舞台裏 あるトッププレイヤーの現状
「……で、報告とはなんだ?」
訊ねた相手を振り返るわけでもなく、だがわずかに下あごを斜め下に傾けて、五階の窓から見下ろす正面玄関へと続く桜並木から視線を逸らした青年――年の頃は三十代半ばに見える。彫りの深い顔立ちをしており、濃紺の術衣にピンで止められたネームプレートによれば現王園暮治という名前の青年が、重々しい口調で訊いた。
現王園が袖も通さず、肩に羽織っているだけである白衣の背中は、わずかなシワも見受けられない。それは、彼が術衣の上に白衣を羽織ってからこの場へ至るまでに、どこにも座っていないことを示していたが、それ以上に背中から発せられる独特の雰囲気に気圧されたのか、訊ねられた女性は答える代りに生唾を飲み込んだ。
その音が青年の耳に届くことはなかっただろう。人工呼吸器が、患者の肺に理想的な空気を送り込み、気道に適度な湿度を与える音は絶えることはなく、各種の生体モニターが建てる規則的な電子音が満ちるICU――その最奥に設えた特別室において、その狂想曲と面会者が来院したことを告げるインターホン、医療用PHSの着信音以外に傾注する必要がある音などない。
「こ、この三か月! 不安定な状態が続いています!」
最新の医療用ベッドを挟んでタブレットを胸に掻き抱くようにしていた女性が、端末の画面を操作しながら、患者の容体について説明を始めた。
「これまでも、脳が異常な興奮を示すことは多々ありました。ですがそれは、ええと神経内科の伊丹先生にもコンサルテーションしていますが、VRT患者によくあるものと大差ありませんでした。しかし――」
画面と現王園の背中を交互に見ながら、彼とは対照的に皺だらけの白衣に袖を通している女性は言い淀んだ。
現王園が何の反応も示さないことで不安になったのかもしれない。背中を向けたまま動かない彼に比べると、女性は格段に若いように見えた。十代後半~二十代前半と言っても違和感を抱く者は少ないだろう。白衣は皺だらけだが、まくり上げた袖から覗く肌は健康的な艶があり、やや小さめの下顎に似合う、ぷっくりとした桃色の唇や、黒く大きな瞳をもつアーモンド形の目を囲む睫毛にすら張りがある。
彼女は亜麻色の髪を長く伸ばしてストレートにしていた。本来勤務中は縛っておくのが規定だが、時刻は午後十一時だ。当直でもない彼女が、その程度の規定に反したからといって、咎める職員はいないだろう。
彼女の胸元のネームプレートには一条杏南・医師と書かれていた。
歳の差と態度からして、現王園は一条の上司なのだろう。彼女は研修医なのかもしれない。新人に上級医が患者の容体を訊ねることが、そのまま口頭試問のような形式となって彼らの精神を圧迫することは、往々にしてある。
「三か月ほど前から出現するようになった異常な脳波について、文献を探しました。その中に米国の刑務所と協力して行われた大規模調査に関する報告がありまして……」
一条が、タブレットの画面を素早くタップして、保存されていたファイルを開いた。
「これを見てください」
そう言っても振り返ろうとしない現王園に、一条は鼻息荒く近づいた。彼女の肩と上級医の肘が触れ合うほどに接近したが、普段から二人はそういう距離にあるのだろうか。一条はごく自然にタブレットを左手に持ち替え、現王園にも見える位置に持っていった。
「先生、これは服役中あるいは入院中である殺人犯たちの、脳の活動性を調べたデータです。これによりますと、同じ殺人犯でもその動機や殺害方法、犯人たちの精神・心理的な背景によって、脳の興奮が高まる領域に違いが出るそうです」
話しだしてみれば、テンポよく言葉が出ているようだった。それに合わせて画面をスクロールさせ、脳の活動領域をカラーマップで示した画像が出てきたところで、一条の細い指が止まった。
「これは、退行催眠をかけた状態で、殺人犯の脳をスキャンした画像の一覧です。この論文の著者たちは、こういった脳の異常興奮を、薬物を使って抑えることで、彼らの殺人衝動を減退させることができるのではないかと言及しています。そして――」
続いて一条は、別のファイルを開いた。
「そしてこれは、VRT患者がゲームをプレイしている最中に、脳をスキャンしたという研究者の論文です」
素早く画面をスクロールさせると、先ほど出たものと同じような画像が映し出された。
「これ! これを見てください」
一条が画面を人差指と親指でピンチ操作し、一つの画像を拡大した。それを目にするまでは無表情だった現王園の眉がピクリと動いた。
「患者の異常な脳波が検知されるようになってから、度々スキャンを行ってきました。そこから得られた画像と、酷似しているものを見つけたんです!」
事前に準備していたのだろう。画面には三枚の画像が横並びに表示された。
「殺人犯、VRT患者、そしてこれが、つい先日異常派が連続した際に、彼の――羽鳥さんの脳をスキャンしたものです」
「ほう」
一条が説明を始めてから、現王園が初めて反応らしい反応を示した。
「VR――バーチャルリアリティーの世界において、プレイヤー同士が殺し合うケースはままありますが、そのときの興奮状態は、現実に殺人を犯したときのそれと酷似していると言えます。そういう意味では、ゲームが作り出す世界で体験できる感覚は非常に優れていると言えるかもしれません」
彼女は興奮した様子で、さらに自説の披露を続けた。
「現実的すぎるが故に、その世界に本当に入り込んだと勘違いしてしまった彼のようなVRT患者は、通常ゲームと接続を切り、仮想の世界から隔絶しておけば、ほとんどの場合治癒が望めます」
「しかし、彼は――」
現王園が腕組をして言い、医療用ベッドに寝かされている患者の方を向いた。ちょうど、身体の側面に褥瘡ができるのを避けるために、マットレスが空気圧を自動で調整し始めたところだった。
傾いたベッド柵に取り付けられたネームプレートには羽鳥正孝と書かれていた。
現王園はベッド柵に括り付けられているラックからカルテを取り出した。
「羽鳥正孝……重症VRT患者……か。しかし、うーむ」
改めて患者の現病歴を確認した現王園は唸った。
「彼がVRゲームの世界にのめり込み、意識を取り戻さなくなってからすでに一年以上が経過している。とっくにゲームとの接続は切れているにも関わらず。それがなぜ今になって、あたかもゲームをしているかのような脳の活動を示すんだ?」
しかもそれが、殺人を繰り返しているなどとなれば、おいそれと公表することもできない。VRT――Virtual Reality toxipathy――仮想現実中毒症の増加は深刻な社会問題である。
先ほどの一条の言葉にもあったが、仮想現実の世界にのめり込み、あたかもそれが現実であると勘違いしてしまうものや、作り出された世界に迷い込んだと思い込んで現実を受け入れられなくなった患者の治療には、当初は精神科の医師が当たっていた。
その治療法は、ゲーム世界の断絶とカウンセリング及び脳の興奮を鎮静化させる薬物療法を軸としてきた。
しかし羽鳥正孝の治療に、精神科医師の出番はなかった。
羽鳥少年は十三歳でVRゲームの世界に足を踏み入れた。「ナイツ オブ アゼリア」というVRMMORPGだ。ゲームとしての完成度は高かったが、多数のVRT患者を生み出す結果となり、制作会社は倒産してしまった。しかし、誰かがプログラムをネット上に流布してしまったおかげで、ゲーム自体は消滅することなく稼働し続けた。
もちろん課金システムなどは機能しなくなった。プレイヤーたちは自身の努力で戦い、ゲームを進めていった。
羽鳥は十年の歳月をかけてその世界の「トッププレイヤー」となった。
全世界に並ぶもののない絶対者――あくまでゲームの世界では、の話だが――となった彼は、その感覚に酔いしれ、VRT患者となった。
真医会病院で外来治療に通っていたが、母親が隠しておいたVRゲーム機を探し出して再びゲームの世界へ旅立っていった。
「意識不明となってから一年……いったい彼に何が起きたというんだ?」
「それは……わかりません。しかし、彼の脳は――」
人を殺しています。何度も。
一条の言葉に反応したかのように、生体モニターのアラームがけたたましく鳴り響いた。