赤ん坊は
ピオニアは先に部屋に入った。奥から女性の声がする。
「ピオニアさま、お花は?」
「それが、チューリップ摘みに行って、代わりに夫を拾って来ちゃったの」
女ふたりの笑い声の中にハンスは足を踏み入れた。
「リルカ姫、ご無沙汰しています」
見知った顔だと思った途端に頭が働いた。北の国の王女、パラスの婚約者だ。
「ラドローさま、私をお姫様扱いしてくださるのかしら?」
「あの時は失礼を致しました」
「事情はピオニアさまから伺っています。父もとんだ勇み足を……」
「今リルカさまがお幸せなら良いのですが?」
「あ、はい、とても……。ピオニアさまにもお義母さまにも優しくしていただいて」
「パラスは?」
真っ赤になったリルカ姫に代わってピオニアが
「そんなの決まってるでしょ?」
と笑った。
リルカ姫が抱いている赤子はパラスのだとしたら、いくら何でも早過ぎる。妹のフラ王女の子だとしたら父親は、自分の弟のハイディ。
「それもスキャンダルだ、オレは聞いてないぞ?」と漠然と感じていたハンスに、ピオニアは、
「もう、何をぼうっとしてるの?」
と微笑み、リルカから赤ん坊を受け取り寄ってきた。
「傷がどんなに痛んでも落とさないでね」
そう云うと頼りない布の塊のようなものを差し出した。自然両腕を出して受け取ってしまった。思ったより重くて温かい。その上、乳臭かった。
「誰の……?」
女ふたりはお腹を押さえるようにして笑った。
「あなたの娘です」
「え、じゃあなぜ、おまえ、あんなに泣いて? まるで流産でもしたかのように……」
「冗談じゃないわ。月足らずかと心配されたのだけれど、すごい勢いでおっぱい飲んで大きくなってるの。もう生後十九日なのよ」
「じゃ生まれたのは決闘の日じゃないか。痛かったはずだ」
「こっちこそ。あなたの名前絶叫したわよ」
「それで斬られても意識失わなかったんだな」
夫婦は顔を見合す。リルカ姫は柔らかい笑顔で見守ってくれている。
「新しい姫さん、お父さんをヨロシク」
自分の娘という実感はまだひとっ欠片もない。
指が揃っている。小さいながら爪もある。しかめっ面をしてあくびをする。
うっすらと生えた髪の毛が額に貼り付いて栗色の渦巻きを作っている。それだけは自分に似ている気がした。
「ヘンな挨拶するのね?」
「だって、名前は?」
「あなたがいなかったからまだ名無しなの」
「どうして? ランサロードじゃ娘の名は母親が決めるもんだ」
「そうなの?」
「考えてないのか?」
「考えたわ。あなたに異存がないなら、フリシア・カーラって呼びたいなって。代々王女は花の名前なの」
「フリシア・カーラ、プリンセス・オブ・マリン・ジューエル・オブ・レーニア、いいね」
「あら、フォン・ランサロードじゃないんですか?」
リルカ姫が首を傾げた。
「長いほうがカッコいい」
ハンスは笑って誤魔化した。
「お義父さまがどういうか、もしかしたらハイディと一緒に顔見に来るかもしれないって」
「表だって来られても困る。フラ王女のご縁談の件ということにしてくれないと」
「してくれるわよ」
「それで? どんな花なんだい、フリシアとかカーラは。ついでにピオニアも」
「知らないの? ピオニアでさえ?」
ハンスは肩をすくめた。
「ピオニアは牡丹。フリシアはフリージア、カーラは水芭蕉の仲間。レーニア方言」
「よくわかった。よっぽど気に入った」
ふたりの視線が絡み合うのを見てリルカは、「では私はこれで」と自室に戻っていった。
ピオニアはフリシアを抱いたままベッドに座った。
「数時間ごととか眠くなるの。最初の一週間なんて、どう過ごしたか思い出せないくらい。本能なのか、身体が勝手に起き出しておっぱい飲ませてたみたいなんだけど」
ハンスはふたりの大事な女を腕の中に納めた。
「つらいよな、オレもサリウの看病で三時間ごと起きてガーゼの取り替えとかしたからよくわかる。眠るか?」
「話も聞きたいんだけれど、今は無理みたい。パラスと王太后さまにご挨拶してきてね。夕食もちゃんと食べて。私は目が覚める頃に、お手伝いさんが差し入れ持ってきてくるはずだから」