導き
大切なことは、犬が教えてくれる。
彼らは鼻が利き獲物への道筋を、
時に温かさから安寧と眠りを、
群れをなしその情の深さを、
そして彼らは獰猛な牙を持つということを。
少年にとって犬は神に等しかった。
まず探偵業―――主に尾行や情報収集―――が成り立つのは彼らのおかげだ。
赤子の時に捨てられ、犬と共に育った彼が人の言葉を手繰り文字を覚えたのは奇跡に等しかった。
いや、不運だったのかもしれない。
なぜならその時彼は死にかけたからだ。
群れから拐われた彼は、人体実験の対象にされた。
首元に何かを当てられた瞬間、脳へ大量の情報が流れ込んでくる。
吠える以外の喉の使い方。
知らない景色。
のたくった線が"文字"として意味を起こす。
あまりの情報量に、被験者達の多くは虚ろな目をして座る人形同然となった。
現在その時に得た様々な知識を群れへ還元できたものの、無事だったのは運が良かっただけに過ぎない。
情報を流し込まれたその直後に人体実験をしていた科学者達は取り押さえられ、保護という名目で少年にもその手が及ぼうとした。
が、跳ね除けた。
少年の神は、人間ではなかったからである。
猿轡を外された後、呼吸を整え仲間を呼んだ。
その遠吠えは近くまで彼を取り返さんとする群れの耳に届いた。
群れは人間の手を振り払い研究所の外まで出た少年を温かく迎えた。
少年にとって犬は神に等しかった。
ある時、少年は不可思議な猫を見た。
否、猫ではなかったのかもしれない。
ふわ、ふわ、と不思議な動き方をするそれは、犬によって培われた狩猟本能を大いに刺激した。
猫を追いかける少年を、犬達もまた追いかけた。街を抜け山を登り丘を駆けた。
その丘で、少年はもう一つの神を見た。
黄色い花―――そう、確か"菜の花"という植物に囲まれて、真白なワンピースと大きな麦わら帽子をかぶる、可憐な少女を。
呼吸を忘れ何を話していいか分からない彼に、彼女はこちらを向いて「わあ」と声を上げた。
「ワンちゃん!」と
それが群れのことだと理解したのは彼女がこちらへ駆けて来たからだ。威嚇をする群れに待てと言い、少女が目の前まで来るのを待った。
「ねえ! そのワンちゃん達の飼い主?」
「…仲間だ」
少年にとって犬は神に等しい。飼い犬だと言うのは気が引けた。
「触っても良い?」
「少し待て」
群れの中でも温厚な老犬へ少女に触らせてもいいか聞く。
いいぞと返事が来たので「こいつなら大丈夫だ。しかし手荒に扱うな」と言った。
違う。もう少し、もう少し違う言い方をしたい。しかしろくな喋り方をしてこなかったのが災いして武骨になってしまっていた。
少女のやや白すぎる手が伸び、慎重にその毛皮を撫でていく。
「ここへはどうやって?」
「猫を探しに」
少女はキラキラと目を輝かせながら様々な質問をした。
その一つ一つに少年はぶっきらぼうに応えていく。
夕日が傾き少しずつ夜になっていった。
そろそろ、拠点としている街に帰らなければならない。明日も少年の言葉によって得た街での仕事で群れと働き餌を稼がなければならない。
とっぷり暮れたところで、その事を伝えると少女は言った。
うちに泊まらない? と
少女は胸元から笛を取り出すと抑揚をつけて吹いた。
吹き方によって意味が異なるのだという。
迎えに来た少女の家の者は少年と多くの犬に仰天していた。
その者が咄嗟に構えた銃に緊張が走ったが、少女の容姿からかけ離れた恫喝で銃は降ろされた。
少女と家の者に連れられて大きな建物―――屋敷に連れてこられた。そこでは誰もが少女に傅いていた。ひょっとして群れのボスなのだろうか。そう聞いたら偉いのは両親だと返ってきた。
そして運ばれてきた黒電話―――見た目は古めかしいが、実は最新鋭の電話だ。知識では入っているが、見るのは初めてだ―――に少女は受話器を持ち上げ番号を入力し、電話をかけた。
いくつかやり取りをした後、彼女は「猫のお客様を迎えた」と告げた。電話の向こうは驚きに満ちた声を上げたが、すぐに泊めて良いよと返事が来た。
猫のお客様
そう言えば先ほどの恫喝でも言っていたような。
少年は電話が終わってから、猫のお客様とは何かと尋ねた。
少女は、私たちは猫を信仰しているのだと告げた。
それから気がつく。屋敷のさりげない所に猫の装飾がところどころ入っていることを。
階段の手すり、廊下の照明、ステンドガラス。
ここは、猫の祭祀場だ。
少女は続けた。
本来この山に囲まれた丘はセキュリティが厳重で、入ろうとすれば即座に罠が発動するのだという。しかしあなたはそれを全てすり抜けた上に「猫を探しに」やってきたと来た。
で、あれば猫に誘われた特別な客人だろうと。
「だから泊めてくれるのか?」
「さあ。それはどうでしょう?」
少女はイタズラっぽい表情でこちらを見た。
そして少年と群れは初めて風呂に入り、夕食を食べ、眠りについた。やはり一人は落ち着かなかったので、少年の希望で夜は犬と共に寝た。
そして起きた時、また朝餉を頂いてから出ることにした。
「行っちゃうの?」
「仕事をしなければ食っていけない。」
「また、遊びに来て」
握られた手の、人さし指にした狼を模した指輪が印象的だった。
そうして山を降りた。
そしてまた山を登り、降りるという生活が始まった。
そうやっているうちに少しずつ会話に慣れていった。
少女は猫のように気まぐれだった。
あるときは少年の髪を切りたいと言って耳を切りかけたり。
あるときはトランプをしようと誘いイカサマをしたり。
あるときは嫌いなグリーンピースを少年に全て押し付けようとしたり。
あるときは夜に少年のもとを訪れて「お月見をしよう!」と菓子を片手に少年を引っ張り出しては―――群れは少しざわついたものの、少女を見やるやおとなしく眠りに戻った―――菓子を一人で平らげてはあっという間に眠りについた。
そうしているうちに、少年は一目見た時よりもずっと少女のことでいっぱいになっていった。
もっとその姿を見たい。その手に触れたい。その声を聞きたい。
白くてキラキラした何かが胸のうちに増えていった。
小綺麗になった少年に、仕事先の者たちは驚いていた。
少女の両親にも会った。
彼らからは、君に出会ってから娘の体調が良くなってきた、ありがとうと言われた。
ここは療養地でもあったのだ。
そして、少年の身元も調べられた。
少年を捨てた夫妻の居所だったり、少年を保護しようとした公的機関のことを教えられた。
行く気はない、と言うと
「君、娘のことが好きだろう?」
と言われた。なぜかカッと頬に血がのぼるが、群れの視線を受けて冷静になった。
そうか、俺はあの子が好きなのか。
だけど
「あなたたちが猫を神と崇拝するように、俺もこの群れを神と等しく見ています。引き離されたくないのです。」
そう。少年を捨てた夫妻のところは論外だし、公的機関は犬と少年を引き離そうとするだろう。
少年にとって犬は神に等しかった。
では、うちで面倒を見よう。1日のうち少し犬と引き離される時間ができるが、群れとずっといられるよ。
仕事がある、と言うと
それならこちらが引き継ごう
と言う。
なぜそこまでしようとするのかと言うと、打算があるのだという。
警戒心が高まる。
「はっきり言うと、君を雇いたいからさ」
あっけらかんとした様子で打ち明けられた。
「あなたは賢いし、娘のことを裏切らないでしょう?」
「俺の賢さは、植え付けられたものだ」
「そうとは限らないさ。どんなに知識をつけようとも、上手に扱えなければ意味がない。料理と同じさ」
少年には群れのような嗅覚は無い。だが、勘が言っていた。
信じてよいと。
そしてそれは群れも同じだった。
こうして、少年と群れは屋敷の世話になることにしたのだった。
「雇うと言っても、まずは学歴をつけなければね」
そう言って情報端末兼腕時計や教材、弁当を持たされ放り込まれた学校では、勉強より人間関係に注意を払う必要があった。
勉強は、脳に情報が焼き付いているので簡単な予習と復習をすれば問題なかった。
どうやって人間の群れに入っていくか。
新たな犬が群れに入ってきた時のことを思い出した。
「おはようございます!」
まずは挨拶。笑顔で明るく振る舞う。
こちらが友好的であることを示す。
「どこから来たの?」
「その髪型かっこいいね!」
色んな人間から話しかけられるが、それに対しても笑顔で対応する。
そして観察と情報収集。この群れのボスは誰か。誰が何に対してどんなプライドを持っているのか。
直接ボスと仲良くしようとするのは避ける。
いきなり中枢に入ろうとするのは危険だ。
次にプライドの話だが、例えばあの男は連続で首席を保っているのだという。では、きっとそれがあの男のプライドなのだろう。敢えてこちらは首席を狙うのではなく、上位で保つ。
全ての人間と友好的になることは不可能だが、あからさまに恨まれる真似は止す。
大切なことは犬が教えてくれた。
こうして人間関係を構築し、屋敷に帰り群れの元に帰るのが日常になった。
少女も通信教育できっちり学んでいた。
病的だった白さの頬に血色が戻っていった。もう学校に通えるかもしれない。
ただ、少し怖いのだという。
というのも、少女が体調を崩したのはイジメによるストレスからくるものだという。
イジメ。少女が虐げられたと思うと腹の底がふつふつと煮え立つような感覚に襲われた。
なんでも、少女が通っている学校の群れのボスがメスで、そのメスが目をつけていたオスが少女を好きになったことから事が始まったらしい。
自分以外にも少女を好きになった者がいる。
そう思うと胸がぐるぐるとして焦燥感が募る。まるで縄張りを侵されたかのようだ。
しかし少女はその好意を迷惑そうに話していて、安堵と同時にそんな自分に戸惑った。
なにはともあれ
少年と少女の通う学校は違う。
直接手を貸してやることができない。
そういう時、犬ならどうするか。
少し考え、口を開いた。
―――数日後
「ありがとうっ! よく効いたよ!」
「なにより」
少女は学校から帰ってきて顔色良く食堂に入ってきた。少年はあの両親が何もせずにいなかったとは思わなかったが、あえて助言をした。
「目が合った相手から、目をそらすな」
犬は獰猛な牙を持つが、争いで必ずしもそれを用いるとは限らない。
強さは目に宿る。
少女自身が持つ強さを使えばなんとかなると思っていた。
「やっと愛しのミッチーくんに会いに行ける!」
また少女がグリーンピースをこちらに押し付けつつこともなげに言った。
少年は落雷が身体に直撃したかのような衝撃に襲われた。
「愛しの」
「そ! 愛しのー! 体調も良くなったし! 学校に行けたし! やっと許可が降りたの!」
少年は少女に助言をしたことを後悔して、後悔した自分を恥じた。
笑ってくれれば、それでよかったはずなのに。
胸のうちに積もっていた美しいものが重たく、粘ついていく。
その人さし指にはめられた指輪を大切そうに撫でている少女を見て、その指輪が"ミッチーくん"からの贈り物であろうことに気がついた。
そこから先は、覚えていない。
ぼんやりとご飯を食べ、風呂に入り、机に向かった記憶はあるが、詳細は千々としてわからない。
気がついたら群れのなかにいた。
大切なことは、いつも犬が教えてくれた。
人体実験で、幾千の知識を詰め込まれた。
だけど、今、どうすればいいか分からない。
少年にとって犬は神に等しかった。
群れに埋もれると温かくて、ホッとして。
だけど涙が止まらなかった。
ふわり、ふわり。
猫の尻尾が揺れている。
ふわり、ふわり。
大きく欠伸をしたと思ったら、左右で違う色の目でこちらを見た。
気がついたら眠っていた。
ゆさゆさと揺すられて目が覚めた。
少女が少年の寝室に来ていた。
はやくはやく、と少女は言う。
キラキラした目でこちらを見た。
ミッチーくんに会いに行こう!
その言葉に少年は萎縮した。"ミッチーくん"なんかに会いに行きたくなかった。
自分が何をするのか分からない。
断ろうとしたら、口が動かなかった。
わかった。
少年は驚愕した。今度は勝手に口が動いたのだ。
なんでそんなに目が腫れているの?
ちょっと楽しみで、眠れなくて
えー? お子さま!
勝手に口が動く動く。
勝手に身体が動き、少年のお気に入りの服を着る。
気がついたら屋敷の外へ、丘の外へ、山の外へ。
学校以外で祭祀場から、群れから離れて出かけている。
確か今は5月で"連休"というものが始まる時だと少年は思い出した。前の仕事で、人が多くてかき入れ時だったからだ。
そんな街を抜け、知らない場所に降り立った。
遊園地だった。
そこで思い出した。昨日の夕食の際に夢のような遊園地があるから行こうと誘われたことを。確かに頷きで返した。
初めて見る遊園地は人でごった返していて、少女はぐれないように手を繋いだ。
凝り固まって冷えていたのが嘘のように、胸の中が温かくなる。
しかし問題は、少女が先ほどから「やっと"ミッチーくん"と会える!」と言っていることだ。
つまり二人の逢瀬を見せつけられるということでは
これから始まる苦痛を想像し眉をひそめかけると―――
「あっ! ミッチーくん!」
近くにいた人間の幼体が舌足らずな声でそう叫んだ。
その指の先を見てみると
犬―――いや、二足歩行する狼が。
そんな存在がいたのかと衝撃を受けていると。
「ミリーちゃんもいるよー!!」
声の方向に振り返ると頭にリボンをした二足歩行する狼が
「な、何だあれは…」
これは一体。
そこまで来て、ふわり、と
身体の中から何かが抜けた。
あ、と少女の声が転がる。
身体から出てきたのは夢のなかで見た猫だった。
そして、人混みに紛れた途端にどんな姿をしていたか分からなくなった。
身体の自由が利くようになる。
少女と目が合った。
今のって…
少女は言いよどみ、しかしすぐ
「楽しもう!」
と少年の手を取り駆けた。
少年が"ミッチーくん"がマスコットキャラクターであり、指輪は彼を模した限定グッズであることを知り、ものすごい羞恥に襲われるのは少し後の話。
続きは5/26です。




