第4話:帰還
気づくと鈴木は大理石の床ではなく、冷たい泥水の中に這いつくばっていた。
見覚えのある三年前と同じ公園。
体中が焼けるように熱い。
異世界で三年間戦い抜いた肉体は鉛のように重かった。だが、その皮膚の下では、魔王から託された禍々しい漆黒の魔力が、どろどろと不気味に脈動している。
「帰って……きたのか。日本に……」
何も変わらない。
ただ搾取され続けるだけの日常に
「……ああ……あああああああッ!!」
鈴木は地面を叩き、獣のような咆哮を上げた。
三年間、一度も眠らず、一度も折れずに戦ったのは何のためだったのか。
アステリアを信じ、彼女のために剣を持ち、どれほどの血を流したか。
その時、近くに落ちていた「白い手袋」が目に留まった。
鈴木はそれを呪わしく睨みつけ、握りつぶそうとした。
その瞬間だった。
「――っ!?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
魔王の能力である『サイコメトリー』が、鈴木の意思とは無関係に発動した。
手袋を通じて、凄まじい密度の「記憶」が脳内に直接流れ込んでくる。
記憶の中のアステリアは、鏡の前で一人、冷酷な笑みを浮かべていた。
『お父様、例の勇者は期待以上に働いておりますわ。しかもあの男、私が少し微笑んで、優しい言葉を与えただけで涙を流して喜ぶのです』
『……ふふ。‥‥しかしあの「魔王」も、忌々しいですわ。たかが異民族の元奴隷のくせに我が国に反逆するなんて……』
「……あ、が…………」
鈴木は手袋を握りしめたまま、絶句した。
自分が「正義」と信じて斬り伏せた魔王は、自分と同じように人生を奪われ、都合よく「敵」という役職を与えられた、ただの被害者に過ぎなかった。
自分が魂を捧げて信じた「救い」も、正義だと思って守った「国」も、彼女が暇つぶしに描いた、残酷な脚本に過ぎなかったのだ。
「……ふ、ふふ……あははははははは!」
公園に、狂ったような笑い声が響き渡った。
二つの世界からゴミとして捨てられた男の笑い声。
その背後に三つの影が差した。
「おい、ジジイ。夜中に一人で何笑ってんだよ。不気味なんだよ」
コンビニの袋をガサつかせ、スカジャンを着た若者が三人、鈴木を囲む。
一人は鼻にピアスをつけ、残りの二人は退屈そうにスマホを弄りながら、獲物を見定めるような下卑た笑みを浮かべていた。
「ここ、俺たちのシマなんだわ。座ってるだけで『場所代』が発生すんの、分かってんの?」
「……場所代、か」
「あ? 聞こえねえよ。耳まで腐ってんのか?ほら、さっさと財布出せよ」
リーダー格の男が、胸ぐらを掴み上げようと手を伸ばした。
その瞬間。
――ガキィッ!!
硬質な音が夜の静寂を切り裂いた。
男の指先が、鈴木の衣服に触れる直前、目に見えない『壁』に弾かれたのだ。
「……あ? なんだこれ、硬っ……!?」
鈴木の瞳に、うっすらと青白い光が宿る。
魔王の力は鈴木の深い怒りと同調し、現代の物理法則を無視して溢れ出していた。
「おい、何したんだよジジイ!」
焦った一人が、ポケットからバタフライナイフを取り出し、鈴木の脇腹へ突き立てる。
だが。
パキィィィィンッ!
鋼鉄の刃が、まるでおもちゃのプラスチックのように砕け散った。
鈴木の肌には、傷一つついていない。
「……私の人生は、ずっと我慢の連続だった」
周囲の空気が震え、街灯がパチパチと火花を散らした。
「『代わりはいくらでもいる』と言われ、殴られ、安い給料でこき使われ、必死に自分を削って……ただ、生きてきた。どんな理不尽も、お前の努力不足のせいだ、『自己責任』だろ……という言葉一つで片付けられ、耐えることだけを強要されてきたんだ」
「‥‥そんななか異世界に召喚され、ようやく人生がいい方向に変わると思った。……だが、そこでも私は、都合のいい道具として使われただけだった」
「――もうウンザリだ」
鈴木が軽く指先を振る。
それだけで、突風のような衝撃波が半グレたちを襲った。
彼らは叫ぶ暇もなく、吹き飛ばされ、そのまま地面に這いつくばった。
「ひ、ひぃっ……! 化け物、化け物だ!」
腰を抜かし、失禁しながら逃げ惑う若者たち。
鈴木は自分の掌を見つめる。
そこには、魔王の強大な力が脈打っていた。
視線の先には、闇の中に浮かび上がるビル群。
自分を使い潰し、ゴミのように捨てた社会の象徴。
「……自己責任、か」
鈴木は、若者たちが逃げ去った暗闇に向かって、冷たく吐き捨てた。
「散々、俺たちをその言葉で切り捨ててきたんだ。なら……俺の力で誰がどうなろうと、それも『自己責任』だよな」
かつての派遣社員は、静かに歩き出した。




