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野獣と娘の物語  作者: 真麻一花
こぼればなし

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6/6

 明け方、野獣が見たのは、よたよたと動く小さな影だった。それが何かは分からない。

 けれど、なぜか気になってそれをじっと眺めていた。

 しばらくすると、村が騒がしくなった。人の気配が森の方へ向けて集まってきているのが野獣には見て取れた。

 人が大勢来るのならこの場を離れなければならない。

 けれど、どうしてもあの森へ向かってきている影が気になる。

 野獣はその場から離れるのをためらった。

 その時だった、少女の声が聞こえた気がした。

 小さな、小さな声だった。

 けれど少女はいない。

 あの影は少女の様子とは全く違う。動きもまるで老人のようだ。

 野獣はいいしれない不安を覚えていた。思いもよらないような何かが起こっているのではないか、そんな気がした。

 けれど何が起こっているのか分からない。

 また、野獣を呼ぶ少女の声が聞こえた気がした。

 小さな影を、村人達が取り囲もうとしていた。

 その時、

「野獣さん……っ」

 小さな悲鳴が、確かにはっきりと野獣の耳に届いた。

 倒れ込んだ小さな影。取り囲む村人達。

 野獣は咆哮した。

 あの小さな影は、野獣の大事な少女だった。

 なぜこんな事になっているのだ。

 野獣は雄叫びを上げながら少女の元へと向かった。

 取り戻さなければならない。守らなければならない。

 小さな、か弱い命が今、果てようとしていた。

 宝物のような、大切な少女が踏みにじられていた。

 人への怯えも忘れ、代わりに少女の命が果てかけることに怯え、野獣は叫んだ。か弱い少女を怖そうとしている村人達への怒りに叫んだ。

 野獣は手を踏みにじっていた男をなぎ倒した。

 背中を踏みつけていた男をはね飛ばした。

 逃げる村人の背をとがった爪で切り裂いた。

「野獣さん……」

 怒れる野獣の耳に、小さな声が届いた。


 少女は野獣が村人をなぎ倒していくのを呆然とみていた。

 手を踏みつけていたのは、あの男だ。背を踏んでいたのは男と共に少女を追いかけていた男だ。

 のたうつ三人の男を見たところで、少女は我に返った。

「野獣さん……」

 怒りに染まった野獣を呼んだ。

「もう、いいよ」

 安心させるように笑顔を作ってみせる。

 こんな事は、優しい野獣のすることではなかった。

 それに、もう、体が動かない。少女に残された時間は残り少ない。

 復讐を望む気はない。そんなことはどうでもよかった。

 それよりも、そばにいて欲しかった。

 野獣がうなりながら少女を抱き起こした。痛みに顔がゆがむが、痛みに体をこわばらせる力すらなかった。

 大きな野獣の腕に抱きかかえられ、赤子のように大切に包み込まれると、少女は目を閉じてほっと息を吐く。

 やっと戻ってこられたのだ。

 柔らかな毛並みが、体をくすぐるように少女を包み込んでいる。

 ああ、気持ちが良いなぁ……。

 少女はほほえむと、目を開けて野獣を見た。

 優しい優しい、少女の大好きな野獣がそこにいる。

「優しい私の野獣さん」

 そう話しかける。少女は、自分と野獣がお互いのために存在しているような、二人だけの世界にいるような、そんな風に感じていた。

 だから、初めて「私の野獣さん」と呼んでみた。最後に込めた、願いのような物だったのかもしれない。

 どうか私のことを、ずっと覚えていてね。

 そんな気持ちがあったのかもしれない。

「ずっと、あなたのそばにいたかったわ……」

 温かな腕の中でつぶやけば、安心感が広がる。

 もう、ここに長くはいられないけれど、それでも戻ってきた安堵感で力が抜けた。

 野獣がここにいる。

 あたたかいなぁ。

 少女の顔がほころんだ。

 幸せだと思った。あの倉庫で朽ち果てるのだと思っていたが、最後にこんなに大切にされて死ねる。

 少女が大好きな玉虫色の瞳がすぐ目の前にある。

 ほほえんでいる目ではなかったけれど、やはり優しい目だと思った。

 ゆらゆらと揺れる、色とりどりの玉虫色の瞳。

「ああ、なんてきれいな目……」

 少女は幸せをかみしめながらつぶやいて、目を閉じた。


 途切れ途切れに、かすれた声が野獣に届く。絞り出されたその言葉が、少女の最後の言葉となった。

 眠りについたようにも見えた。

 けれどささやかな命の脈動は、まもなく途絶えた。

 静かな最後だった。彼女が受けた凄惨な仕打ちとは裏腹に、穏やかで、ほほえんでいるかのような顔をしている。

 野獣は慟哭した。ボロ切れのようになった少女を抱き上げたまま雄叫びを上げて彼女の死を嘆いた。

 帰ろう。

 腕の中に戻ってきた少女を見て野獣は思う。

 ずっと一緒にいたかったと、そう言った少女の願いを叶えるかのように、野獣は少女を森の奥へと連れ帰った。

 二人で過ごした泉につくと少女を見やったが、ぬくもりをなくした体は息を吹き返すことはなかった。

 野獣は泣いた。

 少女はここにいるのに、もう笑わなかった。かわいらしい声で野獣に話しかけることはなかった。触れた頬はもう柔らかさをなくしてしまった。野獣と共に隣を歩いてくれることはなくなった。「野獣さん」と、呼んでくれる声は失われたのだ。

 泥と血にまみれて薄汚れてしまった少女の体を抱いたまま、野獣は一晩中泣き続けた。

 森の奥深くから聞こえる哀しいその泣き声は、森中を響き渡り、村にまでその慟哭が漏れ聞こえた。

 哀しい哀しい泣き声だったが、村人達の耳にはひどく恐ろしげに響いた。

 気味が悪いと言って大人は耳をふさぎ、怖いと言って子供は泣いた。

 命からがらに逃げてきた村人が人を襲ってきた野獣の話をした。

 魔の森には、人を襲う野獣がいる。誰も入り込んじゃいけねぇ、その話は近隣の村々にまで伝わっていった。

 けれど、なぜ野獣が人を襲ったのか、その理由は誰も口にしなかった。野獣の花嫁にした仕打ちをよそに知られると非難されるかもしれない。

 娘のことは、なかったことにされた。

 その代わり、娘の母親の墓の隣に、小さな墓が建てられた。

 そして村人達は、どうか怒りを静めてくだされと、そこを祀ってはやり病がおさまるのを願った。

 大けがを負わされて、這々の体で逃げ帰った三人の男達はそれから野獣のことも、娘のことも、口にすることはなかった。なぜ自分たちだけが怪我を負わされたのか、思うところがあったのかもしれない。

 恐ろしくも哀しい野獣の慟哭は、それから何日も魔の森に響き続けた。途切れ途切れに、忘れた頃に慟哭が響く。

 その野獣の恐ろしげな雄叫びは、気味が悪いと村人達を震わせた。

 その音が聞こえる度に、毎日、毎日、身を寄せ合って震えた。

 その声におびえ、一人、また一人と、魔の森のふもとの村から人々は去って行くようになった。

 そして何年もの月日が流れ、やがてその村から村人は一人残らず出て行ってしまった。

 魔の森のふもとで暮らす者がいなくなって、野獣の噂は、次第に忘れられていった。もう、山の奥深いその森に足を踏み入れる者は、ほとんどいない。


 野獣は少女を、彼女が好きだった泉のそばへと葬った。

 そしてその上に、少女の背丈ほどもある大きな石を墓標として立てた。

 野獣はその石を置いただけの粗末な墓標を、大切に、大切にした。

 少女を想い、辺りを綺麗に整え、彼女の好きな花を見つければそこへ供えた。毎日毎日、野獣は少女の眠る場所へと通った。

 一年が過ぎ、二年が過ぎても、野獣は欠かすことなく少女の眠る場所へと通った。そして、時折少女を思い出しては、声をあげて泣いた。

 十年が過ぎ、二十年が過ぎてもそれは変わることなく続いた。けれど、野獣が泣くことはほとんどなくなっていた。墓標の周りには、野獣が日々供えた花の種が落ち、年中色とりどりの花を咲かせるようになっていたからだ。

 いつか娘が作ってくれた冠に使った花もある。

 風が吹く度に、花々はゆらゆらと揺れるのだ。

 野獣には、それがまるで少女が笑っているように思えて、幸せだった。

 いくら年月がめぐろうとも色あせることなく、野獣は自分に向けられた優しい少女の笑顔を想い続けた。

 そうして、百年が過ぎ、更に何十年もの時が過ぎた。

 めぐるときの流れは近隣の者に野獣の存在を忘れさせた。






 ある日、魔の森に一つの小さな影が紛れ込んだ。

 その場所は、森の他の場所とは少し様子が違っていた。人の背丈ほどもある石が一つだけぽつんと立っており、その周りには色とりどりの花が咲き乱れている。その向こうには泉があり、日の光を受けた水面は風に揺れるたびきらきらと輝いた。

 うっそうとした魔の森の奥に似つかわしくない、美しい場所だった。

 その小さな影は、花畑に立つ大きな野獣の背中を見つめていた。

 森に迷い込んだのだろうか。年頃の娘だ。

 息をのんで動かないのは、野獣を見て怯えたのか。

 いいや、違う。

 少女は、胸の奥深くからこみ上げてくる感情に動けなくなっていたのだ。

 わけの分からない感情だった。

 懐かしさにも似た衝動はなんなのか。

 こみ上げてくる涙はいったい何なのか。

 幼い頃から、彼女は大柄な男性が好きだった。大きな人ほど安心してしまう。けれど成長するにつれて、大柄の男性を見ても、何かが違うと感じるようになっていた。

 少女は、いつも誰かを捜していた。誰を捜しているのか、自分自身ですら分からなかったのだが。

 会いたい、会いたいと、いつも思っていた。

 誰に会いたいのかさえ分からないまま、いつも誰かを探し続けていた。

 ぽろりと涙がこぼれた。

 やっと見つけた。

 そこには、求め続けていた大きな背中があった。

 自分が探していたのが誰だったのかを少女は知った。

 こみ上げてくる涙と共に、胸からあふれるのは愛おしさと懐かしさだった。

 少女はその理由を知らない。

 けれどそれはもはや、どうでも良いことだった。

 出会えたことが、何よりも大切なことだったのだから。

 野獣が振り返った。

 恐ろしげなその容貌も、毛むくじゃらのその姿も、少女を怯えさせることはない。

 なぜなら、少女はその瞳の優しい光を知っているような気がしたから。


 歩み寄る少女に、野獣は立ちすくむ。見知らぬ人間の少女が怯えることなく自分へと歩み寄ってきていた。

 人と出会うことがなくなって百年を超える時がすぎた。久しぶりに見る人間の姿だ。

 怯えるように野獣は後ずさった。

 見知らぬ少女は、涙を流しながら、とてもうれしそうな笑みを浮かべて野獣をまっすぐに見つめている。

 確かにそれは、見知らぬ少女であった。けれど、こんな風に見つめてくる人間を、野獣は一人だけ知っていた。

 面影は全く違うのに、彩る空気は野獣が知る唯一人の物と似ていた。色あせることのない面影と、目の前の少女が重なる。

 まるで、在りし日の、懐かしい少女のようだった。

 見知らぬはずの少女が、両手を差し伸べてくる。

 触れることを望むその仕草に、野獣は見覚えがあった。だから求められるままに身をかがめた。すると、やはり覚えのある仕草で少女が野獣の顔を包み込んだ。

 きらきら目を光らせて、少女が野獣の目をのぞき込んできた。

「あなたの瞳、とても綺麗な色をしているのね」

 虹のような玉虫色の瞳を見て、少女が微笑んだ。

 遥か昔、同じ言葉を呟いた小さな少女を、野獣は知っている。

 野獣は大きな毛むくじゃらの手を少女に向けて差し伸べた。それを怯えることなく少女は受け止め、くすぐったそうに頬を寄せる。そして慈しむように小さな手を添えてきた。

 それを野獣はじっと見下ろしていた。

 込み上げる感情をなんと言えばいいのか、野獣は知らない。

 ただ、ずっと求めていたものが、この腕の中に戻って来たことを知った。

 彼女が綺麗といった玉虫色の瞳から、止まることなく涙が溢れていた。




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