黒白の刻3〜清き水霊〜
「ぁぁあああ゛あ゛ッ!? 眼ガァア!?」
眼がッ、鼻がッ、熱イィッ——何故この私が苦しむ?
我が身に歯向かう矮小な存在をこの爪で引き裂いた筈だというのにッ——何故ッ!!
「何故ッ……この私ガァアア——ァッ!!」
痛みに変わった熱と、激しい怒りが混ざり合う。眼を開けようと試みるが、最早、身体の神経を執拗に犯し続けるソレは精神で抑えきれるモノでは無く、拭えども拭えども暴走し始めた生体反応により体液が止め処無く噴出する。
何を受けた?
遅発性の呪文……いや、毒の類か?
何れにせよ、このままでは……ァアッ……クソッ
痛い、苦しい、憎い……憎い憎いにくいニクイニクィッ!
この苦悩、感覚、これがッ……この世界に生を受けた者の軛という訳か——〝主〟よッ!
「ハァアア……ッァッ…………?」
荒れ狂う感情の渦。それに呼応するかの様に足元がふらつくと、足裏に捉える地面の感触が変わった。ヒヤリと指先から熱を奪ったその感覚に誘われ、一歩、二歩……深みに足を進める。徐々に抵抗が大きくなり、皮膚に纏わりつくような感覚が膝下まで広がっていく。
ぉぉおッ——水だ!
そうだ、水で洗い流せば——
〝——m m m……〟
直ぐさま詠唱する。水源から止め処無く流れる水流、それを成す水そのものに呼び掛ける。好む術式では無いが、とやかく言う場面では無い事は明らかだ。
〝歌えッ……清き水霊……〟
吟唱歌を紡ぎ出す。一拍おいて、河に触れる肌を通じて水が震え始めるのを覚知した。そのまま詩を続け力を与えれば、振動する水球が徐々に集い始めるだろう。
創造するは、限りなく清い水……全てを溶解する純水だ。しかし、感情が邪魔をする。韻律が乱れているのだ。雑念が混じり想像とは程遠い、小さな水泡が幾つも川面から浮かんでは歪な楕円を形作って、水球を成さずに次々と弾けていく音が耳に届く……眼さえ開けばこのような水球の構成など造作も無いというのに——クソッガァ!
〝歌エェッ! 清き水霊ッ…………ロォオレェラァァ゛ィィッ!!〟
己から噴き出した怒気が吹き荒ぶ。水泡が一気に膨れ上がり悲鳴をあげながら一気に弾け飛んでいた。その刹那——
〝……uaah……〟
音色……弱々しい音だ。激しく響く心臓の鼓動よりも小さく、爆ぜる水泡の悲鳴よりも可憐で……しかし、確かに聴こえたその小さな音。
焦り、戸惑い……これまでに感じたことの無い忌まわしき感情に混じり不意に聞こえた歌声。その音に違和感を覚えた。今迄数多の詠唱を行ってきたが……こんな現象は一度も無かった筈だ。これは一体——
耳を澄ます。すると、響く吟唱歌に共鳴し、その何者かの歌声は先程よりも明確に音を伝えた。やがて……この音程を取れと、此方を先導するかの様に歌い始める。
あぁそうか、これは……水霊が奏でる歌声か。聴こえる。人の身であった時よりも、ハッキリと手に取るように水分子の振動音が……ローレライの歌声がッ!
これこそがこの素体の特性かッ! 人間よりも遥かに高音域の音を捉える事が出来る獣の能力因子を備えているという事か。これならば————
〝——万物を魅する歌声にて、我が身を縛る夾雑物を水底へと誘い給え……〟
落ち着きを取り戻し、奏でられた主旋律を通して想像が鮮明化される。その音程に喜ぶ様に水泡が水面から飛び跳ね始め、収縮と膨張を繰り返した。重なり合いながら一つの大きな水球となり、その過程で分解、再構築を経て不純物が取り除かれていく。その輝き……さながら磨き上げた水宝玉の如く。
〝儚き水の乙女よ……奇しき魔歌響かせて……苦難の刻を……浄め流し去れ〟
どぅぷぅん、と吟唱詩が終わるとともに篭った音が脳内に響いた。微振動を続ける大きな水球が頭部を中心に纏わりついたのだ。そして、神経を蝕む異物を取り除き、過分に失われた水分を身体に補給させる。
やがて、振動が弱まるにつれ力を失った水球はパシャリと力なく崩壊した。未だ違和感の残る我が身に生えた長く丈夫な体毛を伝い、再度水面へと還っていく。
「クク……クハッ!」
身震いし身体を伝う雫を四方八方に弾き飛ばした。
痛みは……既に無い。
眼をゆっくり開ける。
猿が何か喚いていた。
先程同様鉄棒を携えながら此方へ単調に突っ込んでくる。沸騰しかけていた怒りは冷め、研ぎ澄まされたナイフの様に先鋭化されていた。遊ぶ必要は無い。
目の前にいるのは主の再誕を阻まんと彷徨く猿共。この爪で四肢を毟り取り、小蟲の糧とすればよい。
確か、高地人種の類と言ったか?
魔術への抵抗値はそう高く無いだろう……ならば、吟唱歌で葬るか。
この身に受けた屈辱……心の奥底まで知らしめてやろう……
*****
「何だ? あいつ……何を?」
先程まで、香辛料の刺激に耐え切れず咆哮していた人狼が、川の中程まで狂った様に進むと、ブツブツと口許を動かしていた。
「あれは……詠唱か!」
背後で腰を降ろしていた四葉が声をあげる。言われて、人狼の様子を一瞥すると、奴の周囲の水面が波立ち小さな飛沫がポツポツと弾け始めていた。とはいえ——
「詠唱って、何のだよ? あれじゃよぉ……」
水泡が浮かんでは沈み、浮かんでは沈み……どうやら詠唱が安定しない様で、人狼が苛立ち吼える。つまりは、ただの水遊びに過ぎない。
「いや、待て……この旋律は」
呆れる俺を余所に、四葉が目を細め人狼の口許へ視線を投げる。写し取るかの様に四葉も唇を動かした。
「清き水霊……水底へ…………魔歌ッ——解毒の調だ!」
「は? 蔵留守……盗みの好機じゃねぇかよ!」
そんな便利な呪文が、この世に存在しようとは……不覚、知らなかった。
「阿呆ッ! くらりっ……ちぃッ——解毒だ。げ・ど・くッ! どっかの誰かさんが仕込んだ激辛香辛料とやらを洗い流す気だぞ!」
「何ッ!? 小狡い野郎だな……」
「いやいや、それお前が言える事か?」
四葉が何か苦言を呈した気がしたが、気に止めはしない。取り敢えず、その解毒の調とやらが終わる前にトドメを刺すか。
駆け出し、視線を前に向ければ、川面から生じた大きな水球が膨らむ様に広がり麗しい乙女の姿を模して、そっと両手を伸ばし人狼の上半身を包み込んだ——どうやら解毒の調とやらは既に発動したようだ。だが脚は止めず、途中、初っ端に吹っ飛んでいった剣鉈を拾い上げ、鉄棒の先に嵌め込みながらなおも駆ける。
「——九十九、待てッ! 何か変だッ!」
「断るッ! 速攻あるのみッ!」
呼び止められ右後方をチラリと見れば、眉間に皺を寄せ思い詰めたような表情の四葉が制止するが、構わず脚を前に進めた。
確かに、思うところはある。いや、だからこそ暇は与えたく無い。正面で俯き、ダラリと腕を伸ばしたまま立ち尽くす人狼を捉える。
五歩……いや、三歩か
目測で残りの大まかな間合いを測った。
一歩、二歩、初めの二つは歩幅を短めにして大腿部に力を込め、最後の三歩目で跳躍。その頂点で前方に一回転加えて重心を前に移動、飛距離を稼ぐ。眼下の人狼に未だ動きはない。足先が河に触れ——着地。同時、水面が爆ぜる。
この身体を中心に大きな波紋が円状に広がり、その直上で爆ぜた飛沫が煌めいては、逃げ惑う夜光虫の如くさんざめく。その向こう——人狼がフッと口許を歪めた。
「フゥッ!」
肺に溜めた古い空気を吐き出すとともに、真後ろに伸ばして、着地の衝撃を力に変えて溜めておいた右腕を一直線に突き放つ。
握り込む即席槍の先端に填めた剣鉈の刃が、飛沫の一粒一粒を両断し、其れ等は耳に届くかどうかという位小さく、けれども甲高い悲鳴をあげては消えていく——が、放つ刃は指先一つ分、届かなかった。
見誤ったか?
動じず、直ぐさま槍の柄を掴む右掌を開く。勢いのついた槍が手の平を滑りそのまま前方に押し進んだ。
ほぼ同時、それを追って川底を擦る様に左足を一歩前へ出し、左手で宙空に放たれた槍の末端をパシリと掴み込む。
しかし……いや、やはりと言うべきか、先程同様指先一つ分の間を空けて、刃は人狼の喉元に届かず、じっとそれを睨んでいる。
なかなか動けるじゃねぇか……
さらに一歩、体を入れ替える様に右脚を進め、鉄棒の中程を右拳で叩きつけると——くぁんと、それを掴む左掌の中で柄が上下に暴れ大きくしなった。
剣鉈が跳ね上がり、人狼の頭、首、胸元、腰、脚と舐める様に往復し其れ等を睨みつける。その反動を利して槍を突き放ち、引き戻す。また突き放ち、引き戻す。
瞬きの間に、脚、頭、胴を狙い、三度突きを放った。手応えはない。腱を断つ手応えも、頭蓋を砕く反動も、肉を抉る感触も——何も得られなかった。
当然かな。踊る様な足取りで体を入れ変え、上体を反らし、最小限の動作で躱されているのだから。
そして、三度の突きを放った事で失われた僅かな時間。人狼に反撃の間を与えるには充分過ぎた。攻守が変わる。
槍のリーチを潰そうと、こちらが引き戻したのと同時、一気に肉薄。爪が迫る。右上段……いや、左下方からも時間差で挟み込む様に来ている。
それを認識するやいなや、引き戻した槍の中程を両手で把持し、槍の穂先で右上を、柄の石突で左下方の攻撃を弾いた。
強固な獣の爪と鋼鉄がぶつかり合い、火花を散らしながら互いが咆哮する。
まだ終わらない。足元の水面が途端に盛り上がる。水の抵抗など意に返さず蹴り上げられた右脚が顎先を掠めた。
一呼吸置いて、巻き込まれた大量の川水が宙空に舞い上がり、まだ生きていた火花を嘲笑うかのように飲み込んだ。その飛沫が、こちらの視界を覆う。
——ッ!?
睫毛に触れた、その小さな刺激に反射して……瞼が閉じる。己の視界が白黒の世界からほんの一瞬、完全なる闇の世界へと移った。
〝……踊れや踊れ、水の乙女の子供達……〟
此奴ッ——何時から詠唱してやがった?
再び瞼が開いた時、人狼の詩が耳に届くと共に、己の眼に拳大の無数の水球が映っていた。
重力に逆らい宙空に浮かび上がっている様は、思わず目を止める燦爛たる光景。
しかし……異様であった。
それ故に、気圧される。
そして、無意識の内に、僅かに加重した右足の裏で川砂利が鳴いた。
おいおい……冗談だろ?
水が無くなっていた。
僅か一拍にも満たない瞬きの狭間に、まるで其処だけ切り取られたかの様に川の水が失せている。
こちらと人狼を中心に、膝元まであった水位は僅かに足裏を濡らす程度となっていて、人狼が放つ詩の調べに共鳴し、一つ一つが打ち震えていた。水塊は膨れ上がり、中心に生じた渦がさらに周囲の水を吸い上げる。
視線を巡らせ、其れを六つ数えたところで、心の中で指折り数えるのを止めた。
ちぃッ! 七面倒臭ぇッ————総て、叩き潰す!
「弛ッ!!」
短く息を吐き出し、体の硬直を解いた。詠唱が終わる前に全ての水塊を叩き崩す。初見の術式を打ち破るにはこうするのが一番手っ取り早い。振るう槍の両端が風切音を鳴らしながら正面の四つを打ち砕く。
浮かぶ水球は見た目以上に抵抗が強かった。少しでも腕の力を緩めれば、この槍すらも呑み込まれてしまうのではと錯覚するほどで、失せた川水がこの水球に圧縮されているのが容易に想像出来た。
両断、あるいは圧潰された水球は、その球状を維持することが出来なくなり、次々と崩壊、爆発的に膨らんだかと思うと、喊を挙げ、戦鼓を打ち鳴らす戦場の如く、雄叫びを上げて、大量の水蒸気と水流を産み出した。
人狼の独唱から始まった詠唱
重なり合う清き水霊の重唱
力強く鳴り響く水太鼓が激しい音響を加えて——その楽曲が終幕を迎えた。
水球の崩壊と共に、詠唱が消える。これで全部か?
側面の一つを圧し終えた時には、川に流れが戻り、周囲には靄が厚く翳っていて人狼の姿を見失う。
——耳鳴り。
先の崩壊音によるものか。
鼓膜が馬鹿になってやがる。
苦手な鐘の音を耳元で打ち鳴らされているかと錯覚する程、キィンと甲高い音が続いていた。
眼と耳を奪われた。
水の檻という訳か。
これが狙い……いや、本命がある——ッ!?
刹那、未だ側面に伸ばしたままの右腕が肩口から真後ろに、関節の動きを無視して持ってかれる。
その衝撃で身体ごと浮かび上がり、錐揉み、眼の前で天地が何回転かして川辺へはたき落される。
「——グッ!?」
激しい眩暈。吐気……と、これは——痛みか。久方振りのその感覚に戸惑いながら左腕で身体を支え、膝を立てる。
口内に渋味が広がったのは……鉄の味だ。それが混じった唾液を吐き捨て、面を上げる。
徐々に焦点が戻ると、正面に捉えた人影が人狼の姿を型どり、川からゆっくりと上って来ていた。
「ゴホッ……」
一つ、圧しきれなかったか。
吹き飛ぶ直前に見えたのは、靄を突き破り此方に飛んできた水塊。それが右腕にぶつかり、爆ぜ、腕ごと持って行かれたのだ。
ちぃ……やはり、獣化の最中に最大級の攻撃を加えておくべきだったか。
外れた肩を填め込みながら、そんな事を考える。これまでの経験上、変化するわけのわからねぇ奴らは、その途中に攻撃を加えれば何の抵抗も受けること無く倒すことが出来た。
大型獣脚類へ変態しようとしていた火蜥蜴もどきも、自動人形になろうとした泥人形たちも、戦いの前に口上を述べる紳士気取りの連中も全て、その手法で倒して来た。
奴らに変身する間を与えるなんざ、俺の信条からすれば相反する話だ。それに——あの程度の事で取り乱すとは……
「ククッ……圧倒的ナ力量差ニ愕然としたカ? それガ貴様ら劣等血族ノ限界ヨ」
人狼が満足気にそう言い放った。
……確かに、この身体は脆い。
俺の想像以上に。しかし、そんな事よりも明らかにせねばならない事があった。立ち上がる。人狼を見据えて。
「いや……こんな小便臭ぇ小技、児戯にも等しい」
「強がるなよ猿めガッ! 良いだロウ、試してヤる……それでもマダ、その様ナ戯言を吐けるカナ?」
言って、人狼が大地を踏み鳴らした。一踏み、二踏み……震える川砂利が互いを打ち付けあいながら、カタカタと震え始め、足元が揺れ動く。
「この波……糞、上等じゃねぇか」
その震動を足裏で捉えながら、かつて相対した連中の姿が脳裏に浮かんだ。
道理で、と思う。
常夜乃者達が蔓延り、人が神々を頼り、闇に怯えて互いに殺しあう世界。そこに俺がいるということは……やはり、そういう事なのかと。
遣る瀬無さと、己への憤りと、言葉に表せぬ幾つもの感情の波が渦を巻く。
「「喜び叫べ……」」
詩が重なる。大地が身体を突き上げた。この場に響くのは、人狼が紡ぐ吟唱歌と、それを追唱する俺の声だ。
【用語解説】
○解毒の調
数種ある。激辛香辛料に毒されたアイスナーは、川水から純水に準じ、微振動を続ける水球を作り出して、顔面に付着したソレを取り除いた。時代が違えば超音波洗浄機として重宝された事だろう。
○水霊
水辺に存在する聖霊。澄んだ歌声で男を魅了し、癒しを与えるが、猛ると濁流を生み出して、何もかもを川底に呑み込むと畏れられている。




