見失った妻の思い
ガタンと音を立てて、フリシアごとピオニアが立ち上がった。
「私、行かなきゃ」
「行くって、レーニアか?」
「ええ。待ってるんでしょう、あのひと」
「夫を棄てて、行くのですか?」
パラスが亡霊を見たような顔で訊いた。
「もちろん、あなたはついてきてくれる」
「待てよ、行けないって云ってるだろ? オレを死刑にしようとしたんだぞ?」
「ルーサーは私を監禁するかもしれない。嫉妬にかられてフリシアを投げ殺すかもしれないわ」
「赤ん坊連れて行く気か? オレの娘を? やめてくれ、そんな危険なこと」
「パラス、揺れの少ない四輪馬車を貸して下さい。王太后さまの振りをします。ご衣装と紋をお借りして、レーニア城のルーサー宛に面談依頼を一筆書いていただけませんか?」
「ピオニア、だめだと云っている」
「ラドローアンス二世殿、これはルーサーと私の問題です」
「ピオニア!」
「赤ちゃんの旅行用品など、王太后さまに伺ってきます。生後一カ月、どうにか出かけられると思う。ではパラス王、失礼致します」
ピオニアはどちらかというと、うきうきした足取りで出て行った。パラスは全く面喰っていた。
「ピオニア姫ってあんな風に、急に何かを思いついて、聞く耳持たない人なのか?」
「こんなに突拍子もないのは初めてだな」
ハンスは頭の後ろに両手を置いて、力なく天井を見上げた。
「ルーサー王が赤子を傷つける男だとは思いたくないが、敵味方に分かれて戦争してしまった間柄だ。憎い木こりの娘と思うか愛しい姫の娘と思うか、わかったもんじゃない」
パラスは事の重大さを感じてくれている。
「そうだろ? そう思うよな? アイツがレーニアにいるってことがどういう意味か、どうしてピオニアには見えないんだ? 罠みたいなもんじゃないか。なぜ自分から捕まりに行く? それもフリシアを連れて? 自分だってまだ身体つらいだろうに、今、なぜ、どうして? オレは……ついて行って陰から見守るしかないのか……?」
王太后さまのお蔭で、ピオニアのレーニア行きは一か月延期になった。理由の第一は、赤ん坊の首がまだ据わっていないから、振動がよくないとのこと。第二は二週間後のフラ王女の帰国に不在では困る。ランサロード王及び皇太子が同道予定の為。
ハンスは実の父親に、「パラシーボに早く来て長居をしてくれ」と手紙を書き送った。「ピオニアが島に帰りたがって困っている」と。
ランサロード王は「皇太子と自分が同時に国を離れる期間は少ないほうがいい」と、すぐに出発してくれたらしい。実のところ、孫の顔見たさが先に立ったとしても。
ランサロード王が到着すると、ピオニアはぴたっとレーニアのことを云わなくなった。
「いいわね、フリシア、お祖父ちゃんと一緒ねぇ」
と隣で笑っている。
「フリシアの爺婆では私がたった一人の生き残りだな」
と父は赤ん坊に話しかけた。
「皆、早く逝きすぎた……」
ピオニアの昼寝中だった。孫を抱いてとろけていると思ったら、父は「それで?」と訊いた。
「レーニアは空っぽだと聞いている。島に帰るとはどういう意味だ? ピオニアは、もう王権は要りません、メルカットの民になりますから、島に住まわせて下さい、とでも思っているのか?」
「あ、そうなのか? その手があるか。レーニアを返してくれとルーサーに直談判しにいくつもりだと思っていた。メルカット人に? なればいいのか?」
父王は鋭い目でハンスを見つめた。
「レーニア人が皆、メルカット人になれるなら、戦争になどなっていまい?」
「そうだよな、島にみんなが帰っても、メルカット人になりたいわけじゃないんだ……」
「おまえは何人なんだ? おまえほど愛国心が薄い者はいない」
「いや、そこまで云われると反論したくなるな。ランサロードが嫌いなわけじゃないよ。ただ、オレの行動範囲がどんどん広がって、聖燭台諸国人みたいな気分だな」
「おまえはそれでいいかもしれんが、他の皆には期待するな。レーニアはレーニアだろう」
「そう……だな。つい最近、ランサロードのレーニア村まで行って、みんなに会ってきた。夏には何家族か島に戻れそうだって話をしたんだが、誰もそんなに焦ってないんだよ。森での暮らしにも慣れたし、急がなくっていいって。レーニア城にルーサー王がいて、オレが行くとまたケンカになりそうだっていうと、それならもうちょっと様子をみればいいとまで云ってくれる。オレというか、姫さんがレーニアにいなきゃ、レーニアじゃないってみんな思うんだな。自分たちだけメルカット人の振りをして島に戻っても仕方がない」
「メルカットの振りではレーニアは壊れたまま、メルカットに併合されたままだ」
「そう……なんだな。仰る通りだ。みんなの生活を取り戻すのが先だと思っていたが、それだけでもない。自分たちはレーニアだと宣言できなきゃだめだということだ」
ランサロード王は大らかに微笑んだ。
「私の嫁はおまえの母に、似ているようだな」
「母さんに? 冗談じゃない、母さんはあんな強情じゃない」
「おまえが知らんだけだ。病床にあったからおとなしく見えた。直感で本質を見抜く。ここはピオニアに任せてみたらどうだ?」
「任せるって、赤ん坊連れて島へ行かせろと?」
「ああ。ルーサー王に会いたいなら会わせてやれ」
「オレが振られても?」
「ハハハハハッ」
父の高笑いを初めて見た気がした。
「産後そろそろ二ヶ月か? 二人寝再開させてもらえ」
思いもかけない言葉にハンスは身体中紅潮した。
フラ王女を送り届けるとの名目で、ハイディもパラシーボに現れた。大きな城ではあるが、かなりの人口密度だ。
フリシアは皆に構われてあやされて、戸惑いながら泣きながら、でも人気者だった。
「明日、発ちましょう」
父が去り、ハイディがいなくなり、フリシアが落ち着いた夜、ピオニアが寝室で云った。死刑宣告を受けた気分だ。メルカットの地下牢よりも気がふさぐ。
「気持ちは変わらないんだな?」
「ええ、行かなきゃならないの」
「わかった。もう止めない。一緒にいくから」
「ありがとう」
父が云ったことの意味は、よく理解できていない。何をピオニアに任せるのかわからない。ただ、自分は、妻子の身の安全を考えるだけ。それに徹してみよう。
動き出した馬車はゆっくりと進む。そして頻繁に休憩をとった。ハンスをじわじわと追い詰めるように。