第18話
「……思い出したの、全部」
「え……?」
涙で視界が歪む中、私は智喜の制服の胸元をぎゅっと掴みしめた。
記憶の扉が一気に開き、10年前のあの日の光景が、鮮明な映像となって頭の中に流れ込んでくる。
違う……違うよ、智喜……!
傑くんは、逃げたんじゃない……!
あの日、私は掃除当番だった。
放課後の教室でほうきを動かしていると、廊下をドタバタと激しい足音が駆け抜けていった。
『先生! 本当なんです! 人気のない道で、うちの制服を着た奴が不良グループに囲まれて殴られてて……っ!』
必死な声で担任の先生に訴えかけていたのは、汗だくになった傑くんだった。
だけど先生は『そんなわけあるか。お前の見間違いだろ、早く部活に行きなさい』と取り合わなかった。
物騒な会話だなと思いながら掃除を終わらせて校門を出ると、道端で先生と押し問答をしている傑くんを見かけた。
私に気づいた傑くんは、藁にもすがりつくような顔で駆け寄ってきたのだ。
『結衣! 顔を殴られてた少年を見てない!?』
『え? 見てないよ……』
私の答えを聞いて、先生は呆れたように『ほら見ろ、やっぱりお前の嘘じゃないか』と言い放った。
『本当に見たんです! 一方的に殴られてて、助けを求めてた!さっきは絶対ここにいたのに…』
『どんな子だったんだよ』
『うちの制服を着ていて、顔はよく見えなかったけど、気弱そうでした…。 相手は不良グループで、制服を着崩してて、見るからにガラが悪い感じだったんです』
傑くんは必死だった。
『あの時先生を呼ぶんじゃなくて、自分で止めるべきだった…』
『傑くん喧嘩弱いじゃん』
『弱いけど、一緒にやられてたかもしれないけど…。1人で殴られるより誰かと一緒に殴られる方が気持ちは楽だったかもしれない。1人でやられて辛かったはず…』
先生を半ば強引に引っ張り、私と3人で周辺を探し回った。だけど、いくら探しても怪我をした少年は見つからなかった。
私は塾の時間があったため、途中で二人と別れた。
そして塾が終わり、夜の9時過ぎ。お気に入りの公園でジュースを飲もうと立ち寄った時——ベンチで一人、タバコを吸いながら血を流している男の子と出会ったのだ。
煙草を吸う不機嫌な彼に、私はオロオロしながら声を掛けた。
『大丈夫…?』
少年は鬱陶しそうにこちらに一瞬目を向けると、何も答えずに顔を戻した。
『血、出てるよ』
ハンカチを差し出すと少年は目を見開いて、今度は無視せずに受け取った。
傑くんが話していた、殴られていた少年かと一瞬思ったが、制服がうちの学校のものではなかった。
うちは白シャツに黒ジャケットだが、少年は水色のシャツを着ていたのだ。
どこの高校だろう…?見たことない制服だった。
『相手は不良グループで、制服を着崩してて、見るからにガラが悪い感じだったんです』という傑くんの言葉を思い出した。
この子は制服を着崩しているし、ガラも悪そうだった。
もしかしてうちの高校の子を虐めた不良グループの人…?
私は彼に疑いの目を向けた。
『喧嘩したの?』
『うるせー』
態度悪っ。
『タバコやめなよ。警察に見つかるよ。学校だって退学なっちゃう』
『別にいい』
頑固だなぁ、と呆れる。
ギュルルル。彼のお腹の虫が鳴った。
カバンからパンを取り出す。今日の夕方、勉強している私に傑くんがくれた。
『あげる、パン』
『いらねえよ』
『あげるったらあげる。私が好きな子からもらったやつ』
『じゃあ自分で食べろ』
パンを半分にちぎって無理矢理彼の口に突っ込んだ。諦めて咀嚼する。
『…美味し』
『ふふ、美味しいでしょ。私が勉強してたら、いつも頑張ってるねって言ってくれたんだ。めっちゃカッコいいんだよ』
『そんな大事なパン見ず知らずの男にあげたの知ったらそいつ怒りそうだけど』
『正義感が強くてね、すっごい優しい人だから大丈夫。その子も絶対、今の私の状況ならパンあげてるもん』
『ベタ褒めだな。彼氏?』
『彼氏じゃない…。片思い』
『パンもらったのに?』
『みんなに優しいから…。モテるし。クラスの女子に告白されてね、OKしないの?って私が聞いたら、勉強が忙しくて恋愛どころじゃないって』
『へぇ…』
『興味ないでしょ!』
『それよりこのパンが美味すぎる』
私が小さく齧ったパンの残りを手渡す。
『全部食べていいよ』
『…サンキュー』
彼の目の上の傷から血がぽたっと垂れる。
私は絆創膏を手渡す。
『放っといたら治る』
『治らないから!』
強引に絆創膏を貼る。
不満そうな顔を見せる。
『可愛い絆創膏にしといた。ハート柄のやつ』
『勘弁してくれよ』
携帯が鳴る。母からのメールだった。『帰り遅いけど、大丈夫?』とのことだ。
『私もう帰らなきゃ。病院行ってね、絶対』
『…』
『病院行かなかったら一生傷が残って、傷口から感染して、高熱にうなされて苦しむよ』
少年はクシャッと笑った。
『大げさなんだよ』
大昔の記憶がポロポロと溢れ出す。
あの時の、傷だらけの男の子——それが、智喜だった。
「智喜……聞き間違いじゃない。傑くんは、逃げたんじゃないよ……!」
涙をポロポロと零しながら、私は智喜の顔を見上げた。
「あの日、傑くんは先生に助けを求めに走ってたの! 先生が信じてくれなくて対応が遅れたけど、傑くんは必死で先生を連れて、私とも一緒に智喜を探し回ってたんだよ……!」
「……え?」
智喜の時が止まった。
瞳が大きく揺れ、信じられないものを見るように息をのむ。
「『顔はよく見えなかったけど、助けを求められたんだ』って……汗だくになって、必死な顔で智喜を探してた。傑くんは……智喜を見捨てて逃げたんじゃなくて、助けを呼びに行ってくれてたんだよ……っ!」
「あいつが俺を……?」
智喜の唇が震える。
『助けて』と声を絞り出した自分と目が合った瞬間、走り去っていった傑の背中。
あの日からずっと「見捨てられた」と信じ込み、人間不信と絶望の底に落ちて学校を辞めようとしていた智喜の中で、冷たく固まっていた過去の呪縛が、音を立てて崩れていく。
智喜は力を失ったようにその場に崩れ落ちそうになり、私はその身体を必死に支えた。
智喜の目から、一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
「……そっか。……あいつ、逃げたわけじゃ……なかったのか……」
智喜の声は、子供のようにかすれていた。
何年も抱え続けてきた傑への屈折した憎しみと寂しさが、暖かな涙となって溢れ出していく。
「あの時、手当した子が智喜だって気付かなかった…。だって違う高校の制服着てたもん」
「新しい制服買う金なくて、ジャケットだけ高校が貸してくれて、シャツは前のままだったんだ。傑に見られた時はジャケット着てたけど、血がついて脱いだから」
点と点が繋がっていく。
大きなすれ違いが兄弟を断絶させていた。
「智喜は、最初から一人じゃなかったんだよ。傑くんも、私も……ずっと智喜のこと探してたんだから」
私は涙を拭いながら、智喜の痩せた肩をしっかりと抱きしめた。




