四十話 夜と喧騒
上を見上げれば月が朧気に輝いている。
ふぅと息を吐いてコップに注がれたジンジャエールを煽った。
向こうの方では皆……と言っても今は野郎しかいないが、先程まではみんな楽しそうに飲んだり食べたり喋ったりしていた。
現在地は紅音さんの家……つまりは大豪邸にて体育祭の打ち上げである。雨乃に暁姉妹に幼馴染み連中、南雲に月夜先輩に何故か俺の姉達も打ち上げに参加している。
姉共、お前ら特に何もしてねぇよな? まぁいいか。
「疲れたなぁ、今日は」
誰にともなくそう呟くと同時に夜風が優しく俺の頬を撫でる。
そんな時、突如として途方も無いくらいの痛みが同時に膝を襲うが、痛みを感じることなんて今に始まったことではないので気にしないことにして、座り込んだ。
今日ぐらいは……今ぐらいは自分の中の主電源をOFFにしておこう、騒がしい喧騒を聞きながらボーッと夜空を見上げるのも偶にはいい物だ、そう思いながらコップに余った最後の一口を飲み干した。
「黄昏ちゃってどうしたの?」
見上げれば雨乃。
雨乃なのだが、いつもとはガラリと違う。
「似合ってんな」
「えぇ、紅音さんが貸してくれたの」
チラリと皆の方に目を向ければ暁姉妹や陸奥や夢唯までもいつもとは違った。
皆一様にドレスのようなものを着ているのだ、しかもそれだけでは無い。髪型も変えて化粧もしている。
「服は紅音さんが、髪は夕璃が、化粧は夕架がしてくれたの」
ニコッと顔に微笑みを浮かべながら、それはそれは綺麗な雨乃が説明してくれた。
つか、やばい。気を抜くと見蕩れてしまいそうだ。
「その……どう?」
「どうってなにが」
「分かってるのに聞き返すのは嫌がらせ?」
「冗談だってば、綺麗だよ雨乃」
「くっ……! 直球すぎるでしょ」
俺は野球ゲームじゃストレートしか投げないのよ、関係ないか。
「ありがとう」
余程照れているのか雨乃が紅くなった顔を腕で隠す。
「それにしてもらしくないわね」
「なにが?」
雨乃が差し出してきたジンジャエールの紙コップを受け取りながら聞き返す。俺は至っていつも通りだが?
「雰囲気がよ。たまーに夕陽がやるじゃない? そういう雰囲気」
「自分じゃ自分の雰囲気なんざ分からんよ」
嘯きながらフーっと息を吐き出した。
「まぁ、強いて言うなら電源をOFFってるから」
「……電源なんて元々入ってたのアンタ?」
「うわぁー、ひでぇー」
ジンジャエールの強炭酸が喉をビリビリと刺激する、明かりの向こうでは皆が楽しそうに笑っていた。
そのありふれたような光景が少しだけ煌めいて見えた、美しく見えた、素晴らしく見えた。
胸の奥を何かが燻り続ける、こそばゆいと言うかなんと言うか……。
隣に視線を投げれば雨乃がニヤリと笑っている、いつもよりも数倍カッコカワイイ雨乃に少しばかり胸の奥が跳ねた。
「疲れたの? 夕陽」
「流石に今日はな」
「バカ騒ぎするからよ」
言いながら雨乃がコップの中身を口に含んだ。
まぁ、あの後もスタンド席で友人達と馬鹿みたいな大声で歌を歌ったりしたからなぁ、そりゃ疲れる。
「まぁ、それもあるけどさ。偶にはロンリーな気分になりたい夜もあるんだよ」
「へぇ、あるんだ?」
なんだその鼻笑いは。
「それより」
「ん?」
「夕陽、アンタまたやったでしょ?」
……バレてたのか。
「バレてるに決まってんでしょバーカ。それで? 大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。夕陽さん嘘つかない」
「嘘しかついてないわよ。痛かったら言いなさいよ?」
「言っても痛みは引かないから言わない」
「ほんっっっとに子供の時から全く変わってないわね」
人間、本質はそう簡単には変わらんよ。
「景色一つで全てにおいて変わったアンタが言うと説得力ないわよ?」
「変わった変わってないの話しなら、ゆーくん呼びからアンタ呼ばわりになった雨乃さんを問い詰めなきゃなー、ほら言ってみ? ゆーくんて言ってみ」
「クッ……! 調子乗るな」
頭に少し衝撃が走るが痛くはない、その柔らかい小突きに少しだけ笑が零れる。
本当に今この空間は時間は心地いいよ、凄く。
「そう、良かったわ」
「あぁ、お前もな」
心を読めなくても……読まなくても分かる。独善的な考えかもしれないけれど、雨乃はきっと今この時を楽しんでいるのだろう。雨乃だけではない向こうでコチラに手を振る皆もきっと同じ気持ちだと思う。
「変わったわね」
不意に雨乃から落ちたその言葉に反射的に言葉を返した。
「誰が?」
「夕陽がよ」
「俺は……変わってないよ」
喉の奥が嫌に干上がった、なぜ今俺は否定したのだろうか? 変わった自分を認めたくないわけじゃないのに。
「私は変わったと思うわよ」
「……そうなのかもな」
雨乃はきっと俺よりも俺のことを知っているのだろう、彼女の瞳の中には俺はどう映っているのだろうか?
「昔の夕陽は空っぽだったのよ」
「空っぽ」
その言葉が嫌に脳内を反復するのは自覚があるからなのだろう。昔の俺は取り繕うことに必死だったのだ、与えられた『紅星 夕陽』という役をこなすのに躍起になっていた。
我ながら子供の頃からめんどくさい男だなぁ。
「後ろから見える夕陽の背中は大きいように見えてただけ、ハリボテと一緒だった」
慈しむように、懐かしむようにコップを傾けながら過去の事実を告げる彼女から視線をそらす。
「だけど、いつしか変わったの」
「……俺が?」
「そう、見上げてた背中は空っぽじゃなくなってた。だからね、私も変われたの、夕陽のおかげで変われたの」
俺のおかげ?
俺はお前に与えてもらってばっかりだったよ雨乃。俺が変われたのだって、それはきっとお前のおかげだ。
「今日の体育祭でそれを再確認したのよ。馬鹿みたいに一生懸命に身体に無理させまくって走り抜いた夕陽の姿を見て、私はそれを再確認した」
彼女はくるりと俺の前に向き直り、手を伸ばす。
「だからね、夕陽」
自然に差し伸べられた手を取った。細くて柔らかくて、それでいてとても暖かいその手を、俺は知っていた。
冷たい病室の中で、今にも消えそうな意識の中で、消えてしまいそうな命の灯火の僅か手前で、確かに感じた暖かさはこれだった。
「やっと、この言葉が言える。夕陽、ありがとう」
月明かりに照らされる彼女は一瞬、人間では無いのではないかと思うほどの美しさを持っていた。
今ここにある全てが、彼女の美しさを掻き立てている。月明かりも喧騒も夜も、そして俺でさえも。
思わず、息を呑む。彼女の美しさに、彼女が向けてくれた優しさに返す言葉が見つからない。
「皆が呼んでるから私、行くね? 夕陽はまだここにいるんでしょ?」
流石に照れくさいのか雨乃が180度向きを変えた。
「あ……あぁ、もう少しゆっくりしとく」
「分かったわ。帰ったら髪の毛」
雨乃はそう言うと振り返り、俺の頭のてっぺんを触る。
「染めなきゃね、上の方もう色が落ちてるから」
「あぁ、そうするよ」
俺がそう言うとニコッと笑って、妖精のような彼女は集団の中に紛れて行った。
その姿を見ながら、握られた手の温度を思い返しながら、静かに静かに息を吐いた。
「ずりぃ」
ほんとに狡い。
「あんなことされたら」
──また余計に惚れちまうだろう。
口に出すのも恥ずかしいので、心でそう呟いて小っ恥ずかしい気持ちをかき消すようにグッとジンジャエールを煽った。強炭酸と言えど心の中のモヤモヤまでは打ち消してくれないようだ。
「優しさ……優しさね」
『優しさ』そんな不確定な言葉を説明するのに、俺の中にはサンプルがどうにも多いようだ。
カーディガンを羽織った彼は言った『優しさは麻薬だ』と。
病院の屋上で嘆くように不良の彼は言った『優しは呪縛だ』と。
いつも隣にいてくれた彼女は言った『優しさは気づけばそこにあった』と。
俺に良く似た宙ぶらりんな彼は言った『優しさは憎しみと似たようなものだ』と。
これだけでもサンプルは有り余るほどだ、考え方など十人十色で意識の統率など絶対にできない。同じ言葉でもこれ程までの意見が分かれるのだから。
ならば俺はどうなのだろうか?
俺にとって……紅星 夕陽にとっての優しさとは一体……?
「ぐぇ……!」
その疑問は解消されることなく、急に寄りかかってきた後輩によって遮られることになる。
「どうですか、先輩?」
ピンク色の髪の彼女はニコリと笑って、その場でクルリと一回転して見せた。ドレスと化粧と髪の感想を聞きたいのだろう。
じっと見つめること十数秒、黒を貴重としたドレスに短く纏めた桃色の髪、薄らと色気すら見える化粧。
「すげぇ可愛いな」
そして、なんかエロい。
「なんか邪なこと考えてません?」
「カンガエテナイヨ」
「何で片言!? まぁ、いいですよ」
褒められたのが嬉しいのか二ヘラっと頬を綻ばせた、化粧も格好も大人っぽいのに、こういう所でギャップを出してくるのは卑怯だ。
「足は?」
綺麗でカッコイイドレスに似合わない絆創膏に視線を向けてアフターケアに入る。
「それがですね!? 痛みが全くないんですよ! 傷もなんか凄い勢いで治ってきてるし! まるで魔法でもかかった気分です!」
魔法……ねぇ。そんなご大層な代物じゃねぇよ。
まぁいい、痛みがないなら結構なことだ。ほんじつのMVPに痛みは野暮というものだろう。
「後で夜空に向けて症状発動させて花火でも打ち上げるつもりなんですよ」
「……倒れねぇよな?」
「昔やったことあるんでご心配なく! 人を選んでやるんでそこまで疲労はないですし」
まぁ、本人達がそれでいいならいいか? 俺も実際花火見たいし。
「先輩、先輩」
「なんだ後輩」
苦笑混じりにぶっきらぼうに答えて冬華の方に視線を向けると、冬華が頭を下げていた。
「おいバカ、何してんだ」
「私のせいで危なかったです」
このバカ、気にすんなって言ったのに。
……とは言え、それでも気にしてしまうのが人間なのだろう、俺が冬華の立場でも謝ると思うし。
だから、頭を回転させて考える、彼女が負い目を感じずに終わる方法を脳内で検索する。
「じゃあ、バツを与えよう」
「バツ?」
「あぁ、バツだ。そうだなぁ、一つだけ何でも言うことを聞け」
俺がそう言うと冬華がバッと胸を隠した。
胸ちっちゃい奴に限ってその仕草するよなぁ。
「変な事じゃないから安心しろ」
「じゃあなんなんですか? 先輩にエロいお願い以外あるんですか?」
「お前、舐めとんのか。今度ジュース奢れ」
「うわぁ、この先輩酷いー。後輩に堂々と奢りを強要してるー」
「じゃあ、服を脱げ。パンツだけは残して」
「とんでもないですね先輩!? あとなんでパンツだけ!?」
我ながらセクハラもいいとこだと自覚はしてる、やめる気は無いけどね! あと、パンツは完全に僕の性癖関係です。
「分かりましたよ。じゃあ仕方ないのでジュースを奢ってあげます! その代わり」
なんだこの後輩、何交換条件持ち出してんだ……そう言ってやろうと思った俺の言葉が詰まった。
先程までの彼女の勢いが、突如として消えた。
「その代わり……私と」
その瞳は縋るようだった、その声音は願うようだった。
前髪をクシャりと握った後、いを決したように冬華は俺の両手を握りしめて一言告げた。
「明日私と、デートしてくだい!」
妙に静まり返った場に冬華の心の底から張り上げたような声が響いた。
これで一応は体育祭編終了です。




