悪夢の日々3(ラウロ視点)
婚約者だった時は、地味な赤毛の女と思っていた彼女は、見違えるほど美しい女性になっていた。まるで、さなぎが蝶へと羽化したかの如く。
隣に立つ、美しすぎる夫にも見劣りはしない。
赤毛だと思っていた髪は、艶やかなストロベリーブロンドになり、薄っすら頬に浮いていたそばかすも、化粧のせいかそれとも手入れのせいかなくなり、元々の顔立ちの良さに目が行くようになった。
こんなに美しい人だっただろうか。
少女らしい固いシルエットは、円やかな女性のものに代わり、ちょっとした仕草さえも優美で美しい。
容姿もそうだが、服装やアクセサリーなども、その立場に相応しい艶やかなもので、何もかもが地味なだけだと思っていた彼女は、今では次期侯爵夫人として社交界の華とまでよばれているとか。
その完璧なマナーや教養は、若い淑女たちの憧れ。彼女の主催するアカデミックなサロンの招待状は勿論、お茶会に声がかかるだけでも、社交界ではかなりなステータスとみられると、近くにいた夫人たちが、頬を染めて噂する。
俺は元婚約者のあまりの変わりように、声も出なかった。
何故彼女を疎んじたのか。軽く扱ったのか。今となっては理解できない。こんな…こんな美しい女性を。
怪しいまでに胸を打つ、己の鼓動を自覚しながら、俺は彼女に近づいた。が……。
それまでその場の貴族たちと談笑していた彼女は、俺が近づくと、夫に促され身を翻し場所を他に移す。俺にはまったく気づくことなく。
それは、一晩中続けられた。
人気者で富豪。その上次期侯爵夫人。そんな彼女だから、挨拶をしたいと言う人は絶たないし、自ら動いて挨拶をしに行かなければならない相手もいたと思う。
あまり大声では話せない内容なので、こっそり声をかけようとしていたのに、彼女は一瞬たりとも一人でいる時間がない。
仕方なくその日は諦めたが、次の機会も、その次の機会も上手くいかない。
煌びやかで華やかな彼女の後を追いまわしては、成果もなく帰り、家で出迎えるエリスの疲れた、険のある顔に出迎えられる。
年齢を経て美しくなったアンジェリーナとは反対に、エリスは心労からか身なりにあまり気を使わなくなっていた。
時に以前のように贅沢に遊びたいとも言っているが、我が家の経済状態では無理だと断っている。
それならば、他に嫁に行きたい。ここから解放して欲しいと彼女は言う。しかし、それも両親は許さない。彼女が不貞の果ての子供だから。この事が世間に知られると、体裁が悪いというのもあるが、それ以上に彼女と俺の関係は広く貴族社会に知られてしまっている。この上、異父兄妹などと知られてしまったら、最悪、教会から破門されてしまう。
この世の中で一番恐ろしい事。それは教会からの破門。
破門されてしまえば、貴族どころか人の枠に戻る事はできない。そして俺たちの関係は、十分破門の理由になる。
だから。
エリスを他の家にやることはできない。秘密がばれてしまうかもしれないから。できることは、彼女をこの家で生涯飼い殺しにするだけ。
どんなに嫌がっても、それがどんなに非人道的な事であっても。彼女にとっても、俺にとっても家にとっても、それが最善なのだ。
思うようにいかない毎日のせいか、彼女は次第に狂気に溺れていく。最近では、副作用が恐ろしいと言われる薬まで常用をしているようだが、両親も俺もそれを止める事はない。
彼女の安寧がそこにしかない事をわかっているから。
そして、クスリに溺れ老婆のようになった彼女を見ながら思うのだ。何故アンジェリーナと結婚しなかったのだ、と。
機会はあったのに。彼女を選ぶべきだったのに。
あの夜の夜会も、エリスではなくアンジェリーナと参加していれば、フィリッポたちと夜の街に出る事も、アルベロコリーナに行くこともなかった。そうしていれば……。今頃俺は正式な騎士となり、美しい妻を娶った幸運な男と呼ばれていただろう。
苦い後悔を噛み締めつつ、俺は目を伏せた。
「商談が破談となりました」
深更ともいえる時刻。突然邸を訪れた男の声の涙声が、執務室に空虚に響く。商談を任せていた男。
父がわざわざ大きな商会から引き抜いてきた人物で、優秀で実績もあり、信頼のおける人間のはずなのに。
もう、何度目だろう。この男の口からこの言葉を聞くのは。
今回の商談は大きく、感触も良かったから、絶対にまとまると思っていた。数週間前には、前祝としてこの男と祝杯も空けたくらいだ。それなのに。
男を帰し、一人部屋へと戻り、シャワーを浴びてからベッドに腰を下ろす。
やはり呪いなのか?呪われているから上手くいかないのか?
片方しかない手をぎゅっと強く握り締め、床を見る。
蝋燭の灯りが、俺の影を描く床。影の中にアレはいるのか。表に出てこないだけで、そこにいるのか。
別に問いかけたつもりはない。だが、それに応えるように足元の影から、例の怪異が顔を覗かせる。
ああ……そんな……。
いつもの男だと思っていた。けれど、影から浮かび上がった顔は、よく知った友人の顔をしている。
濁った黄色い目が俺を認め、嗤う。あの影の男と同じ笑い方で。
こいつは俺を離さない。俺から離れない。贖罪は……まだ終わっていないのだ。
泣きそうになりながら、聖書の一文を呟き、震える声で謝罪をする。
いつまで。いつまで。いつまでこんな時間は続くのか。
くしゃりと前髪を掴み、重いため息を吐く。
そこで気が付いた。バスローブの袖から覗く腕。肘から少し下がった辺りに、見慣れた線ができていることに。




