第一話 レモンバーベナの香り
――間に合わなかった。
目の前で、人が死んだ。
ブレーキの音。
悲鳴。
そして、鈍い衝突音。
すべてが、やけに鮮明だった。
倒れた人影。
赤く広がるアスファルト。
手を伸ばせば、届いた距離だった。
――助けられたはずだった。
ほんの一瞬。
ほんのわずかな判断の遅れ。
それだけで――
「……なんでだよ」
震える手を見つめながら、俺は呟いた。
その瞬間――
世界が、巻き戻った。
「トシノリ、この花……いい香りだね」
あまりにも、穏やかな声だった。
振り返る。
そこには、ルルがいた。
何も知らない顔で、微笑んでいる。
レモンバーベナの葉が、風に揺れていた。
――さっきまで、人が死んでいたはずなのに。
「……ルル?」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
ルルは首をかしげる。
「どうしたの?ぼーっとしてるよ」
違う。
“ぼーっとしていた”んじゃない。
俺は見た。
人が、死ぬ瞬間を。
「……なあ、ルル。さっき、外で……」
言いかけて、やめた。
窓の外を見る。
いつも通りの街。
いつも通りの人の流れ。
事故なんて、どこにもない。
「……いや、なんでもない」
ルルは少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに笑った。
「変なトシノリ」
その笑顔に、胸がざわつく。
本当に――何もなかったのか?
視線を落とす。
自分の手。
さっきまで感じていた震えが、まだ残っている。
夢じゃない。
あれは、現実だった。
「……なんで、覚えてるんだ……」
小さく呟く。
ふわり、と風が吹いた。
レモンバーベナの葉が揺れる。
――その瞬間。
世界が、ズレた。
まるで、現実がワンテンポ遅れて追いかけてくるみたいに。
「……っ!?」
足元の感覚が一瞬だけ消える。
景色が、わずかに遅れて動く。
「トシノリ?」
ルルの声。
その声すら、ほんの一瞬遅れて届いた。
「……今の、なんだ……?」
心臓が、強く鳴る。
嫌な予感がした。
さっきと同じだ。
何かが――起きる。
キィィィッ――!!
遠くから、ブレーキ音が響いた。
反射的に顔を上げる。
「……まさか」
その音は、さっきと同じだった。
同じタイミングで。
同じ場所で。
「ルル、そこから動くな!!」
叫ぶ。
体が、勝手に動いていた。
外へ飛び出す。
視界の先――
人影。
迫る車。
そして――
「――間に合え!!」
走る。
考えるよりも先に。
今度こそ――
目の前で、死なせるかよ。




