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満州に咲いた命  作者: 月羽めい
第三部 故郷での再出発
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第四十五章 それぞれの家族

日本へ帰国してから、数年の月日が流れた。


同じ故郷に戻ってきたはずなのに、家族ごとに抱えるものは少しずつ違っていた。

清子一家は、戸惑いながらも、日々の暮らしの中で少しずつ日本での生活を取り戻していく。

その一方で、静香は夫との間に言葉にならない距離を抱え、一新は新しい家庭を守ろうとしながらも、かつて憎んだ父の影に揺れていた。

正恵は離婚の痛みを抱えたまま娘と歩み、新潔は視力への不安を胸に、父としての責任を静かに受け止めていた。


苦しみの形は違っても、どの家族にも共通していたのは、誰かを思い、誰かに支えられながら生きているということだった。

戦争を越え、満州を越え、ようやく戻った日本で、彼らはそれぞれのやり方で「家族」というものをもう一度見つめ直していた。



清子一家は、最初の頃こそ、何もかもが息苦しかった。


耳に入る言葉は同じ日本語でも、どこか遠く、冷たく感じられた。

買い物ひとつ、近所づきあいひとつ、何をするにも気を張らなければならない。

中国で何十年も生きてきた家族にとって、日本は懐かしいはずの故郷だった。けれど、帰ってきたからといって、すぐに心が落ち着く場所ではなかった。


それでも、家族は離れなかった。


誰かが不安を口にすれば、誰かが黙って背中をさすった。

誰かが泣きそうになれば、誰かが「大丈夫」と言ってくれた。

苦しい時代を共に越えてきた絆だけは、どんな土地にあっても、簡単にはほどけなかった。



清子は朝早く起きると、いつものように家族のために食事を作った。


湯気の立つ鍋を見つめながら、ふと昔のことを思い出す。

中国で、納屋のような場所に身を寄せて子どもを産んだ夜。

食べるものがなく、腹の底が冷えていくような日々。

それでも、目の前の子どもたちの顔を見るたびに、清子は自分の空腹を忘れた。


守らなければならない。

この子たちだけは、何があっても。


その思いだけで、清子は何度も立ち上がってきた。

日本に戻ってからも、その習慣は変わらなかった。いや、変えられなかったのかもしれない。

家族のために台所に立つことが、清子にとっては生きることそのものだった。


「お母さん、もう少し休んでいいんだよ。」


静香が、少し心配そうに声をかける。

清子は振り返り、手を止めて笑った。


「休んでばかりいたら、体がなまってしまうよ。」


「でも、お母さん、最近ちょっと顔色が……」


「母親っていうのはね。」


清子は、静香の言葉をやわらかく遮った。


「子どもが大人になっても、心配するものなのよ。

 それに、こうして台所に立っていると、みんなの顔が見えるでしょう。

 それだけで、私は安心するんだよ。」


その言葉を聞いて、静香は少し寂しそうに笑った。

胸の奥が、じんわりと熱くなる。


自分が母になった今なら分かる。

母がどれほど自分たちを思い、どれほど自分を後回しにしてきたのか。

あの頃は気づけなかった優しさが、今になって胸に沁みてくる。


「……ありがとう、お母さん。」


静香が小さく言うと、清子は何も言わずに、ただ静かにうなずいた。



静香は夫・黄来真と娘の幸江と共に、日本で暮らしていた。


幸江は、最初こそ新しい環境に戸惑っていたが、子どもの順応は早い。

近所の子どもたちと遊ぶうちに、少しずつ日本の生活にも慣れていった。

その笑顔を見るたび、静香はほっと胸をなで下ろした。


けれど、静香の心には、結婚当初から消えない傷が残っていた。


来真との結婚。

それは、愛だけで始まったものではなかった。


若かったあの頃。

来真は本当に自分を大切に思って結婚したのではない。

一夜の過ちによって子どもができ、その責任を取る形で結婚したのだ。


その事実を、静香はずっと胸の奥に押し込めてきた。

口にすれば、何かが壊れてしまいそうで怖かった。

母に話せば、きっと心配させてしまう。

だから、誰にも言わずにきた。


ただ、妻として。

ただ、母として。

静かに、淡々と、日々を積み重ねてきた。


けれど、夜が深くなるほど、心の奥の痛みは消えなかった。

ふとした瞬間に、来真の横顔を見ては思う。


(この人は、私を見ているのだろうか。)


(私は、この人の隣で、本当に妻でいられているのだろうか。)


答えのない問いが、静香の胸の中で何度も繰り返された。



ある夜。


来真が仕事から帰ってきた。


玄関の戸が開く音がして、静香は台所から顔を上げた。

来真は疲れ切った顔で靴を脱ぎ、肩を落としたまま部屋へ入ってくる。


「疲れた。」


それだけ言うと、どさりと座り込んだ。


静香は何も言わずに、温めておいた食事を並べる。

昔なら、「今日はどうだったの」と声をかけていたかもしれない。

けれど今は、その一言さえ喉の奥で止まってしまう。


話しかけても、返ってくるのは短い返事ばかり。

優しい言葉を期待してしまう自分が、みじめに思えることもあった。

だから静香は、黙って茶碗を置いた。


「……食べて。」


来真は箸を取ったが、静香の顔を見ようとはしなかった。

その横顔を見ているだけで、静香の胸は冷えていく。


幸江がいる前では、来真は父親らしく振る舞う。

子どもに向ける声は、少しだけやわらかい。

そのことが、静香には余計につらかった。


(この人は、娘には優しいのに。)


(私には、もう何もないのだろうか。)


そう思うたび、静香は自分の心が少しずつ乾いていくのを感じた。

それでも、娘の前では笑った。

母としての顔を崩すわけにはいかなかったからだ。


「お母さん、これおいしい。」


幸江が無邪気に言うと、静香はその笑顔に救われる。

この子がいるから、まだ立っていられる。

そう思うしかなかった。


来真は静香を見ても、昔のように優しい言葉をかけることは少なかった。

静香もまた、何かを求めることをやめていた。

夫婦の間には、気づかぬうちに、静かな壁ができていた。


静香は心の中で、何度も問いかける。


(私は、この人に愛されているのだろうか。)


(それとも、ただ一緒にいるだけなのだろうか。)


答えは、まだ見つからなかった。

見つける勇気も、まだ持てなかった。



一方、一新は蘭々と共に家庭を築いていた。


中国で苦しい幼少期を過ごした一新。

学校へ行けず、幼い頃から靴磨きをして家族を支えた。

寒さに震えながら、腹を空かせながら、それでも前を向いてきた少年だった。


そんな彼にとって、日本で持った家庭は、何よりも大切なものだった。


子どもが生まれた日のことを、一新は今でもはっきり覚えている。

小さな泣き声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなって、思わず目を伏せた。


「……生まれたんだな。」


そうつぶやくと、蘭々が疲れた顔のまま、ほっとしたように笑った。


「あなた、泣いてるの?」


「泣いてなんかない。」


そう言いながらも、一新の声は震えていた。

自分にも、守るべきものができた。

その事実が、嬉しくて、怖くて、たまらなかった。


「俺は、父さんみたいにはならない。」


何度も、何度も心に決めていた。


酒に逃げること。

家族を傷つけること。

怒りをぶつけること。

自分が幼い頃に見てきた悲しみを、子どもには味わわせたくなかった。


「この子たちには、ちゃんと笑っていてほしい。」


そう言うと、蘭々は少しだけ目を潤ませてうなずいた。


「ええ。あなたなら、きっと大丈夫。」


蘭々との間には、やがて二人の子どもが生まれる。


長女――見栄。

そして長男――勲。


一新は子どもたちを抱き上げるたび、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。

小さな手が自分の指を握る。

その温もりに、何度も救われた。


(俺にも、守るものができた。)


(この子たちのためなら、何でもできる。)


そう思うたび、一新は少しだけ強くなれた気がした。



しかし、時が経つにつれ、一新にも父・王邑黄と同じ影が少しずつ現れ始める。


仕事の疲れ。

生活の不安。

過去の苦労。

積み重なった重さが、少しずつ心を蝕んでいった。


最初は、本当に少しだけだった。


「今日くらい飲ませてくれ。」


そう言って、酒を口にする。

一日の終わりに、ほんの少し気を紛らわせるだけのつもりだった。


けれど、酒が入ると、抑えていた感情が一気にあふれ出す。

些細なことで声が荒くなる。

黙り込んだかと思えば、急に苛立ちをぶつける。

自分でも止められない波に、戸惑いながら飲み続けてしまう。


蘭々は、そんな一新を見るたびに不安そうな顔をするようになった。


「また飲んだの?」


「少しだけだ。」


「少しじゃないでしょう。顔を見れば分かるわ。」


「うるさいな。」


そう言ってしまったあと、一新はいつも後悔した。

蘭々の目が、傷ついたように揺れる。

そのたびに胸が痛んだ。


(違う、こんなつもりじゃない。)


(俺は、あの人みたいになりたくなかったのに。)


頭では分かっているのに、やめられない。

自分の弱さが、何よりも悔しかった。


蘭々は何も言わずに背を向けることもあった。

その沈黙が、一新には何よりこたえた。

けれど、どう謝ればいいのか分からない。

どうすれば元に戻れるのかも分からない。


一新自身も、その姿に気づいていた。

気づいていながら、止める方法が分からなかった。

父の背中を憎んできたはずなのに、気づけば同じ道を踏みかけている。

その恐怖が、一新の心をさらに追い詰めていった。



正恵は依子と二人で、新しい生活を歩んでいた。


離婚の傷は、簡単には消えなかった。

夜になると、ふいにあの家で浴びせられた言葉がよみがえる。

女であることを責められた日々。

何をしても認められなかった苦しさ。

息をするだけで責められているような、あの息苦しい空気。


それでも、依子の笑顔が正恵を救っていた。


「お母さん、見て。」


小さな手で折り紙を差し出される。

「きれいでしょう」と得意げに笑う娘の顔を見ると、正恵の胸の奥がじんわりと温かくなる。


「上手に折れたね。」


そう言うと、依子は嬉しそうに目を細めた。


「えへへ。お母さんにあげる。」


その一言だけで、正恵は何度も泣きそうになった。

この子のためなら、もう一度立てる。

この子のためなら、何度でもやり直せる。


「お母さん。」


幼い依子が呼ぶ声。

その声を聞くたびに、正恵は心の中で何度もつぶやいた。


(私は、この子を守るために帰ってきたんだ。)


(もう、誰にもこの子を泣かせたくない。)


清子も、そんな娘を支え続けた。


「正恵。」


ある日、清子は台所で手を動かしながら、ふと静かに声をかけた。


「あなたは十分頑張ったよ。」


正恵はその言葉に、思わず顔を伏せた。

ずっと欲しかった言葉だった。

誰にも認められなかった自分を、ようやく見つけてもらえたような気がした。


「お母さん……」


声が震える。

清子は何も言わず、そっと正恵の肩に手を置いた。


「泣いていいんだよ。

 ここでは、もう我慢しなくていい。」


その言葉に、正恵は何度も救われた。

涙をこらえてきた日々が、少しずつほどけていく。

母の手のぬくもりは、何よりも確かな支えだった。



そして新潔。


定子との間に生まれたヒカルを抱きながら、父親としての日々を過ごしていた。


小さな命を腕に抱くたび、胸の奥に静かな震えが走る。

この子を守れるだろうか。

自分に、そんな力があるのだろうか。

視力への不安は、いつも心のどこかに影のように付きまとっていた。


仕事をしていても、ふと見えにくさに不安がよぎる。

子どもの顔をしっかり見てやれるだろうか。

この先、家族を支えていけるだろうか。

そんな思いが、夜になると重くのしかかった。


それでも、新潔は歩き続けた。

不安を抱えたままでも、立ち止まるわけにはいかなかった。

ヒカルが眠る顔を見るたび、胸の奥に小さな灯がともる。


「大丈夫だ。」


誰に言うでもなく、そうつぶやく。

その声は、自分自身を励ますためのものだった。


清子は、そんな息子の姿を見るたび胸がいっぱいになった。


幼い頃、空腹を我慢していた少年が。

寒さに震えながら、家族のために耐えていた子が。

今では、自分の子どもを抱きしめる父親になっている。


「立派になったね……。」


そう言うと、新潔は少し照れたように笑った。


「まだまだだよ。」


「そんなことないよ。

 あなたはちゃんと、父親になっている。」


清子の言葉に、新潔は何も言えなくなった。

ただ、ヒカルを抱く腕に、そっと力を込める。


「人生って、不思議ね……。」


清子は静かに呟いた。

あの苦しかった日々が、今のこの光景につながっている。

そう思うと、胸の奥が熱くなった。



日本へ帰ってきても、苦労は終わらなかった。


むしろ、新しい苦労が始まったのだと、清子は何度も感じていた。

慣れない土地での生活。

それぞれの家族が抱える痛み。

見えないところで少しずつ積み重なっていく不安。


それでも清子は知っていた。


苦しい時代を越える方法を。

それは、家族が手を離さないことだった。


戦争にも。

貧しさにも。

別れにも。

負けずにここまで来た。


だから、これから先も大丈夫だと、清子は信じていた。

信じるしかなかったのかもしれない。

けれど、その信じる気持ちこそが、家族を支えていた。


まだ知らなかった。

この先、家族それぞれが大きな試練を迎えることを。


静香と来真のすれ違い。

一新の酒との戦い。

新潔の身体に迫る変化。

そして、清子自身が最後に向き合うことになる、長い人生の答え。


家族の物語は、まだ続いていく。


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