68話 好きになってしまいましたわ
わたくしは今、陽の光にキラキラと輝く川辺を婚約者に手を引かれて走っております。それだけならばロマンチックなのですが、そこに笑顔はありません。後ろからオークが「ブヒッブヒッ」と鼻息荒く追って来ていたからでございます。折角のムードが台無しです。
ほぼ全力で走っておりますが、繋がれたフォーリオ様の手から注がれる――愛の力――のお陰か、全然疲れません。
先程、反省したばかりなのでございますが、わたくし、また浮かれてしまっております。
何せ――可愛い――などと言われてしまったのですから、致し方ないのではないかと存じます。
わたくしとて貴族令嬢でございますので、これまで容姿を褒められたことがないわけではありません。――お美しい――などと言われたこともございます。本当ですよ。ただそれは貴族同士の社交辞令のようなもので、心からの言葉ではありませんでした。
――女狩人は可愛いって思ったぞ――
アレはフォーリオ様の心からの言葉でございました。間違えございません。あの言葉の一字一句にひしひしとした熱量のようなものを、わたくし、はっきりと感じました。
恋愛経験のないわたくしは、男性の心の機微に疎い方でございます。これまで全く気がついておりませんでしたが、フォーリオ様は、ずっとわたくしを女として意識されていたのです。つまりフォーリオ様は、家庭教師が男性のタイプの一つとして上げていた――ムッツリ童貞――なのだと思います。
これまでもフォーリオ様から向けられていたであろう嫌らしいねっとりとしたスケベな視線を、わたくしは全く気がつかぬまま見逃してしまっていたということなのです。我ながら、その鈍感さに呆れてしまいます。
先程までは、フォーリオ様を――心からお慕いしているわけではない――とわたくし自身も思っておりました。けれど、どうやらわたくしは、わたくし自身の気持ちにも鈍感だったようです。ロザンナは本当に仕方がない女でございます。
今ははっきりと判ります。完全に自覚してしまいました。わたくしはこの人が好きです。もう、この人なしでは生きられないとまで思っております。
「休憩しよう」
フォーリオ様は立ち止まられました。残念なことに手も離されてしまいました。
「なんだか嬉しそうですね」
ムフフ、フォーリオ様も幸せそうでございます。
「いや、何でもない」
もう隠すつもりがなくなったのか『魔法の袋』の中から水筒を取り出され、わたくしを労わるように手渡してくださいました。フォーリオ様は誤魔化されましたが、わたくしを見る愛おしそうなその目が、すべてを語っておりますよ。
「ありがとうございます」
水筒を受け取ったわたくしは、水筒に直接口をつけて水を飲みました。王都なら下品と叱られるかもしれませんが、わたくしはもう狩人の妻です。貴族の礼儀作法など知ったこっちゃありません。
「落ち着いたら、歩こう。少しでも距離を稼ぎたい。後ろにオークが見えたら、また走るからな」
振り返って、駆けて来た道を眺めてみましたが、オークの姿はどこにもありませんでした。諦めて引き返したのでしょうか。まあ、それはどうでも良いのですが、フォーリオ様は一人でスタスタと歩き始めてしまわれました。
わたくしは唖然とします。なぜ愛しいロザンナを置いて行かれるのでしょうか。
「どうした? 歩けないのか?」
振り返ったフォーリオ様が首を傾げておりました。
「手は? 手はもう、繋がないのですか?」
愛されていると判ってしまえば、わたくしも大胆になれます。
「……あれは火急の事態だったからだろ? 歩くのに手を繋ぐ必要はない」
またですか。わたくしは溜息をつきたくなりました。誰も見ていないのですから、恥ずかしがることなどありませんのに。これだからムッツリ童貞は……。ヤレヤレでございます。
「えっ……? 歩けません」
ですから、わたくし、フォーリオ様に助け船を出して差し上げるつもりで甘えてみました。
可愛いですか?
甘えるロザンナは可愛いですか?
もう一度――可愛い――と仰っても良いのですよ。
「なに?」
「手を繋いで戴かないと歩けません」
今度は、拗ねたような上目遣いです。お父様なら何でも買って下さるわたくしの必殺技でございます。これには、さすがのフォーリオ様も胸がキュンとしたに違いありません。
「なんだ、それは? 体に問題があるのか?」
またまた、そんな心配そうな顔をして。照れ隠しですか。
「いえ、心に問題があるのですわ。わたくしは秘密基地でスハダーニー・ハーネスにさせられ、とても傷つきました。もう立ち直れないかと思う程、傷ついたのです。あなた様の元を離れるのも、致し方ないとさえ、考えておりましたのよ」
「だから、すまん。悪かった」
フォーリオ様は頭を下げられました。そうでしょう、そうでしょう。わたくしが――離れるかもしれない――という悪夢のような現実に直面して、猛省していらっしゃる。そんなご様子です。
「とにかく歩きながら話そう」
「あっ、はい」
フォーリオ様は即座にわたくしの手を取って下さいました。素直で宜しくてよ。ここへ来てわたくし、はじめて恋愛的優位に立っております。男女間の主導権を握ってしまいましたわ。今のフォーリオ様はわたくしの思うがままです。
「わたくしのことを可愛いとおっしゃいましたが、どう可愛かったのか、お聞かせくださいませ」
いつまでもこの状態が続くとは限りません。恋の駆け引きとは、逆転に次ぐ逆転を繰り返しながら育んでいくものだと聞き及んでおります。今のうちに聞きたいことを訊いておきましょう。
「……」
「聞こえてますか? それは、わたくしのことを好きになったと、受け止めて宜しいのでしょうか? わたくしたちは出逢って、まだ四日しか経っておりません。けれど、不思議なんですが、わたくしも、あなた様が……」
いけません。わたくしの中で何か妙な衝動がムクムクと盛り上がって参りました。
「……」
「あ、あなた様が……、ああ、あなた様が……、あああ、あなた様が……」
フォーリオ様に出逢ってから、ここまでの名場面が脳裏に蘇ってきます。いろいろなことがありました。
「……」
「好きになってしまいましたわ」
――キャーー、言ってしまいましたわ。どうしましょう。愛の告白をしてしまいましたわ――どうしましょう。
「それは、たぶん違うぞ。今、アンタは髪喰い虫に寄生されて、ちょっと気持ちが弱っているだけだ。そこに偶々俺がいた。それだけだ。共に危険なことをしている状況を、恋のトキメキと錯覚しているだけなんだぞ。それはナントカ効果という、一種の病気なんだぞ」
しかしフォーリオ様はまだ現実を受け止めきれていないご様子です。困ったような顔をしていらっしゃいました。わたくし、少し気が急き過ぎていたでしょうか。
「えっ? そうなのですか?」
「そうだぞ。父が言ってた」
また父ですか……。ファザコンもいい加減にしてくださいませ。
「しかし、たとえ今の気持ちが錯覚であったとしても、婚約者であることに違いはありません。問題がすべて解決したら、やはりわたくしはあなた様と愛を育んでいきたいと考えておりますわ」
わたくしは少し冷静になって、事実だけを伝えることにしました。
「いや、すこし冷静になってくれ。アンタは貴族であり、俺は狩人だ。そもそもなんで俺が婚約者になっているんだ? アンタは王太子の婚約者だろ?」
もう、すっかり冷静ですけど……。
「いえいえ、それは誤解でございます。候補です。あくまで候補でございました。実を言いますと、王太子殿下の婚約者にさせられそうになっていたことは本当でございます。しかしわたくしは嫌でした。どうしましょう……と困っていたところに、ヒロインが颯爽と現れ、助けてくださったのでございます。その後は、国王陛下やお父様がいろいろと手はずを整えて下さり、元々、婚約者候補であったあなた様に、めでたく嫁ぐことになったというわけでございます」
「アンタの――実を言いますと――は、毎度、意味不明すぎて、よく判らない。俺は王様もアンタの父親も知らない。俺は結婚なんてするつもりないぞ。大体、なんで俺が知らないところで、婚約者が決まるんだ?」
「えっ? そうなのですか?」
「そうだぞ」
ん――?
「けれど、あなた様のサインが入った結婚承諾書を目にしておりますが……。その書類に、わたくしも同意のサインを致しましたので、まだ御神前での誓いを交わしておりませんが、書類上、わたくしたちはもう夫婦なんですのよ」
「いやいや、俺はサインなんてしてないからな」
「えっ……どういうことでしょうか。では、まさか……」
サインは代官の仕業でしょうか? 勇者リオ様は、ユレイブ領に関する書類の一切を代官に委託していたと冊子に書いてありましたので……。でも、婚約云々は個人のことです。そこまでするのは、さすがに越権ですわ。
ユレイブ領についての冊子を馬車の中で見た時も思ったのですが、勇者リオ様の死後、ユレイブの街はかなりおかしなことになっているようです。
お父様調べですが、人頭税がないはずのユレイブで住民から徴収された形跡があり、それが王都へ報告されておりません。またかなりの住民が街から流出してしまっているようです。奴隷などという前時代的な語句までありました。
これは代官程度がどうこう出来るようなことではありません。どうやら有力な貴族が裏で糸を引いているのではないかと、お父様の推測が書かれてありました。また、そこには――白――と何かを指し示すような隠語がありました。白と言えば――白い百合――を紋章花に持つリズブロン公爵家を指しているのだと思います。亡くなった前王太子妃殿下のご実家でございます。
狩人の妻になり、フォーリオ様と山小屋で暮らすのはやぶさかではございませんが、ユレイブの街のことは少し心配です。
「なんだか、アンタと話していると、頭が痛くなってくるよ。すでにアンタの脳内には、髪喰い虫が侵入している可能性があるな。だいぶ頭がおかしくなってる。山小屋へ急ごう。父が残した文献や論文の中に、アンタを助ける手段が見つかるかも知れない」
「えっ?」
それなのに、わたくし、フォーリオ様に心配されております。可哀想な女を見るような目はやめてくださいまし。
「大丈夫だ。俺が絶対に助けてやるからな。安心しろ」
そして突然、わたくしは、フォーリオ様に抱き寄せられ、その場に押し倒されてしまいました。なんだか、ちょっとだけ幸せを感じてしまいます。
「ア~ン、ダメです。こ、こんなところで~」
――ドゴーン――
何かが崖に衝突し、爆音が轟きました。バラバラと崖から粉砕された小石が落ちて来ました。
「投石器かよ……厄介だな……」
フォーリオ様が零されました。
その視線の先、川の対岸にはたくさんのオークがいました。




