過去
楠シズ家元が風邪で寝込んだという知らせが入ったのは、その日の昼休みだった。 放課後、僕たちがいつものように和室へ向かうと、そこには家元ではなく、一人の女性が凛と座っていた。
「あら、あなたが柊弦君ね。母から聞いていた通り、いい面構えだわ」
楠冴子。舞の叔母であり、舞の母親の妹だ。彼女が顔を上げた瞬間、僕は思わず息を呑んだ。目元や柔らかい物腰が、あの日の記憶の中にいる「舞のお母さん」に酷いほど似ていたからだ。
「さ、冴子叔母さん……。今日は、おば、せ、先生の代わり?」
舞が、珍しく弱々しい声を出す。彼女もまた、母親の面影を強く残す冴子を前にして、いつもの「ディスコ・モード」を起動させる余裕がないようだった。
「ええ。母が『舞が羽目を外しすぎないよう、きつく締めてきなさい』って。……でも、そんなに怯えなくていいわよ。今日は基本のお浚いをしましょう」
稽古が始まった。冴子の指導は、家元のような威圧感はないものの、どこか『正解』を突きつけられるような鋭さがあった。舞はまたもや借りてきた猫のように大人しく、指先まで神経を尖らせてお茶を点てている。一通りのお稽古が終わり、たまたま用事のあった倉本と佐々木は先に部室を後にした。
「弦君、少し残ってくれる? 片付けを手伝ってほしいの」
冴子さんに呼び止められ、僕は「はい」と短く答えた。舞も残ろうとしたが、冴子さんが
「あなたは先に帰って、お母さまに林檎でも剥いてあげなさい」と優しく、けれど拒絶を許さないトーンで促すと、舞はどこか不安げな視線を僕に残して、和室を去っていった。
和室には、茶釜から上がる細い湯気と、西日のオレンジ色だけが残された。いつもなら大好きな静寂が、今は重い。僕は畳を拭いていると、冴子さんが口を開いた。
「……柊……弦君」
「はい?」
「あの日のこと、教えていただけませんか」
拭く手が止まる。冴子さんが言いたい『あの日』がいつのことか、もちろん僕にはわかっている。
僕は今日まで、冴子さんにこの話をしていなかったのだと、改めて実感した。
僕が思案を巡らせ、次の言葉を探している最中、待ちきれなかったのか冴子さんが再度口を開いた。
「私の姉……舞の母親の最期を見たのは弦君ね」
「そう、ですね」
「姉の最期はどうだった?」
冴子さんの声は、先ほどまでのお稽古の時の凛とした声とは全く違う、か細い声。僕は意を決してこの質問に答えた。
「舞のお母さんは、旦那さん、つまり舞のお父さんに刺し殺されました。そしてお父さんは自殺しました」




