第十三章
午前十時を回ったころ、空は鈍く曇っていた。
六月の湿気は肌に纏わりつき、歩くたびに衣服の内側がじっとりと汗ばむ。
梅雨入り前のこの重たい空気は、まるで過去がまだ体にまとわりついて離れないようだった。
退去の手続きは済んでいた。
とはいえ、灯花が一人で荷造りしたのだから、残されたものがあるだろうと思っていた。
それに、最後にもう一度、この部屋に足を運ぶ必要があるような気がしていた。
灯花が大学に入り、二人で暮らしていた頃のアパート。
二階建ての築年数を重ねた木造の建物は、遠くからでもすぐにわかった。
変わらない外壁、ひび割れた階段、郵便受けに貼られた「管理会社変更のお知らせ」。
数年の歳月は建物に確かに刻まれていたが、記憶の中のその姿と大差はなかった。
俺たちが住んでいたのは、階段を上がってすぐ右手の部屋だ。
懐かしさよりも、重さの方が先にきた。
ドアの前に立つと、記憶の中の生活音や、笑い声や、雨音さえも蘇ってくる。
鍵は灯花から預かっていた。
ためらいながらも、それを差し込み、静かに回した。
扉が軋む音とともに開いた。
湿った空気と共に、記憶の匂いが鼻腔をかすめる。
埃っぽい室内に足を踏み入れると、見慣れた間取りがそのまま残っていた。
小さなリビングと台所。六畳の和室。奥の洋間が灯花の部屋だった。
家具はほとんど運び出され、段ボールが一つだけ、ぽつんと部屋の真ん中に置かれていた。
膝をついてその段ボールを開けると、中には古びたノートや本、雑貨、そして写真立てが詰められていた。
俺の私物だった。刑務所に入ったとき、あまりに突然だったため、まともに持ち出せなかったものだ。
埃を払いながら、一つひとつ手に取っていく。
大学の時に使っていたノート。破れたCDケース。使いかけのボールペン。
どれも取るに足らないモノたちだが、それらが一つの時代を物語っている。
一冊の大学ノートをめくると、端に小さな落書きがあった。
灯花の字だった。
《お兄ちゃんへ。お昼はちゃんと食べてね。コンビニばっかダメだよ!》
笑ってしまいそうになったが、喉の奥で笑いが詰まった。
代わりに、静かに鼻をすする音だけが部屋に響いた。
灯花は、これを捨てられなかったのだろう。
誰に見せるわけでもない、小さなやりとりの痕跡を、そっとこの箱に入れて残していた。
きっと、別れを前にしても、それだけは手放せなかったのだ。
写真立てには、一枚の写真が入っていた。
七年前、灯花の高校の入学式の朝に撮った一枚だった。
まだスーツが似合わない俺と、制服に身を包んだ灯花が並んで立っている。
背景は団地の前の桜並木。
二人とも、不器用に笑っていた。
それを見た瞬間、喉の奥がきゅっと締めつけられた。
記憶の中では消えずに残っていたあの春の日。
ふたりで弁当を持って公園で食べたこと、夜にふざけあいながら家に帰ったこと。
全てが、この一枚に宿っていた。
──これはもう返せない。
そう思った。
この写真は、彼女にとっても宝物だったはずだ。
けれど今、この瞬間、俺の方がそれを必要としている気がした。
段ボールを閉じ、写真立てだけを小さな袋に入れて、そっと持ち帰ることにした。
それがきっと、最後の我儘だった。
•
帰り道、雨がぽつりと落ちてきた。
曇った空が今にも泣き出しそうに膨らんでいたが、傘は持っていなかった。
そのまま濡れて歩くことにした。
人通りの少ない道を選びながら、写真の入った袋を胸に抱え、歩幅を小さく進めていく。
灯花にとって、俺はもう過去の一部になる。
それでいい。そうするしかない。
だけどこの写真は、過去でも未来でもない、いまの俺を支えてくれるものだった。
心の中にぽっかりと空いた穴が、少しだけ埋まっていくのを感じた。
自分という人間が、誰かの記憶にちゃんと存在していたこと。
それを信じられるだけで、歩き続ける力になるのだと、いまは思えた。
•
部屋に戻って、いつもより丁寧にタオルで髪を拭いた。
冷蔵庫の中には、相変わらず空っぽのままの棚。
コンビニで買った安い弁当をレンジにかけて、カップ味噌汁のお湯を注ぐ。
湯気が立ち上る中、写真を小さな棚に飾った。
隣には何も置かない。
それが最もふさわしい空間だった。
今、俺はここで生きている。
誰にも名乗ることのない名で、誰のためでもなく、ただ静かに。
それでもいい。
静けさの中で、温かい何かが胸に残っている。
それが「遺されたもの」だとするなら──。
きっと、俺はまだ、生きていける。




