第八話:世界の法則 中編2
ドアを開けて戸口に立っていたのは、間違いなくイシュタルだった。
裏世界の魔王城において、際限なく湧いてくる魔物を薙ぎ払い、魔王が待ち受ける玉座の間を閉ざす扉に手をかけたその時だった。四天王を名乗る四匹の魔族が出現し、俺たちに一斉に襲い掛かってきたのだ。
イシュタルはその時、俺とハイドラ、アンドリューを纏めて風神の力で吹き飛ばして、強引に玉座の間へと入らせ、自分は外に残った男。
扉の向こうから聞こえたのは魔族たちの嘲笑と、イシュタルの雄叫び、そして激しい戦闘の音だった。
最後の戦いを目前にして、余計な消耗を避けるために、一人最強の魔族との戦いに身を投じた男。
俺はイシュタルに、かつて故郷で足を失った冒険者の姿を重ねていた。神々の契約のおかげで、戦えば俺が勝っていただろう。だが、騎士に相応しい高潔な精神と、目的のためなら自己犠牲をいとわない強さを兼ね備えたイシュタルに、俺は憧憬の眼差しを送っていた。
けして勘違いやうぬぼれではなく、俺たちの間には友情を越えた何かがあった。魔王を倒して玉座の間を飛び出してみれば、そこには折り重なるように四天王の死体が転がっており、イシュタルは最後の一匹の胸に槍を突き立てたままで気を失っていた。
アンドリューがなけなしの魔法を使ってイシュタルを癒し、気が付いた王国騎士は俺の肩を掴んで呻くように言った。
やったのか――。
俺は黙って頷き、互いに抱き合って泣いた。なんで泣いたのかなんて説明できやしない。もしかすると父親がいなかった俺は、イシュタルの中にそれを見ていたのかもしれない。
そのイシュタルが今、俺を見下ろして訝しげな顔をしている。俺にしても、死んだはずの男が目の前に立っているという光景をどう受け取ればいいのかわからず混乱していた。
だが考えてみると、俺はエリヤの神域で、仲間たちが血だまりの中に倒れているのは見たが、死亡を確認したわけじゃなかった。もしかすると、罰を与えられただけで解放されたんじゃないか。
ただ間違いなく言えたのは、
「……アルス。何をしに来た?」
イシュタルは俺の来訪を迷惑がったりするような奴じゃないということだ。
「いや、イシュタル……俺は、あんたが死んだと思って」
「ワシが死んだ? 何を言っている」
元王国騎士の顔が歪み、敵意の籠った視線が俺を射抜いた。
「だって、俺たちはエリヤの神域で……」
俺は、記憶に新しい創造神の神域で起きたはずの出来事を語った。そして、生きていてくれてどれほど嬉しく思っているかを訴えた。しかし。
「お前はいったい何を言っているんだ? 魔王を討伐してからどこで何をしていたのか知らんが、新聞に顔が出たと思えば英雄様を苛烈に扱いていると悪評ばかり。突然現れたと思えばワシが創造神の神域で死んだなどと世迷言をぬかしおる」
「イシュタル……?」
盟友の言葉が俺の心に突き刺さった。無意識に、心の頼りにしていた大剣に触れようと腰に手が伸び、そこで初めてそれを失ったのだと思いだした。
「正式に剣を学んだこともないお前の剣術指南など、英雄様にはむしろ迷惑であったろうよ。どうせそこに浮いている女神の力を見せつけてきただけだろう。英雄様は先日旅立ったそうだが、万が一にも彼らが死んでしまったら、お前はどう責任を取るつもりなのだ?」
足元に視線を落とした俺に、イシュタルの辛辣な言葉が浴びせかけられた。違う。奴らは英雄でもなんでもない。どこか知らない世界からやってきて、謎の能力を使うが別段力があるわけでもない。あいつらがどこかで野垂れ死にしたって、それは俺のせいじゃない。それに俺は――
「ぐっ……」
突然、激しい頭痛が襲ってきた。後頭部から脳の中心を通って額に至る、鋭く、電撃が走るような痛みだった。
「ふん。何の症状か知らんが、妙な病気になっているのならここへは近づかないでくれ」
子供に感染させられてはたまらんからな。そう言って、イシュタルは重い音を立ててドアを閉めようとしたが、僅かな隙間を残してそれが止まった。
「……イシュタル?」
痛みを堪えながら顔を上げたが、ドアの隙間からは屋内に居る彼の表情を見ることはできなかった。
「ワシはな。かつてお前と共に旅し、魔王を倒したことを……」
そのあとイシュタルが吐き捨てた言葉は、友との再会を喜ぶこともできない俺の心を完璧に打ちのめした。
「…………アルス。何か食べないといけませんわ」
相変わらず険悪な空気を叩きつけてくる通行人を避け、転移魔法で宿の部屋に帰ってきた俺は、ベッドに寝転がったまま夜を迎えていた。
昼食もとらず、夜になっても水一滴口にしない俺を見かねたリュカゥが声をかけてきた。
「いや、腹が空かないんだ……」
もしかしたら空腹なのかもしれないが、俺は食い物のことなど考えられなかった。
なぜイシュタルの家には誰も居なかったはずなのに、いきなり奴は現れた?
そもそもなぜイシュタルは生きている?
町の連中はまだしも、イシュタルの変容はどうしたことだ?
ハイドラは生きているのか? アンドリューは?
俺の頭に浮かぶのは疑問符ばかりだった。
「アルスちゃん。アルスちゃん。ちょっと、窓の外を見た方がいいわよぉ……」
「シュエリス……今は勘弁してくれ……っておい……」
先ほどから興味深げに窓の外を見ていたシュエリスが、そこから目を離さずに手招きしていた。なぜか、俺に良い感情を持っていないらしい住民の様子など知りたくもないと手を振って拒否したが、彼女は強引に重力操作で俺の身体を浮かせて窓辺へと着地させた。
「ほらほら。見てごらんなさいって」
「なんだっつーんだよ……」
眼下には、南北に伸びる町のメインストリートがあり、この宿を含めてたくさんの露店や商店が並んでいる。夜ともなればそれなりに賑わいを見せるのだが、シュエリスが俺に見せたかったのは、そこに昨夜以上――町の住人全員が集まっているのではと思えるほどの人を集めた人物たちだった。
「ひゃー! 俺たちってやっぱ、有名人!? イェーイ! サンキュー!」
窓を開けてバルコニーに出た俺の目に飛び込んできたのは、黒髪を逆立てて両手でピースサインを出しつつ、左右に投げキッスを飛ばしながら歩く、見慣れたバスタードソードを腰に吊っている少年――ユーキと、
「投げキッスとか、マジ小学生? 本気で引いてるんですけど……」
茶髪をツインテールにしていて、見た覚えのない豪奢な装飾が施された弓を背中に担ぎ、はしゃぐユーキの横を不満顔で歩くミサミサと、
「でもさあ、ちやほやされるのは悪くないよね。え? サイン? 電話番号教えてくれたらね。 え? 電話知らないの? うっそー」
油の乗り切った顔の肉を揺すりながら、黒縁眼鏡の奥の目を細めて笑い、赤い宝石を先端に取り付けた銀と思われる素材でできた輝く杖を片手に歩いている少年――ハシモトの三人だった。
だがそれ以上に目を奪われたのは、彼らを守り、先導する陣形で歩くもう三人の姿だった。
「英雄様方! まずは私どもの屋敷へお越しくださいまし。長旅でお疲れでしょう!」
長身の男は、輝くプレートメイルで身を包み、かつて魔王の四天王を貫いた槍を片手に持ちながら、慇懃な口調で語りかけていた。
「イシュタルの奥方が作る晩餐は芸術の域です。……俺が勧めるのもなんですが、お袋の味ってやつですよ。ぜひ味わってみてください」
かつて、魔法の力を極めた男は、出奔した故郷を懐かしむように言った。
「警備は私たちがしっかりと行います故、ご安心くださいませ」
涼やかな声で言い、流れるようなウェーブのかかった髪を複雑な形に結いあげた女騎士が、英雄たちを振り返って極上の笑みを向けていた
「……あの二人も……確かにジジイの神域で……」
「髭のオジサマに加えて、賢者気取りとスカした女まで生きてるなんて……どうなってるのかしらぁ?」
姉妹神が揃って首を捻るのを尻目に、俺はバルコニーの手すりを握りしめて立ち尽くしていた。
イシュタルを先頭に、英雄どもを先導して歩いていたのは死んだはずのハイドラとアンドリューだったのだ。




