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第十六話 暗躍するものと漂流者たち

 眠りに落ちる瞬間を認識できる人間は少ないという。どのタイミングで眠ったか、最後に呼気を吐いたのか、それとも吸気の直後に眠ったのか。気がつけば朝であったり、尿意を催して夜中に目覚めたり。

 現王園暮治は、自分が眠りに沈んでいく(・ ・ ・ ・ ・)感覚が分かる人間だった。例えば当直医が仮眠を取るための、けして高級とは言えないマットレスに横たわっているとき、彼は当直室の蛍光灯のスイッチをオンにしたまま眠る。 瞼を閉じていても、白い光は容赦なく薄い皮膚を通過して瞼の毛細血管の模様を網膜に届け続ける。しかし眠りに落ちるとき、彼を包む白色の世界は急速に暗転する。現王園はそれを認識して自分が眠りに落ちるのだと思い、身体が急速に落下していくような感覚に身を委ねる。どこまでも続く縦穴を落下していき、底にたどり着いたときまさに眠りに落ちるのだが、そのタイミングで呼気をゆっくりと吐き出した時は良眠が得られ、吸気のタイミングであった場合はひどく不快なものとなり、最悪の場合そこで目が覚めてしまうこともしばしばだった。

 

 まさか、真逆の体験をするとは。


 仮想現実の世界から帰還した現王園は、自分の意識が縦穴の底から急上昇する感覚を明確に捉えていた。あっという間に瞼の裏は白い光で満たされ、開いた目に飛び込んできたのは酸素や窒素を運ぶチューブが垂れ下がる天上だった。

 当直医用のベッドとは比べ物にならない、良質な反発力を有するマットレスが、仰向けに寝かされている彼の体重を包み込むように支えていた。枕の高さも頸椎に負担がかからないように完璧に調整されており、その快適さはこのまま寝てしまおうかと一瞬現王園に思わせた。実際、彼はそうしたかもしれなかった。仮想と現実の世界を行き来することに慣れていないものを襲う独特の浮遊感とめまい――VR酔いは、それほどの疲労を彼にもたらしていた。


「……ちっ」

 

 左右を見渡そうとして、現王園は自分の境遇を詳しく思い出すことになった。

 頭部には脳コンが装着されていることと、額のわずかな隙間を埋めるように装着された拘束帯のせいでがっちりと固定されていた。両手両足にも拘束バンドが巻かれ、ベッド柵にしっかりと固定されている。専用の強力な磁石がないと外せない代物であり、彼は当然それを知っている。鎮静剤でも投与されているのか、意識はあっても四肢の感覚がない。おかげで痛みはまったく感じないが、それと同時にナースコールが手近にあっても押せないと悟り、どうせ動静脈にカテーテルを挿入されているだろうと思った彼は、無理に動こうとはしなかった。


「誰か――」


 どうにか目だけを動かして左右を見たが、見えるのは天井とクリーム色のカーテンばかりでスタッフの姿を認めることはできず、彼はカラカラに乾いた喉から声を絞り出した。しかしそれに答えるものはなく、彼の中に焦燥が芽生え始めた頃になって、ベッドを囲むカーテンが静かに開かれた。

 

「ああ、無事に帰ったようだね」

「……医者を呼んでくれ」

「ははは。ごあいさつだな」

「冗談で言っていると思うか」


 現れたのは、VR対策室室長だった。まずは患者たちの無事を確かめたい現王園は、若い政治家を面白がらせたことに少しの悦びも感じなかった。逆に、力いっぱい睨まれた大泉がわざとらしく肩を落とした。


「君が帰還すると聞いて、ボスのところへ行くのをキャンセルしてまで飛んできたというのに、ショックだよ。どこか不調でもあるのかい?」

「お前も見ていただろう。奴は――Xはただのハッカーから大量虐殺者になるかもしれん。すぐに対策を――」

「よしてくれ。そんな風にか細い声を出されると、助けたくなってしまう」

「……?」


 まさに喉を枯らして訴えた現王園が横たわるベッド柵に、大泉が両肘をかけてもたれかかった。彼はかつて自分を救った医師の顔を覗き込んで、鎮静剤の影響下にありながらも輝きを失わない瞳に視線を固定した。


「君は相変わらず熱いね。患者としては嬉しい限りだ……でも、テロリスト(・ ・ ・ ・ ・)との交渉には情なんて必要ないんだ」

「もとより交渉の席に付くつもりなどないさ。――ああ、浅野」


 その時、開けられたカーテンの隙間から滑り込むようにして現れた人物の顔を認め、現王園は安堵した様子を見せた。


「――!? お前、何を」


 しかし、その人物が手にした特徴的な色をした薬剤が入ったシリンジを見て絶句した。


「浅野、待て! 誰の指示だ!」

「…………」

 

 現王園の後輩は答えなかった。代わりに慣れた手つきで、先輩医師の左腕の静脈に挿入されているカテーテルの三方活栓の蓋を開け、アルコール消毒した後に薬剤を繋いだ。現王園は身を捩って躱そうとするが、長く伸びたカテーテルの先で作業をする若い医師にとっては何の障害にもならない。やがて、乳白色の液体がゆっくりと注入され、左腕を這い上るような痛みと共に現王園の意識は闇に沈んだ。この時ばかりは、自分の意識が刈り取られる瞬間を認識することはできなかった。


「こ、これでよかったんでしょうか」


 乳白色の液体――代表的な麻酔薬であるプロポフォールが入ったシリンジをポンプにセットし、時間あたりの流量を設定しながら頼りない声を出した浅野を一瞥し、大泉は可能な限り自分の声に侮蔑の感情がこもらないようにして、


「もちろんです。先生」


 と言い、満面の笑みを作って続けた。


「なにぶん門外漢なもので、ちょっと教えてほしいのですがね? 現王園君には、最初から鎮静目的で麻酔薬を投与する必要があった――そうですよね?」

「ええ……VR世界で何か酷い体験をしたみたいで、痙攣がしばらく続きましたからね……プロポフォールは切れも速やかですし、その後は落ち着いていますから」


 僕の判断は間違っていなかったと思います。その目が少し自信を取り戻しているのを確認し、大泉はさらに畳みかける。


「ええ、ええ。そうでしょうとも。たしか、その麻酔薬というのは、目が覚めたときの記憶が曖昧になることも往々にしてある、と聞いたことがあります。いやなに、叔父が盲腸をやったときにそんなことを申しておりましてね。……実際のところどうなんですか?」

 

 大泉に血縁上の叔父はいるかもしれないが、彼は会ったことがない。しかしそんなことはこの場には全く関係のないことだった。ただ、浅野という人間が控えめに見えて実は自己顕示欲の強い人間であることを見抜いていた大泉は、医学的な説明をいくらかさせることで、怖気づきそうな彼の心を鼓舞しようと考えていた。


「そうですね。覚醒時の記憶の混濁や、人によっては幻覚に似た症状を呈する場合もありますが、拮抗薬をうまく使用して――」

「ああ、ええ。そうでしょうとも。ですが、さきほどの現王園君は、先生から見ても少し……なんというか興奮気味でしたよね? そういうときはどうすればよろしいのでしょうか?」


 うまくノッてきたのはいいが、あまりぐだぐだした説明を聞いている時間もない。大泉は、浅野を誘導した。


「はぁ、まあ拮抗薬が効いてくるのを待てばいいんですけど、現王園先生は麻酔で眠っていたわけではないので――」


 ああ、違う。なんて察しの悪い男だと大泉は内心頭を抱えた。


「ええと、つまり、仮想世界との接続が切れて、興奮状態の患者がいたらどうしますか? という意味で」

「え? それなら、鎮静薬を使いますね。暴れ方が酷いと危険ですし、でもげんおうぞの先生は――」

「つまり、現王園君には必要な処置だった――ということですね?」


 すぐに余計なことまで説明しようとする浅野に対し、大泉はいささか以上に低い声で訊ねた。集中治療室は広く、ベッドとベッドの間はカーテンによる仕切りしかない。しかしビクリと反応した浅野は、その声が現王園の横たわるベッドの周囲のみに響いたように感じていた。


「いいんですよ。先生。現王園君は、仮想世界でそれはもう酷い目に遭ったのです。さらに、卑劣なテロリストによって強制的ログアウトさせられたことで突然目覚めた彼は、軽いパニックを起こしていた。留守(・ ・)を任されていたあなたは、暴れる彼をどうにか抑え、適切な薬剤を投与して安定させた――そして、もともと投与されていた薬剤の影響も手伝って、彼はそのことを覚えていないどころか、僕と先生が無理矢理薬を打ったなどという妄想に囚われてしまった……ということで、ね」

「…………」

「宜しいですね。……先生?」


 ごくりと生唾を飲み込んだ浅野の喉仏の動きを見た大泉は、満足そうな笑みを浮かべて出て行った。


「……はい」

 

 浅野が小さく答えた頃には、若きVR対策室室長は、とっくにICUを後にしていた。







「ちょっとー! なんで誰も動かないわけー!?」


 磨き上げられた白銀の鎧――その胸当ても、篭手も、つま先から膝下までを覆うブーツも、装備している全てが魔物の返り血でどす黒く染まっている――を着込んだ長身の男をげしげしと蹴りつけながら、一人の少女が喚いていた。彼女の声は荘厳な造りの神殿内に反響し、わんわんと響き渡っている。

 蹴られている男はと言えば、少女のやくざキックを腰当ての辺りに受けながらもなんら意に介した様子はなく、それどころか蹴られたことによって生じるはずの移動――どんなに頑強な人間でも生じるはずのそれすら見受けられない。まるで、非常に硬い素材でできた彫像か、石の柱であるかのようだった。


「なんとか言いなさいよ、このひげ! えいっ、この! ……もう、なんなのー!?」


 さらに少女の蹴りが男の背中を襲うが、結果は同じだった。少女はペタンと床に座り込み、今度はその様子を眺めていた同い年くらいの少年を振り返って睨みつけた。


「キモデブ! あんたのせいよ!」

「ええ、どうしてさ?」


 キモデブとは、少女が少年に対して生理的に嫌悪感を抱いているという感情を、隠すことなく叩きつける「キモ」に、身体的特徴を揶揄する「デブ」を合体させて生じた正真正銘の悪口である。そんなことを可愛らしい容姿をもつ同年代の女子に正面きって言われれば、トラウマになりかねない。しかし、現在彼らが置かれている状況全ての責を負わされそうになったことの方が、少年にとってはショックであったようだ。


「うーん。サーバーがダウンしたのなら、僕らだって排出されちゃうと思うんだけど……メインプログラムの動作不良かな……とにかく、これは僕のせいじゃないよ」


 冤罪を主張する彼の横には、凶悪な顔をした悪魔の眉間に剣を突き立てている女性の姿があった。美麗な顔を持つ女騎士は、激しい戦闘の最中にあっても軽々しく触れることを許さない凛とした気品に溢れていたが、少年は無遠慮にその頬を指先で突いて感触を確かめていた。女騎士の表情は凍り付いたように固まったまま、先ほどの騎士と同様ピクリとも動かない。


「完全に停止しているね。生体オブジェクトとして機能してないから、背景や建物と同じになっちゃってるんだ」

「んで? これって復旧するのかー?」


 夥しい数の魔物の死骸で埋め尽くされた神殿の床を避け、曲がりくねった角が生えた、何がしかの動物の頭骨が飾られた祭壇に腰を降ろした黒髪の少年が、キモデブと呼ばれた少年に問いかけた。彼の正面には、仲間の死体を踏みしだいて襲い掛かろうとする、牡牛の頭から人間の足が生えているという不気味なフォルムの魔物が群れを成して迫っており、その間に割って入った豪奢な刺繍入りのローブを着た男とともに空間に固定されていた。ローブの男が手にした杖の先端を取り囲むように真っ赤な火球が複数浮かんでいたが、それらが放っていた光や熱はまったく感じないのか、少年はそのすぐ近くで平然と話している。


「イベントループより性質が悪いぜ。これじゃあ退屈でしょうがねえ」


 少年のぼやきに、キモデブは腕を組んで唸った。


「う~ん。放置ってことはないと思うけどね」

「もう、けっこう待ってるよな……やばいんじゃねーの?」


 最後のぼやきはごく小さな声で呟いたものだったが、騎士の背中を蹴るのに疲れたのか、まだ呼吸が安定していない少女がそれを耳ざとく聞きつけた。


「ちょっとユーキ! 何がやばいのよ――う!? ゲホッ!」

「おいおい大丈夫か……落ち着けよ、ミサ」


 盛大にむせ込んだ仲間を気遣うユーキだったが、ミサは胸を押さえて涙目になりながらも彼を睨みつけた。


「ゴホッ、ゴホッ! ……うう、落ち着いてなんかいられないでしょ! ユーキはなんで平気なのよ!?」

「平気じゃねーよ。けどハシモト、どうしようもないんだろ?」


 肩を竦めて、なあ? と同意を求めるようにもう一人の少年キモデブ――ハシモトを見るユーキ。しかしハシモトは聞いていなかったのか、女騎士の身体を突きまわして邪悪な笑みを浮かべていた。


「……そうだ! 今のうちに邪神を倒しちまうとか?」


 そんなハシモトの様子を横目にポンとユーキが膝を打って言うと、ハシモトが美女を突く手を止めて振り返った。


「無理だよ。本来動くはずのアクティブオブジェクトも全部停止してるもん。つまり、扉が開かない。僕らはこの部屋から出ることもできないってわけ」


 すでに一時間以上、三人以外に動くものが無くなった世界で過ごしているものにとっては冷酷に過ぎる事実を告げると、再びグフグフと笑いながら美女いじりに戻っていった。


「……聞いてんじゃねーか」

「まあ、待てばなんたらの日より在りさ」

「もう、いやー!!」


 深々とため息をついたユーキを振り返りもせずに、ハシモトがあっけらかんと答え、ミサの叫びが神殿に沈殿した空気を揺らした。




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