると警察は踏んでいるらしい。次から次へと、まったく頭が痛くなる。
はぁっ……江口議員とこれから会食でね。
私はこれで失礼する。
初瀬、お前はここで食事でもとっていけ、どうせ酒ばかりでまともな食事を取ってないんだろ。顔色が悪いにも程がある。疑われる様な事がないなら堂々としていろ!良いなっ!」
そう言い終えると、小さな黒い革製のハンドバックを持って部屋を出ていった理事に、姿が見えなくなるまで頭を下げ続けた。
竹中が見えなくなったところで、ふらつくように個室の席へと戻る。警察が私を容疑者候補として見ている……。
止めろ、違う、私じゃない……。
右手首が欠損していた遺体……その右手首が1号館に……。
異常に冷たい自分の右手、その右手を左手で掴んで自身の体温で温める。沼田の死以降、何故か右手だけが冷たいまま、温まることのない自分の右手、何故、有り得ない。そんな馬鹿な話あってたまるか……。
自身が見えない何かにじわじわと追い詰められていく感覚、何から逃げれば良いのか、どこに逃げれば良いのか、逃げたところで本当にそれから逃げ切れるのか?
嫌だ……もう嫌だ……精神的に追い詰められていく……誰に何をどう助けを求めたら良いのかもわからない。
「もう……もう許してくれ……頼む……」
テーブルに突っ伏し、頭を抱え、涙声になって呟いた言葉は誰の耳にも届かず虚空に消えた。




