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影法師  作者: 柳 凪央
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第十一章

駅前のロータリーに立ち尽くしていた。

潮のように行き交う人の波の中で、俺だけが時間から取り残されていた。

吐き出されるように人が降りてくる電車のホームから、無数の足音が地面を叩く。

誰もが誰かに急いでいて、誰もがどこかへ向かっている。


それに比べて、俺の足元は、地に吸い込まれるように重たかった。

一歩を踏み出す理由が見つからず、ただ、胸の中に空白のようなものが広がっていく。


目の前のガラスに映る自分の姿が、どこか他人のように思えた。

Yシャツの襟は少し黄ばんでいて、目の下にはくっきりとした影が落ちている。

人目に怯えるほどの自意識はもうない。

それでもこの身体は、「社会」の中で浮いて見える。


この日の帰り道は、なぜかまっすぐ帰る気がしなかった。

空腹でもなかったが、飲み物でも買おうかとコンビニへ向かう途中だった。


その瞬間――。


通りの向こうに、見知った背中を見つけた。

俺の目は、吸い寄せられるようにその一角に釘づけになった。


灯花だった。


人混みの中でもはっきりとわかる。

きちんと整えられた髪。清潔感のある白いブラウス。

そして何より、あの佇まいに、懐かしい温度があった。


彼女は一人ではなかった。

隣には、スーツ姿の男がいた。

見間違えるはずもない。彼女の婚約者だ。

灯花が見せる笑顔の意味を、俺はよく知っていた。

あれは、心から安心している時の顔だ。


二人は、ごく自然に寄り添って歩いていた。

まるで長年連れ添った夫婦のように、歩幅を合わせ、時折笑い合っていた。


それだけで、心にざわりと冷たい風が吹いた。


──幸せそうだな。


その思いと同時に、胸の内側に鈍い痛みが走った。


自分はもう、あの隣にいられる存在ではない。

兄妹という事実があっても、それが彼女の未来の足枷になるのならば、むしろ消えた方がいい。

そう決めたのは、他ならぬ自分自身だったはずだ。


なのに。


ほんの数メートル先にいるのに、声をかけることはできなかった。

顔を見られることさえ怖かった。

自分の存在が、彼女の笑顔を曇らせるのではないかという不安に、体が凍りついた。


灯花がふと立ち止まった。


横断歩道の信号が赤になったのだろう。

その場に止まり、隣の男がスマホを取り出して何かを見せていた。

灯花はそれに小さく頷き、くすくすと笑った。


「……」


不思議なことに、涙は出なかった。

ただ、胸の奥に静かな重みが沈んでいくようだった。


俺は反対方向へ歩き出した。

彼女がこちらに気づく前に。

いや、もしかすると、すでに気づいていたのかもしれない。

それでも、彼女は何も言わなかった。


それで、いい。


“兄”としての最後の役割は、彼女の未来に傷を残さないこと。

血のつながりを断つということは、単に距離を置くことではない。

存在の記憶を、少しずつ霞ませていくことだ。


俺はもう、“灯花の兄”ではなくなるのだ。


──そう思っていた。


だがその夜、アパートのポストを開けた時、そこに白い封筒が入っていた。

宛名も差出人も、何も書かれていない。

ただ、封の中に一枚の便箋だけが入っていた。


《またね》


たった三文字。手書きの、優しい筆跡だった。


胸が、静かに軋んだ。

誰にも届かない叫びのように、喉の奥で何かが震えた。


ああ、やっぱり気づいていたんだ。

灯花は、気づいていて、何も言わなかった。

言葉よりも重たい沈黙の中で、たしかに俺たちは兄妹であり続けていた。


封筒をそっと机に置く。

読み返す必要はなかった。

その一言に、すべてが詰まっていたから。


俺はもう、「ただの男」になる。

“兄”という肩書きは、ゆっくりと過去に沈んでいく。


だけど、それでも構わない。

その三文字が、俺を今日も立たせている。


言葉にならない思いを抱えたまま、部屋の窓を開けた。

冷えた夜風が、肌を撫でていった。

暗い空には灯りひとつない。


それでも、俺の心には確かに光が灯っていた。

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