第十六話 青い鳥
「さて、これで二人きりになれたな」
俺は精いっぱい口角を上げたつもりだったが、うまくいっただろうか。表情を操作することはできないというツァンだったが、俺が今どんな顔をしているのかなんて確かめようがない。それにVRの世界で鏡を見ても、そこに映るのは虚像の虚像だ。まあ、彼女の言うことが正しいなら、無理に表情を作ろうとしてもそれが露骨に表れることになるのだろう。俺はすぐに挑戦をやめた。
「お望み通りにしてあげたわよ……で、何が狙いなの?」
左右非対称だった髪色を元の黒に戻したツァンが、腰の辺りで後ろ手に手を組んで言った。本当の一条という女は、どのような容姿なのだろうか。現王園と二人で現れたときの会話を思い返すと、現実の姿とはずいぶん異なるようだが。
「そっちこそ。VRソフト一つ乗っ取るのに、ずいぶん大胆な手に出たな」
ハッカーとして、ツァンから最初に教わったことは「慎重であれ」だった。それが、政府機関に正体を明かしてまで手に入れたのが、たかがスパコンとVRゲームとは。
「そうね……馬鹿だったわ」
「は?」
「冗談よ。馬鹿ね」
「…………」
自嘲気味に言ったかと思えば、すぐにとぼけた顔になった。画面越しでも仮想現実世界でも、ツァンの考えていることはさっぱりわからない。そして、俺自身のことも。俺は現実世界に帰りたいのか、それとも……
「ツァン、現実世界のことをどうするつもりなんだ」
彼女がかなりのリスクを背負ってこの世界を手に入れた目的は、訊いたところで教えてもらえそうもない。俺は質問を変えた。
「どうするとは? どういうことかしら」
呆れた奴だ。何を訊いても質問が帰ってくるばかりだ。
「肉体のことさ。それに、社会的な立場だってある。どう考えても、大手を振って街を歩けるようにはならないぜ?」
「そんなことを気にしなければいけない世界って、どう思う?」
「……」
まただ。質問したのはこっちなのに、会話の主導権はいつも彼女が握ってしまう。
「どうって……わからないさ。俺は立派なVRT患者だからな。世間体なんて気にする歳じゃないし。自分さえよければいい……ガキだったのさ」
「あら、あたしのことはずいぶん心配してくれているじゃない。自分のことをそんなに貶めるものじゃないわ」
「カウンセラーみたいなことを言うな。俺は、戻ったところでベッドから動けない干物みたいなもんだろ。……お前とは違う。」
結局、俺の話に戻されてしまった。まあいい。はぐらかしているのかそれが望みなのかわからないが、付き合ってやるさ。現実の身体は現王園がいる限り安全だろうからな。
「あたしだって世間体なんて気にしていないわ。今頃は顔写真とプロフィールがテロリストのリストに載っているでしょうし。可哀想に、一条杏南の居場所はどこにもないでしょうね。でも、あなただってそうよ? ブルーバードという名前も知られてしまったし」
「なんだか、現実世界に帰りたくなくなる方向に誘導されてるみたいだな」
「いやだ。今頃気がついたの?」
感じたままを述べると、ツァンは意外そうな顔をして笑った。
「まあ、どうしても帰るって言うなら止めないわよ? でも、これを見てからでも遅くないと思うわ」
以外にも、話の方向はツァンによって新たな展開を迎えた。彼女が左手を動かすと、青白い空に巨大なモニターが出現した。もはやなんでもありだな。
「これはね、現王園先生のベッドを映しているカメラの録画映像よ。消される前にコピーしておいたの」
二十四時間観察が必要な個室やベッドが設置してある病棟の天上には、そうしたカメラが付いていることは珍しいことではないそうだ。病院のシステムに侵入したツァンはそれを閲覧することも容易なのだろう。
光量が足りないのか、やや輪郭がぼやけているが、空中に現れたモニターにはベッドに横たわって動かない現王園の姿があった。
左下には年号と日付、時間が表示されている。
「これは、いつの?」
現実世界の時間を把握していない俺には、それがどのくらい前の映像なのかわからないのだ。
「三十分ほど前ね。先生がこれから目覚めるのだけれど」
ツァンがモニターの方を顎でしゃくった。語るより見ろということか。
監視カメラの映像には音声が記録されていない。無表情で寝ていた現王園が一瞬顔をしかめた後、目を開いた。覚醒したのだろう。少しだけ首を動かして舌打ちしたようだ。少し読みづらいが、唇の動きくらいは把握できる。勇者アルスの動体視力は、俺に読唇術と呼んで差し支えない能力をもたらしていた。
ほどなくして、カーテンの隙間から見知らぬ人物が現れた。グレーのスーツを着ていた。
「彼がVR対策室のトップ。大泉という男よ。自称、現王園先生の親友」
訊ねる前にツァンが教えてくれた。親友が見舞いに現れたというわけだ。その割に、現王園の表情は厳しいものだった。険悪な表情で交わされる短い会話――大泉とやらの唇はカメラの角度からは読めない――の途中で、今度は白衣を着た男が入ってきた。
「彼は浅野先生。現王園先生の後輩なの。とても実直な人らしいわよ?」
右手に何やら注射器の様なものを携えてベッドに近づく浅野とやらを見て、現王園が焦った様子で身を捩った。手足に加えて頭まで拘束されている彼は確かに「やめろ」と口を動かした。
「……眠らされた?」
「そういうことよ」
現王園の身体から伸びる管の一本に、浅野が何かを接続した直後、現王園は一瞬だけ顔を歪めた後に目を閉じて沈黙した。胸は上下しているように見えるので生きてはいるのだろうが、現実世界で彼の仲間ともいうべき連中が、せっかく目覚めた男を薬で眠らせるなんて――
「ツァン、これは」
「困ったわねえ。あなたの身体は誰が守ってくれるのかしら」
どういうことだと訊ねることは許されないようだ。
「……危険度が増したのはお前も同じだろ」
「そう? 前と同じ戻っただけよ」
おかしい。
現王園が現実に帰還することには彼女も賛成していた。たいして期待していなかったのはわかるが、ここまで平然としていられるものなのか。長く自分の肉体を留守にしていた俺は、自分の現状を把握するのに彼らから得た情報をもって想像するしかないが、ツァンはつい先ほどまで現実世界で身体を動かしていたのだ。それが失われてしまうことにまったく恐怖を感じない人間などいるだろうか。逆に想像するしかないからこそ、俺が抱く恐怖感は余計に増幅されているだけだということか?
死の恐怖を乗り越えて何かに立ち向かう人間――そういう奴を俺は何人か知っている。彼らの目には、恐怖をねじ伏せる強い信念が宿っていた。仲間のため、守るべきなにかのため、その背景にあるものは様々だが、その目には一点の曇りもない光が見て取れるものだ。……あれが全部、VR技術で再現されたものだなんて信じがたいと今更思うが、俺の記憶には確かに経験したこととして残っている。
俺はツァンの目を覗き込んだ。
「どうしたの……? 怖い顔して」
柔らかく微笑んではいるが、その目は笑っていない。こちらを探るような、全てを吸い込む底なしの暗い穴を思わせる目だ。かつて魔王の玉座の間で見たイシュタルの目のような覚悟も、輝きも見て取れなかった。
大泉という名前は、現王園が帰還する直前に聞いた。「奴ならやりかねん」たしかそう言っていたはずだ。だのに、ツァンはなぜこうも平生至極でいられるのか。これも予想の範疇だったのか、何か自身の安全を保障する策をまだ隠しているのか。残念ながら、一年もVR世界から抜け出していない俺には、それを推し量るための材料をほとんど持ち合わせていないに等しいのだ。考えても分かるはずがない。
だが二つだけ、確実なことがある。一つ目は、現実世界に戻ったら俺も彼女も只では済まないだろうということだ。ツァンが為そうとしていることのために、本当に病院の患者たちが犠牲になりでもしたら猶更だろう。すなわち二つ目は、罪もない病人たちが巻き込まれることだけは、何としても防がなくてはならないということだ。わかっている二つだけの事実を踏まえて、俺が取るべき行動は一つだ。俺は、ツァンと患者の両方を助ける。
「……とは言っても、どうやる?」
相手がゲームのキャラクターなら、こんなに悩むことはないのに。俺は意識的に奥歯を噛みしめていた。できるだけシンプルに考えるんだ。ブルーとして活動していた時も、複雑に組んだプログラムより、相手の虚をつくシンプルなものを考えろと教えられたじゃないか。ツァンはその道ではプロ中のプロだった。
「できるだけ……シンプルに、か」
ツァンは俺の様子を興味深げに眺めている。問答では絡めとられる一方だからな。むだに考えてみたり、駆け引きに持ち込もうとするのはもうやめだ。ダメで元々。突拍子もないことを言いだしてツァンの反応を見るためには……
「ツァン、俺と勝負しろ!」
「はあ?」
ツァンが口をあんぐりと開けた。成功か?
「あれこれ考えすぎて頭がパンクしそうだ。何をしようとしているのか知らないが、俺が勝ったら現実世界へ戻るんだ。お前が勝ったら……好きにしろ」
「クスクス……あなたに勝たなくても、この世界であたしにできないことはない。その勝負を受けてあたしになんのメリットがあるのかしら? だいたい、どうやって勝負するつもりなの?」
「そうだな……」
彼女の言う通り。だが、少なくともツァンの興味を引くことには成功した。
「言うだけ言ってはみたが、力比べじゃ勝敗は見えてるからな……どうしたもんか」
「あら、そうかしら」
予想に反して、ツァンは自信があるようだった。基幹プログラムを操れるというだけで、ここはゲームの世界だ。ログインしたばかりのツァンのステータスは、剣術指南を始めた頃の英雄どもと同程度だろう。それで戦って、彼女が俺に勝てる道理はないはずだが。あくまで、キャラクターの能力だけを比べれば、の話だが。
「あなたが頼りにしていた女神は二人とも機能していないのよ? それで勝てると思うの?」
なるほど、ツァンの自信はそこからきているのか。確かに大きな戦力ダウンとなることは否めない。だが、リュカゥを停止させたプログラムを「アップロード」したのは彼女自身だ。解除することも容易だろう。このまま勝負してみる流れになるのであれば、なんとかその方向に……
いや、待て。
ツァンの吐いたセリフが、どうにもひっかかる。思い付きで「戦え」などと言ってみたが、嫌なら嫌ではっきりと突っぱねればいいのだ。回りくどい性格なのだと言えばそれまでだが、「それで勝てると思うの?」などと言って、俺自身に諦めさせようとしているというか、なんとかして戦いになることを避けたい節があるような気がする。
いくらステータスで勝っていようと、戦えないようにする方法なんていくらでもある。例えばさっき現王園にやったみたいに、身体グラフィックをいじるとか。達磨のように変更されて転がされれば、それで終わりだ。空中に浮かぶツァンには文字通り手も足も出ない。彼女の性格ならむしろ、勝負が始まったとたんに軽く手を振って、「ほら、ごらんなさい」とか言いそうなものだ。
まさか、できないのか?
俺はあるひらめきから、ツァンを打倒し、強制的にログアウトさせる方法を見出した。そうだ。簡単に手の内を明かさないツァンが、わざわざ俺が勝てない理由を示して勝負を諦めさせようとする理由。それは――
「ツァン……やっぱり俺と戦ってもらうぜ」
「無謀だと思うけど」
「どうかな。……リュカゥ! 起きろ!」
俺たちが移動したせいで、三メートルほど後方の空間に置き去りになっているリュカゥの足元へ走り寄った。
「……無駄よ。自慢の女神はさっき――」
「博士! 見ているんだろう!?」
ツァンを遮り、俺は朝焼けに染まったまま代わり映えのしない空を見上げて叫んだ。俺たちをモニターしているはずの人物に向かって。
「あんたは、俺が構築したプログラムにアクセスできる! 時空の女神と月の女神を再起動させろ!!」
「無駄だと言って――」
「いや。無駄じゃない」
俺はツァンを振り返ってその目を見据えた。わずかだが、真っ暗なブラックホールのようだった瞳が揺れているような気がした。
「俺はもともと、NOAのサーバーにしか存在しなかった。それをそっくり、NOAⅡに移植してきたとは思えない。お前は言ったな。博士がスウェーデンのプログラムの一部にアクセスできたと」
「……」
ツァンの顔から笑顔が消えた。黙らせようと思えば現王園のように口を塞げばいいんだ。
「どこまで解析したのか知らないが、少なくとも今、お前はそっちまで手が伸ばせないんじゃないか? 前もってシュエリスを消しておいたのはそのためだろう。お前は、NOAⅡと病院のサーバーを乗っ取るところまでが限界だったんだ」
「それで十分だと判断しただけよ」
「そうかな?」
先んじてシュエリスを消しておいたのは、俺の戦力ダウンはもちろんのこと、一条杏南からツァンに変貌を遂げる際、俺の注意を強く引き、思考を混乱させるための布石だったに違いない。ツァンの口角が僅かに痙攣したのを俺は見逃さなかった。
「そもそも、サーバーを乗っ取ってこの世界の現象を自由に操れるお前が、リュカゥを停止させる必要なんてなかったんだ。時間を止めたければ好きにすればいい。現王園の口を塞いだように。だが、わざわざ更新プログラムをアップロードしたのはなぜだ?」
「それは――」
「それは、NOAⅡはゲームとして不完全な状態だったからだ。博士たちはそれを補完するために、スウェーデンのスパコンと日本のスパコンを接続して俺のプログラムを流用したんだ。この世界で時間を止めるためには、解析が進んだ俺のプログラムを一部停止させる必要があった」
俺が話していることは予想というか、半ば願望だ。だがそれが限りなく真実に近いことを、彼女の表情が物語っていた。
「NOAⅡのサーバーしか支配していないお前には、スウェーデンのサーバーに身を置く俺と女神たちのプログラムにこれ以上干渉できない。……つまり」
俺は屋上の床を蹴った。瞬時にツァンとの間合いが詰まる。
「俺は――現王園みたいにはいかないってことさ」
「くっ!!」
一瞬で眼前に現れた俺から遠ざかるため、ツァンは空中へ逃れた。飛び上がることはできるが、それでは逃げられてしまう。もう少し追い詰めなければ。
「どうする? そのキャラの防御力じゃ俺の攻撃は防げないぜ……こいつはイベントじゃない。やられれば強制ログアウト、プラス二時間ログイン不可能……このルールは引き継がれているか?」
奴が俺と戦うには、時間を動かすしかない。現王園のプレイヤーキャラと違い、時間が停止した物体には干渉不可能だ。世界の時間さえ動き出せば、このフィールドに存在するありとあらゆるもの――俺と女神たち以外の全てが彼女の支配下に入る。それこそ、空中にいきなり盾を出現させることもできるだろう。
「聞きなさい。ブルーバード」
「悪いがツァン。お前の目的がなんであれ、人質を取るようなやり方はダメだ。ログアウトして……一緒に裁きを受けよう」
「…………」
ツァンは空中で俯いて押し黙った。その表情は影になって見えない。この間に博士が時を動かしてくれればいいのにと思い、俺は再び天を仰ぎ見た。相変わらず、砂漠鳥がそこに静止していた。
「ふふ……あたしにとって幸せを運ぶ青い鳥、そういう願いを込めたつもりだったのに」
ツァンが小さく笑い、小さく呟いた。
「ツァン、お前は――」
「問答は終わりよ。羽鳥正孝……ブルーとしてのコンビも解散。……でも」
あたしにはまだ、やることがある。
とつぜん、風が吹いた。砂交じりの突風が肌を打ち、思わず目を閉じる。時間が動き出したのだ。
「ツァン……」
目を開けて空を見上げたが、砂漠鳥が旋回する空からは、黒衣の女神の姿は掻き消えていた。




