黒白の刻4〜原初の詩群〜
〝喜び叫べ……〟
その言葉と共に、足元の地表……いや、それだけじゃ無い。この眼に映る全ての物が奮え、猛り、歌い始める。感じたのは——畏れ。
訳など語る必要があろうか。
生きとし生けるもの全てが、その呪縛から解き放たれることは無い。
そう、この大地に惹きつけられているのだ。空を飛ぼうが、海へ潜ろうが、この大地の呪縛からは逃れる事が出来ない。それが、此の世に生を受けたものの定めだ。
この足元——大小種々の砂礫、或いは想像も出来ぬほど巨大な磊塊、それらの下に何があるのか……私は、知らない。
なのに……いや、だからか。知らぬから、恐ろしいのだ。脚は震え、身体を両の腕で抱き締めるように抑えつけども、この身は自ずと震え続け、上下の奥歯はガチガチと何度もお互いを打ちつけあった。
行軍が踏み鳴らす軍靴の足音、或いは戦場を波打つ鯨波の如く、その音がこの心の臓を叩く。強く、強く、叩いたのだ。
それは、本能を容赦なく揺さぶる大地の胎動。これより起こる事象の激しさを物語る……だが、胸に抱いた畏怖の狭間に起こったのは、未来の出来事よりも、今まさにこの眼に映る光景への驚きだった。
——九十九。何故……何故、お前がその詩を知っている!?
吟唱歌を紡ぎ出すとほぼ同時、九十九が人狼と同じくその言葉を発していたのだ。二人の紡ぐ詩が大地の叫びと共鳴を起こし、張り詰めた空気が一気に爆ぜる。
〝地を這う杖よ、贄を与えよう。
甘く甘く瑞々しい新たな贄を……〟
「——ッ!」
頬を叩いた暴風に視界が歪んだ。右手でそれを遮り指と指の隙間から覗き見る。一考すれば、灰ノ国と術式系統の異なる吟唱歌を九十九が使える道理は無い。無い筈だが……双方から発せられた詩が大地を震わせているのは確かだ。
その現象に驚いたのは私だけではなかった。人狼もまた、予期せぬ九十九の同時詠唱に驚愕し顔を歪ませた。
ならばこれは、九十九お得意の謀略ではないと……そういうのか?
〝迸る血潮は甘露の如く……
食む骨肉は仔羊の様に柔らかい……〟
詩は続く。
不揃いだった礫の泣き声はやがて一つの大きな畝りとなって、異方向から響く互いの音を呑み込まんと何度もぶつかり合った。
その衝突により生まれた力の残滓が九十九と人狼を覆ったかと思うと、具現化された刻印が中空を走り、複数の円環を成して、二人の術者を包み込む。
「これは……何だ?」
見知った術技の何れにも合致しない現象を目の当たりにして、眉間に力がこもる。二人が奏で始めたのは吟唱歌ではなかったのか? 予想に反する光景。其れ故に心が荒ぶ。恐怖が膨れていく。
吟唱歌でないならば、これは一体何だと言うのだ?
アルビオンの教会術式?
それとも、ベルデの新しい術式形態か——いや、違うッ!
そもそも次元が異なっている。これは其れらよりももっと高位の……いや待て、聞いた事がある。
ヴェルデ帝国がアークレシア大陸に興る以前……神魔戦争の折に、大陸北方を支配した人を超越せし者共が己の眷属を従えるために奏でた禁忌の魔歌——
〝啞々……贄の啼泣が御前の中で響くだろう……
湧くがいい、此の日地底から解き放たれることに……
晒すがいい、その醜穢な醜き姿を。
喚き響かせよ、その穢らわしい不協和音を!!〟
「————原初の詩群」
〝刻めッ——其の魂魄に大地の猛りを〟
先に響いたのは、人狼の雄叫び。遅れて……九十九の声が後を追った。
一時の静寂………視界が歪む。
いや、既に歪んでいた。知らぬ間に、何度も、大きく、上下に。
「——ッ!!?」
世界が静まっているのではない……その逆だ。震えている。全てが、かつてない程に大きく、力強く震えているんだ。
これは、そう、音すらも吞み込む程の……激震。その揺れに気付いた刹那、人狼の足下から隆起した砂礫が、自ら意思を持った様に集い、鋭い突起を有した岩石を幾つも形成。
打ち付け、爆ぜ、折り重なり、交合し、礫は岩石へ、岩石は磊塊へと至り——ソレは、此の世へと顕現した。
空気を裂く不快な歎声——そして、高く高く昇った土煙の垂幕。
勢いよく盛り上がる地表を押し退けて、礫を撒き散らしながら巨大な石柱が勢いよく天へ駆け登った。目で追う暇も無く、直ぐさま折り返し、再度地中へ潜っていく。
大きな揺れが治る……なのに、立ち上がろうにも、身体の自由が効かなかった。脚が震えている。其処に杭で打ち付けられたかの様に動かない。ズズズ、と腰を下ろす地面の真下を何かが蠢いた。
「ぅ……」
息を飲む。既に汗は冷え切り、脂汗すら毛穴の奥に引っ込んで、背筋を通る神経は凍りついている。腰の後ろから脳天まで寒気が一気に突き抜けた。
何時取って喰われても不思議では無い——いや、何故……まだ生きていられるのか?
そんな疑問すら生まれている。己の眼だけが左右へ何度も往復し、その元兇を捉えようと焦り出す。そして……蠢くモノが地表へ浮上して、ゆっくりとその姿を現した。
巨石と砂礫が交互に織り成す無数の体節構造。
手足は見えず、尾は地中に残し、身体の全様は分からない。
なのに、見上げる程の長大な巨躯。
眼は伺えず、開いた口元……いや喉奥に至るまで無数の石刃が輪環を造る。
光届かぬ大地の奥底から呼び出された化物が求めるのは——血肉。
「馬鹿な——此奴は、討ち滅ぼされた筈では……」
その化物の姿に我が目を疑う。驚く事に見識があった。それは、幼き時に御伽噺を聞かせる様に覡から何度も聞かされた……かつての戦史。
幾人もの英雄達が戦い、打ち勝ち、敗れて、また新たな英雄が踊り出す。その英雄譚に現れる幾多の神獣や魔物……到底、人の身だけでは抗えぬ超常の存在。
故に——間違いであってくれと、錯覚であって欲しいと、心が渇望していた。けれど、この身に受ける重圧がその存在が確かに其処にあることを告げている。
かつて訪れし審判の刻に、世界を覆い尽くしたとも謳われた……世界の裏側、大地の深淵を統べる魔族の一柱——
〝世界蛇〟
「その眷属——〝地竜〟が何故……」
何故、此処に。一体どうやって……やはり既に神魔が解放されたと、ヴェルデが封印を解き放ったというのか!?
いや、待て……仮にそうだとしても、どうして九十九がその旋律を知っているのだ?
そうだ……彼奴は————
——破裂ッ、と逡巡の狭間に聞こえた小さな破裂音。其れが何なのかわからず、その方向を見やる。九十九だ。
九十九が突き出した右腕を包む藍染の外衣、厚手のそれが内側から膨張し、袖口から肩口にかけて繊維を解きほぐしたかの様に破れた。
そして、露出した九十九の右腕部。蛇の鱗を模した漆黒の格子模様が刻まれたそこに浮かぶ血管が、異常に膨れ上がったかと思うと——飛沫、黒の奔流。
色なき世界故に、一瞬何か分からなかったが——血だ。膨れた血管と筋繊維により表皮が過度に伸展し破裂。九十九の右腕が悲鳴を上げ、血潮を噴き出したのだ。幾つもの裂創が腕を走る。あの現象はまさか——
「——許容限界!?」
今まさに行使せんとした原初の詩群の求める魔力が、九十九という個体が持つ許容量を超えたが故に、術の始動時に体内を奔った魔力の一部がその身体へ外的損傷を与えたのだろう。だとしたら、このまま術を使えば……恐らくッ
「九十九————無理だッ! 呑み込まれるぞ!!」
思わず叫んだ。行使された術が、足りぬ魔力を求めて術者の身体自体を求めるだろう。
そうなれば、人の身体など細胞レベルで分解され、その個人たりうる姿形どころか思念すら残らない。
だらり……九十九が力無く腕を下す。
指先を伝って、腕の裂創から溢れ出た血液が大地へ染み込んでいく。
「ハッ! 驚カセおって、所詮は形だけ真似タ程度の奇術か? 貴様如きに我等が力、扱えると思ウナ!!」
人狼が吼える。
「地竜よ、奴らが贄ダ! 喰らエ——喰らイ尽クセェェッ!!」
その命に従い地竜が動き出し、項垂れた九十九を捉えた。その間も周囲の砂礫を己の体に取り込み、更に巨大化……手足の無い体で地を這う様に猛然と襲いかかる。
ゆらり……その最中だった。
九十九が、おもむろに血塗れの右腕を伸ばしたのは。
「何をして——避けろ、九十九!」
私の忠告に此方を一瞥、しかし何を思ったのか、人差し指を上空に向けて軽く曲げ折り——
〝……天高く昇れ————来いや、地潜〟
歌った——疾うに終わりを告げた筈の詩の続き。一小節にも満たない数句の言葉を。
地竜の口端が迫り、その石刃が身体に突き刺さる瞬間に響いた、九十九の小さな歌声。正気の沙汰とは思えぬ行動。死の間際に、避けるでも無く、逃げ出すでも無く……
ただ、詩を紡いだのだ。その瞬間——空を突き上げる。勢い良く、今か今かと待ちわびていたかの様に。
何が? あれは、そう……蛇だ。
この黒白の世界で黒い黒い輝きを放つ……艶のある蛇だ。
何処から? 下だ。九十九の足下だ。
そうだ……九十九は? 空から地面へ移った視線を、少し上に戻すと、そこにいた。喰われていなかった。ソラを見上げている。
その視線につられて、再度……私も空を見上げた。
化物が二匹いた。
一つは、人狼が呼び出した視界の大部分を占める程に巨大な地竜。もう一方は、九十九の足元から何の前触れも無く駆け上がりし大蛇。
よく見れば腹側が白く、背側は黒の濃淡で独特の斑紋が走っている。身体は細く、体躯も地竜に比べ一回りも、二回りも小さな身体。
けれど、黒光る鱗は岩よりも硬く、強靭に見えた。其の蛇が、地竜の喉元に噛みついたかと思うと、勢いそのままに渓谷の向こう、巨大な崖に己の身体ごと打ちつける。
轟音と共に地形が変わる。崖は大きく抉れ、上方から大量の土砂が崩れ落ち、二匹の化物ごと渓谷に流れ込んだ。水飛沫と土煙が立ち上り、化物のつん裂くような咆哮が響き渡る。
大蛇が地竜に巻きつき強く締め上げると、暴れる地竜の身体は端から徐々に砂礫へと還っていき……やがて、超常の化物は力を失い、ただの土砂へと変わり果てた。
大蛇も等しく、力を失い黒の砂塵となりて消えていった。川の流れはせき止められ、視界には堆積した土砂がつくる小山が出来ていて……
声を出す事が出来なかった。
目の前で起こった現象に理解が追いつかず、戸惑いと驚きが入り混じる。人狼も等しく、ただただ化物らがつくった小山を呆然と眺めている。
「かーぺッ……砂が口に入っちまった」
ただ一人を除いては……
「貴様……」
人狼が視線を戻しその男を睨む。歯軋りが聞こえそうなほどに歯茎を露わにして。
「訳が解らねぇ……といったところか?」
憤る人狼に九十九が言い放った。
「まぁいいさ、別に隠す程の事でもねぇ……ちぃとばかし奪わせてもらったぜ……御前の力の一部をな。ま、御蔭さんで腕の一本を喰われちまったが……」
言いながら、未だ血を滴らせる右腕を一瞥。
「にしても、地潜の幼蛇でこの程度とは……情けねぇやなぁ」
「奪っただとッ!?」
〝力を奪った〟その言質に人狼が反応を示す。そのような事は出来るわけがないと言いたそうに……
「此の世に奪えぬ物なんぞ無ねぇ。それが例え、形無きモノであってもな……綺麗な詩だ。紡ぐ言葉に誤りは無く、奏でる旋律に乱れは無い。御前の詩は確かに綺麗だった」
九十九は、何か噛みしめる様に述べてーー
「だが、詰まらねぇ。詰まらねぇよ、御前の詩は……まるで、誰かに定められた道をなぞったみてぇだろうが」
そう続けた。
「だから何だと——」
「——だから、昔によぉ……〝聴いたことのある詩〟を追唱するのは……大した術技でもねぇさ」
九十九が易々と言ってのける。だが、例え紡がれる詩を知っていたとして、力の波に己の詩を乗せることなど、誰でも彼でも出来る芸当ではなかった。
「——輪唱かッ!? 我が旋律に同調し、追唱追句する事で己が技としたというのか……そんな事が——いや、そもそも原初の詩群を聴いたことがあるなど……貴様一体——」
「魔を統べし者」
「——ッ!? どこでその言葉を——」
「先刻、御前に聞いたよなぁ。誰からその術技を教え請うたのかを。だがよ、此処まで来ればその問いの解なんざ、明々白々……俺の様な阿呆でも解るさ」
「亡者を縛り……獣化式……そして、原初の詩群による眷属の召喚」
何かを思い出す様に九十九の視線が遠くを見つめる。
「そうだ、どれもこれも彼奴らが使ってたさ……そうだろ、人狼?」
九十九の視線が人狼に突き刺さる。
「……だ」
「あん?」
「だとしたら何だと言うのダ? 貴様が何者か知らぬが……それを知ったとこロで劣等種一匹で何が出来るというのダ! この空を、大地を見ロッ! 黒白の刻は訪れたノダ。神魔は封印かラ解放されタ。我等は神魔を利用し、取込み、この世界を再編する!!」
「——阿呆が 」
「何ィッ!?」
「まだ、解らねぇのかよ……その道こそ、神魔の求めた展望だろうが。御前らは利用されたのさ、昔と同じ様に」
「利用された……だと?」
「そうだ、魔族は潜む。姿は見えなくとも人の弱い心、その小さな隙間に胤を植える。おそらく、あの時から……ずっとずっと機会を伺ってたんだろうよ。それを御前らは芽吹かせちまったんだ」
つい、と空を見上げる。
「弱い? この私が弱い…………」
ヒヤリ、空気が冷え——
「————知った様に語るなァァッ!!」
一転、人狼の怒声が響く。それに構わず九十九は続けた。
「御前は、欲に呑み込まれちまった。そうだ……かつての、俺と同じ様に」
「黙れェェッ! 私はあの方に認められた存在だ! 貴様らの様な劣等種とは違う、異なる存在なのだ! その私に弱さなど——」
「そう、其れだ——怒りだ。御前が抱えるその真っ赤な〝我欲〟の色……其れに、呑み込まれちまったんだ」
「チガァア゛ウッ!」
「……劣等血族」
吠える人狼に九十九が告げる。
「ッ!?」
「問うぞ。ヴェルデとやらが至上とする髪の色は何色だ?」
不意に、九十九が人狼に問いかけた。ヴェルデ帝国の双頭鷲騎士団幹部らの髪の色は何色なのかと。
「……」
人狼が押し黙る……そうだ、徹底された血族管理による容姿、能力を備えた子供達から選抜、育成された幹部連中の頭髪は金色だ。
「肌の色は何色だ」
白だ。シルクの様な白だ。
「瞳の色は何色だ?」
青だ。透き通る蒼天の如き青だ。
「……やめろ」
人狼が低く言い放つ。だが——
「そういえば……御前の色は何色だ? 何故髪が赤い? 何故瞳が赤い? 御前の血は——劣等か?」
「やめろ……やめろッ……」
「……それが御前の心の弱さだ。己への劣等感が他者への怒りと変わる。己自身を偽って、裏切者を粛清し、その悲鳴と懺悔の咆哮に身を晒す事で、己が優位性に酔い痴れる。大した趣味だぜ……」
「違う、違う違うッ!」
「だがよ、御前は御前だ。幾ら己を着飾ろうとも、他者を見下そうとも、人は己自身から逃れられねぇのさ。」
「チガあ゛アアァァウゥ……私は変わったんだ……あの方の元で……変わったんだぁぁッ!!」
再度、怒声が響いた。それと共に人狼の両脇で空間が歪む。
刻まれたのは多重に重なる十字の歪み。
先刻目の当たりにした紫色の餓狼を呼び出した省略符。それが、連続的に発生して——亡者が這い出る。
幾百の魂魄が叫び、我先にと手を伸ばした。詠唱が不完全な為か、象られたのは歪な狼の姿。
しかし、両の指では数え切れぬ程の、視界を埋め尽くす圧倒的な数。私が凌いだ一匹の狼など、容易く思えた。
「九十九ォッ————逃げろ!!」
故に叫んだ。人狼と相対し渡り合い、原初の詩群を凌いだ、その男の背中へ向けて。
表情こそ余裕そうに見えても、右腕はもはや使い物にならず……当然に、魔力など使い果たしたであろう身体では、先の様に奇をてらった対抗呪文も紡げぬ筈だった。なのに——
「——逃げれるかよ。己の残した糞みてぇな因縁に、方付けねぇでよぉ……」
自嘲気味に鼻で笑うと、残った左腕で後腰に携えた大腰鉈に手をかけた。
〝——ぁあん〟
鞘を走る刃が重く、低く呻いた。顕になった刀身は黒白の月光に照らされて、ゆらゆらと漆黒の輝きを放つ。
剣先は刀身に対し直角で、突く事を想定していない形状。あくまで刀身の重みを生かし、ただ対象を叩き割る事だけに特化された超重の獲物だった。
それを、ぶらりと自然に垂らして、九十九は人狼と餓狼の群れへと視線を向ける。
〝——貪り尽くせ…………アデル……ヴォルフ〟
その視線の向こうで、餓狼を解き放つ人狼の詠唱が、静かに響き渡っていた。




