悪夢の日々1(ラウロ視点)
空がオレンジから藍色へと変わると、今夜も夜がやってくる。
静かで重い時間の到来。
一体いつから、こんなに夜が来るのが怖くなったのか。騎士に憧れ、騎士と呼ばれる事だけを望み、修練を重ねてきた身だというのに。
自嘲の笑みを唇に刷き、俺は微かに震える自分の左手を、右腕に伸ばした。
かつてそこに当然のようにあったそれは、今はもうない。触れても中身のない服の薄い感触があるだけだ。右腕は失ってから数年も経っている。
あの日。あの時。何故俺はフィリッポを止めなかったのか。
若気の至り。人はそういうけれど、当事者としては悔やんでも悔やみきれない現実に、ため息が漏れる。
「止めよう」
と、一言いうだけだった。ただそれだけで、現状はなかったはずだ。それにより「臆病者」と笑われるのが嫌だったとしても、今の状況よりはずっと良かった。
それに臆病者のレッテルは、どうあっても付けられたものだったし。
あの日、あの夜、想像を超えた存在を見た。己の影の中に潜む死者の顔をした化け物。忘れたくても忘れられない衝撃と光景。あの時の戦慄すら未だに身の内に残っている。
夢だったのだと思いたいが、生憎見たのは俺だけではない。エリスも同時に見たのだ。その事実が、俺を現実から逃避させてくれない。夢だったのだという救いすら打ち砕く。
「……………」
一人で過去を思い出していると、静かな室内にヒステリックな女の叫び声と、何かが割れる音が微かに聞こえる。
今夜もエリスは恐怖を抑えきれないようだ。
あれをみた日から、夜になると彼女の様子がおかしくなる。無理もない。か弱い女性の身で、あんなものを見てしまったのだ。さぞ恐ろしかったのだろう。最近では彼女の錯乱は抑えきれないものになりつつある。
友人の悪ふざけに付き合い、肝試しをする為に心霊スポットとして有名な場所に行ったのは、もう数年前のことだ。
400年前の村人の惨殺事件の現場。その地からは、何も持って帰れない。持って帰ってはいけない、と言われていた地。アルベロコリーナ。
そこで、友人が一つのコインペンダントを持って帰って来てしまったのが、全ての始まり。
原因であるその友人は四肢を奪われ、それでも数年生きた後、先日亡くなった。長い間、泣いて懇願して……その末に親が慈悲を与えたと聞いた。それを教えてくれたのは、すでに他の人に嫁いでいる彼の元恋人。彼女によると、そうなるまでは本当に悲惨な状況だったのだとか。
亡くなった人に言う言葉ではないが、彼女は何度も「これで良かったの」と繰り返していた。
その言葉だけでも、友人の悲惨な状況が偲ばれる。
けれど……。
今でも考える。どうして、友人はそうなったのか、ああいった結末を望んだのかと。
さっきも言った通り、事件は数年前で、しかもペンダントは返している。
自分たちの手で返したわけではないが、頼んだ俺の元婚約者、アンジェリーナは確かに返したと言っていたし、現に俺の手元にあのペンダントはない。
しかし、アンジェリーナの言っていることが本当ならば、呪いは無効化されているはずだ。仮に、彼女が返さずに手元においてあるとか、別の場所に捨てた、というのなら、呪いは彼女の身にも起こっているはずだが、そんな様子はない。
一体どうなっているのか。
俺は最近になって浮かび上がってきた左手のあざを思い出し、服の上からその部分に視線を走らせた。
アンジェリーナなら、もっと詳しい情報を持っているかもしれない。
俺との婚約を破棄し、一度は義兄となったアンブールグラディウス次期侯爵の妻となった女。
彼女に初めて会ったのは、もう十数年も前。
隣国に住む彼女たち母子を近くに呼び寄せたい。その為に、領地が近かった俺の家に結婚を打診してきたのが始まりだ。
時代は騎士を求めず、社会は変わりつつあった。俺の両親も代々続いた騎士の生活を徐々に諦め、別の糧を得るべく画策していたこともあり、両家の話はまとまった。
最初会った時は地味だけど、可愛い子だと思った。
恋ではなかったけれど、妹みたいな感覚だったし、それは彼女も同じだったと思う。
頻繁にあったわけではない交流の時間。その時間の中で、最初から結婚を意識していた事もあって、互いの気持ちはかなり近づいていたと思う。ゆっくりと。確実に。
その関係が変わったのは、従妹のエリスが現れてから。
「この子は可哀相な子なの……」
そう涙ながらに母が言い、連れて来たエリス。すでに両親を亡くし、爵位まで失った彼女。
一目見て恋に落ちた。綺麗な容姿、青い目に一杯に涙を溜め、細い体を震わせる儚げな風情に俺が守ってやらなければ、と心から思えた。
今考えれば、彼女を悲劇のお姫様に見立て、騎士という職業への憧れに酔っていたのかもしれない。
それからの俺の世界は、全てエリスを中心に回っていた。
婚約者のアンジェリーナと違い、明るく、無邪気で、甘え上手な彼女といると、自分の中の自尊心が満たされるし、可愛い子に頼られて喜ばない男もいない。
パーティーや友人たちと会った時に、エリスを連れていると羨ましがられることもあって、だんだんアンジェリーナといるよりもエリスを選ぶようになっていった。
彼女が望むことは全てした。それが、婚約者との時間だったとしても。
何度もアンジェリーナからは「不快だ」と告げられ、「こんな状況を続けるのなら、婚約解消をすればいい」といわれていたが、無視を通していた。別にエリスと結婚するわけではないのだ。というか、エリスと結婚できないのは、俺でもわかっていた。何故なら、彼女にはこれから我が家にとって利のある実家もないし、爵位もない。
結婚するなら、アンジェリーナと。
それは俺も家族も理解していた。
でも、エリスを手放すことは考えられない。多分親も同じ気持ちだったと思う。
だから考えた。アンジェリーナがこの状態に慣れてくれれば、と。
そうすれば、結婚しても俺はアンジェリーナを妻として扱うし、エリスも今と変わらずに一緒に住める。両親も納得してくれるだろうし、アンジェリーナだって、好きな俺と一緒にいられるのだ。皆にとって、これ以上ない話だろう?
婚約解消を口にしつつ、決してそうしないアンジェリーナは、俺の事が好きだから気を引く為にそんな事を言い続けている。
本気でそう考えていた。
愛も花も手を入れなければ枯れるものなのだ、とはその時は気づかなかった。
「やあ、初めまして。アンジェの婚約者君」
俺の為なら断れないだろう。そう考えて例のコインペンダントをアンジェリーナに渡して数日。
一向に良くならない現状に、本当に捨てて来たのかと聞きたくて、呼び寄せた彼女と一緒にやってきたのは、華やかな貴公子だった。
アンブールグラディウス次期侯爵。彼は自分の事をそう名乗った。アンジェリーナの義理の兄で、保護者だと。
正直、あの家に男子がいるのは知らなかったから驚いた。
子供がいるとは聞いたことがあったが、女子だという話だったし、そもそも体が弱くて外に出ない人だと言う話だったから。
後から両親に聞いた所、事情があって対外的には女性ということにしていたそうで、本当は男子だったと発表があったと言う話だった。
発表は国王からのもので、正式なもの。それ故、誰も文句が言えなかった。けれど、裏では貴族たちは、どこかから養子を取ったのではないかと噂したらしい。病弱な女子が亡くなり、継ぐ子供がいなくなったから他から連れて来たのではないかと。が、彼の一族はそれを否定していたし、仮に彼が誰だったとしても、血の正しさは、後の夜会で見せた侯爵そっくりの彼の顔が証明している。
その彼は、俺たちを見て、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
そんな笑い方をしても、下品に見えず、美しい。
美というのは、彼の為にあるのだろう。そう思うしかない美貌。
スラリとした長身。太陽の光みたいな白金の髪。蒼穹の色を映した瞳。男性の割に妙に赤い艶やかな唇。
そこにいるだけで、神の存在を無条件に信じられる。そんな人間。
その彼を前に、私もエリスも言葉を失った。
だって信じられるか?こんな人間がいることすら信じられない。
挨拶もまともに返せなかった。
しかし、彼はそれを慣れている様子で躱し、それから言葉を失ったままの俺たちを前に、コインペンダントの行方について話てくれた。
それによると、彼はアンジェリーナに同行し、アルベロコリーナまで行ったと言う。こんな優男としか言えない見た目の彼が。そこで、渡されたコインペンダントを置いて来たと。
その時の事を語る彼に、嘘をついている様子はない。
事実、彼の語るアルベロコリーナの様子は、私たちが見てきたものと変わらない。それどころか、もっと詳細なものだった。
「奥に崩れかけた壁があったじゃないですか。宗教的な文様が薄く残っていた……。その壁の後ろに井戸があったんですよ。知っていましたか?そこに捨ててきましたよ。ああいうのは、他の人間の目に届く場所には置いて置けないですからね」
貴方たちのような人がいるといけませんから。
彼はそう言い肩を竦める。それからついでのように、俺を責めた。
騎士を目指しているのに、か弱い女性を危険な目に合わせようとした屑。
お化けが怖くて動けない臆病者。自分が引き受けた物を、他人にやらせる卑怯者。
立て板に水の饒舌さ。それだけでも圧倒されたのに、彼の言葉の一言、一言は俺の胸を遠慮なく抉り、矜持を木端微塵に吹き飛ばした。
客観的に見た俺。俺の行動が他人から見て、どう思われるものか。騎士として、男として、人間として、どれほど最低な事をしたのか。
彼は全く言葉を飾ることなく、俺に突きつけたのだ。
そして最後に付け加えられた言葉。
「せめて自分の手で終わらせておけば、呪いも薄れたでしょうけど……。まあ、これで終わる事ができなくなったのには、同情しますよ」
それがどういう意味なのか。何を指すのか。不安に感じた俺は彼にそれを聞こうとして…。聞けなかった。
言葉では『同情する』と言いながら、その言葉を告げた彼の顔には嘲笑が浮かんでいた。
それが何を意味するのか、わからないわけがなかった。
最初から教えるつもりなどない。
無理もない。古い付き合いだからと、忘れていたが、同じ伯爵家だった時ならばいざ知らず、今アンジェリーナは侯爵家の一員なのだ。彼女に無理をさせたという事は、侯爵家に失礼を働いたということ。
口元まで出かかった質問を飲み込み、平謝りに謝って、その場は帰ってもらったが……。
後日、正式にアンジェリーナの祖父である伯爵から、婚約解消の話がやってきた。
書き忘れていたラウロのざまぁ編です。本編が終わった時、本当に、見事に、しっかり彼の存在を忘れていて大事な『ざまぁ』シーンがなくなっていましたので、今回書かせていただきました。




