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捕らえられてから何日が過ぎただろう。
少女は日を数えることもできず、薄暗い小屋の中に転がされていた。
何度も鞭で打たれて、詛いを解くようにと脅された。
自分が、無実の罪をかぶせられたのだと気付いたのは、捕らえられて、何度も殴られた後だった。
痛む体を抱えて、何が起こったのか考えた。
村人達の言葉から、今、村でははやり病が蔓延していることが分かった。何人もの子供や老人が病で死んだのだという。そして、それがなぜか少女のせいになっているのだということ。
それがなぜだか分からぬまま痛みと寒さにこらえながらその日は意識が途絶えた。
次の日もやはり尋問が行われた。けれど少女に答えられることなどない。
化け物と通じているのだろうといわれた。
化け物というのが何のことか分からなかったが、森で毎日通じているのだろうといわれて、初めて野獣のことをいっていることに気付いた。
野獣に嫁入りした穢れの娘、いつの間にか少女はそう呼ばれるようになっていたらしい。
それを聞いて、少女は怒りに我を忘れて叫んだ。
「野獣さんは穢れなんかではありません……!!」
野獣は美しい。人などよりも、ずっと美しくて優しい。人はきっと野獣を見れば恐れ嫌うだろう。少女だってあの切羽詰まった状況でなければそうなったはずだ。きっと人は野獣にとっていい生き物ではないはずだ。なのに野獣は、迷うことなく少女を助けた。野獣は、人を詛うことも恨むこともせず、なにもかもを受け入れ、森で静かに生きているだけの、美しい生き物だ。
自分が野獣の嫁に見えるというのなら、それでもかまわないと思った。けれど、それを穢れといわれるのは許しがたく思えた。
けれど、そう言った少女に向けられたのは、村人からのさげすみの目だった。
「やはり魔の森の化け物と通じていたのか」
吐き捨てるように、嫌悪感をにじませて蹴り上げられた。
それから毎日、死なないのがおかしいと感じるほどに、痛めつけられた。
ある日、転がっている少女の前に、男が一人やってきた。そして、無様だ、みっともないと言って少女を嗤った。
「おまえが俺を避けたりせず、さっさと俺の物になっていれば、こんな事にならずにすんだんだよ」
痛みのせいか、恐怖のせいか、少女の頭は考えることをしなくなっていた。それ故、このとき少女はただぼんやりとその声を聞いていただけだった。言われている言葉は、意味を理解する前に素通りしてゆく。恐怖と痛みから逃れるために、何かを感じる心をなくしかけていた。
ただ体が痛みをおびえ反射的に反応するばかりの毎日だった。
そんな少女の耳に、まだ男は追い打ちをかけるように話しかけ続ける。
「おまえなんかが俺を拒める立場にあると思っているのか。おまえの近所の奴らも早々に、おまえが俺の物だと分かっていたというのに」
男は自分の言った言葉で更にいらだちをかき立てられた様子で吐き捨てた。
「俺を拒んでおきながら、化け物と通じやがって……!! 俺を汚い目で見ておきながら、化け物にこびうるように笑いやがって……!! 俺は、化け物以下だとでも言うのか……!!」
少女は、ぼんやりと男を見るばかりで、なんの反応もない。それが面白くなかったのか、男は、怒りを抑えて、悪意に染まった笑みを浮かべた。
「なあ、なんでおまえの家の畑だけ上手く育たなくなったと思っている?」
母親が死んでから、手入れをしても育たなくなった作物に少女が苦心し、手が回らないせいだ、母のように上手くいかないとあきらめたのは、そう遠い昔のことではない。
チリッと、少しだけ少女の心が反応し、目が男に向けて動いた。
「おまえの畑に、塩をまいてやったのさ」
そう言って男が声を押し殺すようにして笑った。
「せっかくおまえが俺に頼りやすいようにしてやったのに、化け物とだと? 化け物のおさがりなんか、いらねぇんだよ」
吐き捨てる男を、少女は感情のない目で、ただじっと見つめていた。
「村の奴らも、おまえが化け物と通じていることを教えてやると、はやり病がおまえのせいだって、簡単に信じやがった。おかしいなぁ? 笑っちまうだろう? おまえが、俺の物になっていれば、ぜぇんぶ起こらずにすんだことだったんだ。おまえが俺の物になっていれば、こんな思いをしなくてすんだんだ。かわいそうになぁ……。でも、後悔しても遅い。おまえは、ここでくたばって、俺を無視したことを悔やみながら死ね」
少女の瞳は、最後まで何らかの感情を浮かべることなく、ただにたにたと笑う男をその目に映しているだけだった。
男は少女の髪をつかみあげた。
力のこもらない弱り切った体が持ち上がる。
「汚ぇ女だ。穢らわしい……!!」
男は最後にそう怒鳴りつけると、髪をつかんだまま少女を叩きつけるように床にうち捨て、小屋を去って行った。
少女は体を地べたに打ち付けられた痛みでうなると、そのまま目を閉じた。
けれど、いつもならそのまま気を失うように眠りに入るのだが、この日はややあって目を開けると、また静かで冷たい小屋をその目に映した。
じわり、じわりとしみこむように、男の言った言葉の意味が理解されてゆく。
全て、あの男達の仕業だった。作物がダメになり暮らしが貧窮したのも、近所の人たちが冷たくなったのも、覚えのない罪を着せられたのも、全て。
憎い、と思う気持ちはさほどなかった。
憎いと思うほどの心が残ってなかった。強い感情を持つには、それなりの力がいる。少女にはその力すら残っていなかった。なにも考えずに、ただ消えてしまいたかった。この状況から逃げられるのならどうでも良いという感覚しかなかった。
最初のうちはやめてと叫んだりもした。泣いて謝ったこともあった。痛みに恐怖し、わけも分からずごめんなさいと謝った。責められるのが怖くて苦しくて、嫌と言っては泣いて、意味なくごめんなさいと叫んだりもした。鞭で打たれ、殴られ、蹴られ、それが続くほど、野獣を思い出した。
いつも野獣のことを引き合いに責められるのだから当然かもしれない。
痛くて苦しくて、嘘をついて野獣のせいにすればとちらりとそんな考えが頭をもたげたりもした。
けれど、そのたびに野獣の優しさを思い出した。いつだって少女をさいなむのは人間だった。人間の誰もが少女を追い詰めるのに、野獣だけが優しかった。その野獣を、悪くなど言えるはずがない。
けれど、心はだんだんと追い詰められてゆく。
いたい、くるしい、つらい、こわい。
心の中が黒く塗りつぶされてゆく。なにも考えられなくなった。
そのうち野獣のことさえ、思い浮かばなくなっていた。
なぜこんな事になったのかも、何を責められているのかも分からなくなった。
そこまで考えて、少女は再び目を閉じて、消えたいと願う感覚に身を任す。
『おまえが俺の物になっていれば』
耳の奥で、さっきの男の声がよみがえった。
嫌だ、気持ち悪い、怖い、考えたくない。
『穢らわしい……!!』
また、よみがえる。
ちがう、けがらわしくなんか、ない……。
心の中でつぶやいた。
野獣さんは、誰よりも優しい。ここにいる村人の誰よりも優しい。
久しぶりに野獣のことを思い出す。
ぽうっと、胸が温かさを思い出した。
ああ、会いたい。
涙がこみ上げた。
もう、他のことなんかどうでも良い。心に灯がともる。温かな気持ちが胸の奥でくすぶる。
思い出すのは、辛い時に助けてくれた野獣の姿だった。寄り添ってくれたぬくもりだった。優しく少女をなでる野獣のあたたかさだった。
ああ、野獣さんに会いたい。
けれど、身を動かせば、痛みに体が悲鳴を上げた。
明日もまた、ひどい仕打ちを受けるのだろう。
凍っていた心が解けてしまえば、また恐怖に身が震えた。
生きるのはこれほどまでに辛いことなのだろうか。
少女は祈った。
誰か殺して。もう、辛いから、早く私の息の根を止めて。
けれど、祈った直後に、玉虫色の瞳を細めて、優しく笑う野獣の姿を思い出した。帰る時には、必ず心配そうにじっと見送る姿を思い出した。
でも、死ぬ前に、ひと目、野獣さんに会いたいな……。
力の入らない体を、地べたに転がされたまま、ぼんやりとそんなことを思う。
けれど、ここから逃げ出す術はない。
と、ぐるりと部屋を見渡したところで、少女は気付いた。
小屋の扉が開いていた。どうやら男がかんぬきをかけずに出たらしい。
少女の反応がないことに腹を立てて怒りで立ち去ってしまったせいなのか、それともまた逃げる様子がないことに油断したこともあったのか。
この日の門番はあの男だった。その男が小屋から離れているため、辺りには誰もいない。
わずかに開いた小屋の扉から、光が差し込んでいる。月夜のせいだろうか。
少女はふらふらと立ち上がり扉を開けた。
薄暗い夜明け前の村は、しんとしている。
体のどこもかしこもが、ずきずきと痛みを訴える。けれど少女は体を引きずるようにして歩いた。
「野獣、さん」
声にならない吐息と共に、優しい野獣を呼んだ。
最後に、ひと目。あのぬくもりに、もう一度、会いたい。
はてかけた体で、かすれる声で野獣を呼んだ。
冬の冷たい地面は、裸足の足には突き刺さるように痛い。血にまみれ、痣と傷にまみれ、足を引きずりながら歩いた。引きずる足先は、こすれて皮がはげ、血がにじんだが、その痛みさえ気付かず、少女は魔の森に向けてよたよたと必死に足を動かした。
「野獣さん」
呼べば必ず来てくれた、優しい生き物。傷ついた体を抱きしめて、守るように包み込んでくれた、優しい存在。
汚れ、血にまみれ、やつれ、様相すら変わったその姿で、よろよろと野獣を求めた。
村の外れまで来たところで、人の声がした。
村人達だ。少女が逃げ出したことに気付いたのだ。
少女は痛みに顔をしかめながら、さっきまでより早く足を動かした。けれど一歩一歩がひどく辛い。踏み出す度に痛みが走る。けれど、今にも崩れ落ちそうな体を必死で立て直し、おぼつかない足取りで森へと向かう。
「いたぞ!」
すぐ後ろで村人の声がした。
とうとう見つかってしまった。
森は、もうすぐ目の前にあるというのに。傷まみれの少女の足ではたどり着く前に捕らえられてしまうだろう。
それに、魔の森に入っただけで野獣に会えるわけでもない、奥深くまでたどり着けたのなら追っ手もあきらめるかもしれないが、森に入ったぐらいでは簡単に捕まる。
もうダメなのだと思った。
最後にひと目、野獣に会いたかった。
死ぬ前に、あのあたたかなぬくもりに触れたかった。優しさに触れたかった。あのきれいな目に、優しく見つめられたかった。
村人達の足音が聞こえる。
「野獣さん……!!」
少女は叫んだ。
「野獣さん……!!」
引きつる咽を、必死に張り上げて野獣を呼んだ。
「野獣さん……!!」
少しでも森の近くへ。少しでも野獣のいるあの森の近くへ。近づく足音を聞きながら、少女は足を一歩でも多くと願って動かす。
傷ついた体に坂道は厳しく、少女の繰り出す一歩は、半歩にも満たない。
「野獣さん……っ」
泣きながら野獣を呼ぶ。歯を食いしばりながら足を進める。
繰り出そうとした一歩がもつれた。
「……あっ」
小さな悲鳴と共に、何とか動かしていただけの体は、簡単に崩れ落ちた。
少女は倒れ込んだ体を何とか起こす。そして村人の足音を聞きながら這いつくばって、地面を掻いた。ずりずりと引きずるように体を動かす。土が口に入った。歯を食いしばるとガリッと土をかむ音がした。
四つん這いにさえならない体を引きずって、爪で土をかきむしるように体を進めようと力を込めた。
その手がぎりっと強く踏みつけられた。
「うぁぁ!!!」
少女は痛みに悲鳴を上げる。
村人達が、這いつくばった少女を取り囲んでいた。
あと、少しだったのに。
立ちふさがる村人達の足の向こうに、森が見えた。
「野獣、さん……」
つぶやいて、少女は泣いた。枯れたと思っていた涙が、後から後からこぼれ出た。
手の甲を踏みつけられたまま、少女はその向こうへ少しでも近づこうとするようにずりっと体を引きずった。
すると、今度は背中を踏みつけられた。
涙と血で濡れた顔が地面にぶつかり、顔に土が張り付いていくのが分かった。
息をする度に、口の中に土が入り込む。
ヒューヒューと音のする自分の息を聞きながら、これが最後なのだと思った。
「野獣、さん」
呼ぶ声は、もう、言葉になっていなかった。ただ、ひゅぅっと息が漏れる音だけがした。
涙だけが、音もなくこぼれ落ちていた。
その時だ。
うおぉぉぉぉぅ
地響きのような低い咆哮が聞こえた。
「うわっ」
と、村人の息をのむ声が聞こえた。少女の背中や手を踏む足の力が緩み、村人達がひるんでいる。
わずかに顔を上げると、森の方からかけてくる大きな毛むくじゃらの足が見えた。
どんどんとその大きな足が近寄ってくる。
うなるような叫び声が、だんだんと近づいてくる。
「うわぁ!!!」
村人達が叫んで逃げ出した。
「野獣さん……」
呼べば、必ず来てくれた。
今日も、同じように野獣は来てくれたのだ。
そして、やっぱり少女を守ってくれるのだ。
あふれる涙で視界がかすむ。
少女は、野獣が来てくれたことがただただうれしいと思った。




