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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第三部 故郷での再出発
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第六十五章 別れへの準備

秋の風が吹く頃。

清子の家の庭では、柿の葉が一枚、また一枚と地面へ落ちていた。

昔なら、清子は朝早く起きて庭を掃き、落ち葉を集めていた。

だが最近は、縁側に腰を下ろしたまま、箒を手に取ってもすぐに息をつくことが増えていた。

「ちょっと休むよ」

そう言って、清子は箒を壁に立てかける。

立ち上がる時には、まず手をついて、膝をゆっくり伸ばす。

その動きひとつに、家族は気づいていた。

できなくなったことが増えた。

長く歩くこと。

重いものを持つこと。

夜遅くまで働くこと。

針に糸を通す時も、清子は目を細めて、何度か糸先を指でなぞる。

「見えにくくなったねえ」

そう笑う声は軽いのに、静香はその横顔を見て胸が詰まった。

昔の清子なら、そんな自分を許せなかったかもしれない。

けれど今は違った。

「歳を取るって、こういうことなのかね」

清子は小さく笑った。

その笑い方は、少しだけ前より静かだった。


静香は、そんな母の変化にすぐ気づいていた。

茶碗を持つ手が、ほんのわずかに震える。

階段を上がる時、途中で一度手すりを握り直す。

それでも清子は、家族の前ではいつも通りに振る舞おうとする。

「大丈夫、大丈夫」

そう言いながら、重い鍋を持とうとするたび、静香が先に手を伸ばした。

「お母さん、私がやるよ」

「平気だよ」

「平気じゃないでしょ」

静香が少し強い口調になると、清子は困ったように笑う。

昔からそうだった。

苦しくても。

悲しくても。

辛くても。

いつも家族の前では笑っていた。

しかし、静香には分かっていた。

母もまた、誰かに支えてほしい時があるのだと。


ある朝。

静香は清子の髪をゆっくり整えていた。

櫛を通すたび、白い髪が何本も指に絡む。

静香はそれをそっと外しながら、鏡の中の母を見た。

「お母さん。」

「なに?」

「昔から思ってたけど……本当に頑張ってきたね。」

清子は鏡越しに静香を見る。

「急にどうしたの」

静香は少し涙をこらえながら言った。

「だって、お母さんはいつも私たちのことばかりだったから。」

「自分のこと、後回しにしてきたでしょう。」

清子は何も言わなかった。

ただ、櫛を持つ静香の手に、自分の手をそっと重ねた。

その手は、昔より少し細く、少し冷たかった。

そして、静かに笑った。


「母親ってね。」

清子はゆっくり話した。

「子どもが幸せなら、それだけで幸せなのよ。」

静香は首を振った。

「でも、お母さんだって幸せになっていいんだよ。」

その言葉に、清子の目が少し潤んだ。

昔、自分が静香に言ってあげたかった言葉。

今度は娘から返されていた。

清子はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。

「そう言ってもらえるうちが、花かもしれないね」

静香はその言葉に、思わず顔を上げた。

「お母さん、そんな言い方しないで」

清子は笑ってごまかしたが、その笑顔の奥に、静香は小さな不安を見た。


一新も、母を見る目が変わっていた。

幼い頃の一新にとって、清子は絶対的な存在だった。

何があっても倒れない。

何でも解決する。

そんな母だと思っていた。

しかし、大人になった今なら分かる。

台所で立ったまま少し目を閉じること。

荷物を持ち上げる前に、無意識に腰を押さえること。

そうした小さな仕草のひとつひとつが、母の歳月を語っていた。

母は強かったのではない。

強くならなければ、家族を守れなかったのだ。


ある晩。

一新は清子の隣に座った。

「母さん。」

「ん?」

「俺、昔は母さんに守られてばっかりだったな。」

清子は笑った。

「子どもなんだから当たり前でしょう。」

「でも今は違う。」

一新は庭を見ながら言った。

「今度は俺たちが母さんを守る番だ。」

清子はしばらく黙った。

そして、小さく頷いた。

「頼もしいねえ」

そう言いながらも、清子は一新の顔をじっと見た。

その視線には、嬉しさと、どこか遠くを見るような静けさが混じっていた。


新潔もまた、母への感謝を強く感じていた。

自分自身も身体の変化と戦っている。

見えなくなる恐怖。

未来への不安。

そんな時、いつも思い出す。

満州で何も持たずに生き抜いた清子の姿を。

あの頃の母は、泣く暇もなく、ただ前へ進んでいた。

今のように、縁側で風に髪を揺らしながら、遠くを見つめることもなかった。

「母さんは、もっと怖かったはずなのに。」

そう思うと、自分も負けてはいられなかった。


正恵は、清子のそばにいる時間が増えていた。

茶を淹れる時も、湯呑みを両手で包むように差し出す。

清子が立ち上がろうとすると、すぐに「待って」と声をかける。

かつて、自分は誰かに守られることを知らなかった。

耐えることしか知らなかった。

しかし清子と出会い、家族に支えられる温かさを知った。

「お母さん。」

正恵が言う。

「私、清子さんに会えてよかったです。」

清子は優しく笑った。

「私もだよ。」

「あなたたちがいたから、私は母親でいられた。」

その言葉に、正恵は少し目を伏せた。

「まだ、いてくださいね」

小さな声だった。

清子はその言葉を聞いて、何も言わずに正恵の手を軽く叩いた。


夜。

清子は古い箱を取り出した。

中には、昔の写真や小さな思い出の品が入っていた。

満州で暮らしていた頃のもの。

子どもたちが幼かった頃のもの。

孫たちが生まれた時のもの。

一枚一枚、ゆっくり眺める。

指先で写真の端をなぞるたび、清子は少しだけ目を細めた。

「これ、まだ取ってあったの」

静香が覗き込むと、清子はうなずいた。

「捨てられなかったんだよ」


写真の中には、若い頃の清子がいた。

まだ未来を知らない少女。

戦争も。

別れも。

苦労も。

知らなかった頃の自分。

清子は写真に向かって微笑んだ。

「長い旅だったね。」

「でも、悪い旅じゃなかったよ。」

そう言ったあと、清子は箱の底にしまってあった一冊の古い帳面を見つけた。

表紙は擦り切れ、端は少し破れている。

清子はそれを手に取って、しばらく黙っていた。

「これは……」

静香が尋ねると、清子はすぐには答えなかった。

ただ、帳面を胸に寄せるように持ち、そっと閉じた。

「今度、ちゃんと見せるよ」

その一言に、家族は互いに顔を見合わせた。


翌日。

清子は家族を集めた。

静香。

一新。

新潔。

正恵。

そして孫たち。

みんな不思議そうな顔をしていた。

「どうしたの、おばあちゃん?」

幸江が尋ねる。

清子は笑った。

「ただね、みんなに伝えておきたいことがあるの。」

座布団に腰を下ろした清子は、少し背筋を伸ばした。

その姿を見て、静香は思わず息をのんだ。

いつもより、母が遠く感じたからだった。


「家族はね。」

「血が繋がっているだけじゃない。」

「苦しい時に隣にいること。」

「嬉しい時に一緒に笑うこと。」

「それが家族なんだよ。」

誰も言葉を返さなかった。

ただ、全員が清子の言葉を胸に刻んでいた。

孫たちも、いつものようにはしゃがず、静かに祖母を見つめていた。

清子はその視線を受け止めながら、ひとりひとりの顔をゆっくり見回した。

まるで、心に焼きつけるように。


清子は最後に言った。

「もし、お母さんがいなくなっても。」

「この家から笑顔をなくさないでね。」

その言葉に、静香は涙をこらえた。

一新は唇を結び、新潔は目を伏せた。

正恵はそっと清子の背中を見つめた。

まだ来ていない未来。

でも、いつか必ず訪れる別れ。

その準備を、少しずつ始める時が来ていた。


夜空には星が輝いていた。

満州で見上げた星。

日本へ戻ってきた時に見た星。

そして今、家族と見る星。

全て同じ光だった。

清子は静かに目を閉じた。

「ありがとう。」

その言葉は、過去へ。

家族へ。

そして、自分の歩んできた人生へ向けたものだった。

その横顔を見ながら、静香は胸の奥でそっと思った。

この人は、まだ何かを残そうとしている。

言葉にしきれない何かを。

帳面のことも。

あの静かな目のことも。

きっと、次に話してくれるのだろう。


しかし、清子の物語はまだ終わらない。

残された時間の中で、彼女が家族へ最後に伝えるもの。

そして、子どもたちが母から受け取る最後の贈り物。

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