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22話:敷居を越えた王


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創造主の身勝手な夏 — 第二十二話

敷居を越えた王



扉の向こうは静かだった。


そのあまりの静けさが、かえって鼓膜を圧迫するほど異質な沈黙だった。


つい先ほどまで、こつ、こつ、と人の神経を細かく削るように響いていたノックの音は、嘘のように止んでいた。それなのに、部屋の空気は沈むどころか、ますます濃く、粘ついていった。甘ったるいのに、胃の奥が捻じれるほどむかつく香り。最高級の香水のようでもあり、花が腐っていく悪臭のようでもあり、火に焦がされた糖分が溶け崩れる焦げ臭さのようでもある、その過剰に華やかで不快な香りが、鍋の匂いを完全に覆い尽くすほど鮮明に広がっていた。


レイの手は、相変わらず氷のように冷たく震えていた。


紫苑はその冷え切った手首を強く掴んだまま、玄関のほうだけを鋭く睨みつけていた。食事をしていたテーブルは、もうめちゃくちゃだった。誰も箸をもう一度持つ気配すらなく、鍋の中の汁だけが、ぐつぐつと煮えながら音を立てている。ついさっきまで、それなりに人の住む家らしい音を立てていた空間が、一瞬で何かの舞台裏のように変わっていた。


峰が、ひどく低く沈んだ声で言った。


「お二人は下がってください」


冥渡家の者たちは、すでに動いていた。一斉に玄関のほうへ詰めた彼らは、壁と天井、扉の枠へ護符を一枚ずつ貼りつけていく。ある者は細く薄い剣を抜き、ある者は手首に巻いていた結界具を解いた。皮膚に直接刻まれた文様が露わになり、その手首を床に押し当てると、精緻な術式が光を帯び、家の中の空気を薄く包み込んだ。


紫苑はその物々しい光景を見ても、まったく安心できなかった。むしろ肌に触れる実感だけが、さらに生々しくなっていく。


ああ、本当に何か大きなものが来たんだ。


レイは紫苑の隣で、かろうじて息をしているだけだった。じっとり浮いた冷や汗がこめかみを伝って流れ落ち、冷たくなった指先はまともに動きもしない。紫苑はそんなレイを横目でちらりと見てから、また玄関のほうへ視線を突き刺した。


「……誰かが開けたりしたら、殺すからな」


声は低かったが、はっきりしていた。


峰は玄関から視線を外さないまま答えた。


「その心配をする必要はなさそうです」


「それ、どういう――」


言葉が終わるより早かった。玄関の扉に貼りついていた護符が、同時にかすかに震えた。


ぱちり――。


音は大きくなかった。けれど、あまりにも鮮明で、全員が本能的に体を強張らせるほどだった。


扉そのものが物理的な衝撃を受けて揺れたわけではなかった。それより先に、その扉を守っていた結界が、内側からゆっくりと押し退けられていた。まるで誰かが外から無理やり力を使って壊しているのではなく、「退け」という絶対的な意志ひとつだけで、境界が自ら下がっていくように。護符の端が一枚、また一枚と黒く干からび、淡い光を帯びて浮いていた文様が、上からゆっくり消えていった。


冥渡家の者の一人が、低く悪態を噛み殺した。


「ありえない……」


峰の目が、さらに深く沈んだ。


そしてその瞬間、ドアノブは少しも動いていないのに、玄関の扉がゆっくりと開いた。


ぎい、といった平凡な生活音はなかった。むしろ、あまりにも滑らかで静かだった。まるで内側から誰かが先に開いておいた道のように、ぞっとするほど自然に。


扉の隙間から最初に入り込んできたのは、濃密な香りだった。


次に、濃い影。そして、静寂を破るハイヒールの音が響いた。


こつり――。


本当に小さな音だった。それでも、その一度の響きだけで、家の中の空気が完全に別の世界のものへ変わった気がした。


こつり――。


扉が完全に開くと、その向こうに立つ存在が、ゆっくりと姿を現した。


玄関とリビングのあいだを塞いでいた冥渡家の者たちが、同時に剣と護符を掲げた。


だが、誰も前へ進めなかった。


一番前に立っていた男の切っ先が、激しくかたかたと震えていた。歯を食いしばった顔でどうにか堪えていたが、つま先はすでに半歩、横へずれていた。彼は遅れてその屈辱的な事実に気づき、荒く顔を歪めた。


こつり。こつり。


ほかの者たちも、一人、また一人と道を空けた。武器を下ろした者はいなかった。頭を下げた者もいなかった。それでも、廊下の中央はゆっくりと空いていった。


アスモデウスは誰にも目を向けないまま、その道を通ってリビングへ入ってきた。


紫苑はその光景を見て、数秒間、何も言えなかった。


最初に見えたのは王冠だった。華やかで、大きく、その存在が自分の頭上に何を載せているのか、まったく隠そうともしない傲慢な王冠。


次に、角が目に入った。長く巨大な角が頭上へ伸びている。獣のような荒々しい威圧感があるのに、その曲線と質感は過剰なほど美しかった。まるで最初から、その頭上の王冠とともにあるべき飾りのように、自然にそびえていた。


その下に流れているのはマントだった。黒と赤い光が重なった巨大なマントの裾が床の上を長く引きずられ、動くたびに、その内側で金属の装飾がちらちらと光を反射した。


そしてマントの下から、長く巨大な蛇の尾が、ゆっくりと滑るようについて入ってきた。


滑らかな鱗は、照明に触れるたびに冷たい光沢を滲ませた。ひとたび蠢くごとに、家の床を長く撫でるように通り過ぎ、消しようのない存在感を残していく。人間の脚よりずっと長く、ずっと重く、ずっと威圧的な尾だった。それだけで、この存在が人の形をただ真似ているだけで、人とはまったく別の側にいるのだということが、あまりにも鮮明に伝わってきた。


そして、その装い。


「……いや、ちょっと待て」


紫苑は思わず、ごく小さく呟いた。


ランジェリーだった。


正確には、ランジェリーのような格好。体を隠すというより、晒すために着る種類の衣服だった。腰の線も、脚の線も、何より胸の起伏をあまりにも露骨に見せつける装いだった。しかもその胸が――紫苑の脳が、その視覚情報を理解するまでに、数秒ほど余計にかかった。


「うわ、やべ」


自分の口からそんな声が出たことに気づいた瞬間、紫苑はすぐに口を閉じた。


今、自分が何を見ているのか。これが本当に現実なのか。あのやたら派手な王のようなものが、なぜ人の家のリビングの前にハイヒールを履いて立っているのか。そしてなぜ自分の目が、よりにもよってそこへ真っ先に引っかかったのか、何もかも理解できなかった。


だが問題は、その短い人間らしい動揺さえ、すぐに消えたことだった。


なぜなら、その存在があまりにも危険に見えたからだ。


巨大な大剣を片手で何でもないように持っていた。剣は自分の背丈ほどもあり、刀身は過剰なほど滑らかで長かった。装飾的な要素に満ちているのに、決して玩具には見えなかった。あれが動けば、ただ生き物を斬るのではなく、空間ごと裂いてしまいそうだった。


そして何より、その姿そのものが、あまりにも飾り立てられていた。


華やかだった。美しかった。誇示的だった。なのに、少しも滑稽には見えなかった。


むしろ、その誇示があまりにも完璧で、見る者を息苦しくさせた。私は王だ。私が入れば、この空間は私のものだ。わざわざ言葉にしなくても、そんな無言の宣言が自然と伝わってくる存在だった。


アスモデウスは敷居を越えた。


ハイヒールの踵が床を踏む音が、こつり、と低く響いた。その小さな音だけで、テーブルの上の鍋の汁がかすかに揺れた。


その存在は、家の中をゆっくりと見回した。冥渡家の者たち。結界。峰。紫苑。そして最後に、紫苑の隣でほとんど息すらまともにできずにいるレイ。


その瞬間、アスモデウスの口元に、ひどくゆっくりとした笑みが浮かんだ。


「……久しいな」


厳かな女の声だった。


低く、遅く、過剰なほど優雅な声。気味が悪いほど優しいのに、その優しさそのものが巨大な圧のように感じられる声だった。


レイの肩が、目に見えてびくりと跳ねた。


紫苑はそれを見るなり、すぐにレイの前をさらに塞ぐように立った。そして斜に構えた口調で言った。


「人の家に勝手に入り込んできたなら、まず礼儀を覚えろよ」


アスモデウスの視線が、ゆっくりと紫苑へ移った。赤と金が混ざったその目は、ひどく玲瓏とした光を帯びていて、だからこそ底の深さが読めなかった。


「礼儀、か」


アスモデウスが、ひどくゆっくりと笑った。


「そなたは初めて見る王にも、すぐ牙を剥くのだな」


「初めて見る王が、人の家の夕飯時を邪魔して突っ立ってたら、誰が喜ぶんだよ」


「面白い人間だ」


声は相変わらず柔らかかった。だが、一言一言が、奇妙に相手を下へ押し込んだ。


峰が、ひどく低く、硬い声で言った。


「ご用件は」


アスモデウスはそこでようやく、峰のほうへ視線を向けた。ほんの一瞬だけ。そしてまた、レイのほうへ戻った。


「言ったであろう」


「ただ気になって来てみただけだと」


その言葉が落ちると、レイの指先がもう一度大きく震えた。


アスモデウスはその反応を見て、さらに深く笑った。


「今のあの子が、どんな姿で息をしているのか」


「この身も、一度くらいは直に見ておきたくなるというものだろう?」


レイが、ごく小さく息を吸った。


紫苑は後ろへ手を伸ばし、レイの腕を探した。指先に触れた肌は、信じられないほど冷え切っていた。


「レイ」


返事はなかった。


レイはアスモデウスを見ていたが、まともに見ている目ではなかった。瞳は揺れていて、唇は少し開いたまま、短い息だけが漏れていた。体が先に覚えている恐怖が、今、意識全体を重く押し潰している顔だった。


アスモデウスはそれを見て、ひどく満足げに囁いた。


「そうだ。その顔だ」


紫苑の目つきが、はっきり変わった。


アスモデウスはゆっくりと、もう一歩中へ入ってきた。冥渡家の者たちの体が同時に強張ったが、誰も先に飛びかかることはできなかった。到底敵わないという感覚が先に四肢を引き止めているようだった。


「ずいぶん小さくなったな」


「みすぼらしくなった」


「かつてのそなたとはまるで別物だ」


レイの息が、さらに荒くなった。


「封印がそなたをそうしたのか」


「力を失った王というのも……なかなか愛らしいものだな」


紫苑は歯を食いしばった。


その言葉のすべての意味がわかったわけではない。それでも、ひとつだけは確かだった。


あれはレイを侮辱する言葉だった。そしてレイは、その侮辱を理解していた。理解するどころか、体が先に完全に押し潰されていた。


峰が一歩前へ出た。


「それ以上近づかないでください」


アスモデウスはその言葉に一瞬だけ視線を下げ、大剣の先で床を軽く突いた。


どん――。


その瞬間、床に刻まれていた結界の文様が、一度に大きく揺れた。壊れたわけではなかった。だが、そのたった一度の動きだけで、位階の差があまりにも鮮明に露わになった。


冥渡家の者たちの顔が硬く強張った。


アスモデウスは何でもないことのように呟いた。


「神経質だな。この王は今日、戦いに来たわけではないのだが」


その言葉が、なおさら気分悪かった。


アスモデウスの視線が、再びレイへ届いた。


「会いたかったぞ、レイモンド」


その名がリビングに落ちた、まさにその瞬間だった。


レイの体が、そのまま固まった。


息が詰まった音すらしなかった。指先は紫苑の服の裾を探そうとして、途中で止まっていた。その名は、ただの呼びかけではなかった。長いあいだ封印の下へ沈んでいた何かを、深淵から無理やり引きずり上げる音のようだった。


紫苑は反射的に、レイのほうを振り返った。


レイの顔から血の気が引いていた。


「……レイ……モンド?」


初めて聞く名前だった。なのに、不思議なことに、一度口に出すと、ただ知らないだけの名には思えなかった。レイという今の名前にあまりにも似ていて、余計に気味が悪かった。


アスモデウスが、ひどくゆっくりと笑った。


「ああ」


その一音だけで、部屋の空気がさらに濃くなる気がした。


「そうだ。その名で呼ばれなくなって久しいな」


そして、もう少し柔らかく、もう少し残酷に付け加えた。


「あの子で遊ぶ時間は、なかなか楽しかったからな」


部屋の空気が凍りついた。


冥渡家の者たちも、峰も、アスモデウスから視線を外せずにいた紫苑でさえ、その言葉が通り過ぎた瞬間、動きを止めた。


アスモデウスは、まるで上等なワインでも思い出しているかのような、悠然とした顔だった。


「よく泣き」


「よく壊れ」


「よく耐えた」


レイの肩が大きく震えた。


「飽きの来ない玩具だった」


その言葉が落ちた瞬間、紫苑の中で何かがぷつりと切れた。


ついさっきまでの斜に構えた態度も、言葉だけで突っぱねていた調子も、一瞬で消えた。代わりに、ごく静かな怒りが上がってきた。


紫苑はゆっくりとアスモデウスへ顔を上げた。


「……もう一回言ってみろ」


声は低かった。あまりにも低く、テーブルの上で鍋が煮える音よりも静かに聞こえるほどだった。


今度は誰もすぐには言葉を継げなかった。


冥渡家の者たちも、峰も、レイでさえ。


紫苑の体から、殺気が滲み出ていた。


大げさな力ではなかった。目に見える気配も、派手な爆発もなかった。それでも、確かにそこにあった。


殺してしまいたいという衝動。本気で。今、この場で。


その感情があまりにも鮮明で、かえって空気全体が少しだけ静かになったようだった。


紫苑は自分でもそれを感じていた。言葉ではなく、本能が先に出ていた。あの口を、これ以上開かせてはいけないと。


レイの前で、あんなふうに言わせてはいけないと。


指先が冷たくなり、胸の奥でレイの力が低く鳴った。それでも今この瞬間、紫苑を動かしているのは、その力ではなく感情だった。


峰が初めて、はっきりとした緊張を含んだ声で言った。


「紫苑。下がってください」


だが紫苑は動かなかった。


ただ、さらにまっすぐアスモデウスを睨んだ。


アスモデウスはしばらく何も言わなかった。


そしてひどくゆっくりと、本当にゆっくりと視線を移し、紫苑をまっすぐ見た。


初めて。


ただレイのそばにくっついている人間ではなく、ひとつの存在として。


アスモデウスの口元に浮かんだ笑みが、さらに濃くなった。


「……ああ」


低く厳かな女の声の中に、初めてはっきりとした興味が混じった。


「その目、気に入ったぞ」


紫苑は答えなかった。ただ睨み続けた。


アスモデウスは大剣の柄に軽く手を添えたまま、まるで新しく面白い玩具を見つけた者のように、紫苑をゆっくり眺めた。


「龍王、そなたの傍に、このような不遜なものを置いていたのか」


背後で、レイの手がごく小さく震えた。


冥渡家の者たちが再び動こうと構え直したが、誰も先に出ることはできなかった。峰だけが、少しも乱れまいとする顔で、状況を鋭く読んでいた。


アスモデウスは笑うばかりだった。


視線は相変わらず、紫苑に固定されたままだった。


「面白い」


その一言が、部屋の空気全体を重く押さえつけた。


そして紫苑は直感した。


この王は、もうレイだけを見に来たわけではなくなったのだと。



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読んでくださってありがとうございます。

次回は毎週水曜日、18時頃に更新予定です。

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