59話 フェンリル
フェンリルは何か言いたげに俺を見ていた。それが何であるのか、俺は判っている。
普段なら、フェンリルの山に入れば、喜び勇んで駆け寄って来るはずのフェンリルが、出迎えに来なかったのもそれが理由だ。
髪喰い虫に侵されたロザンナをこのエリアに入れたことが気に入らないのだ。
「ウルフ⁉」
ロザンナもフェンリルの存在に気がついた。
――失礼な娘だねぇ。フェンリルだよぉ――
フェンリルが脳内に直接語りかけてくる。
このフェンリルは、子供の頃に俺が山小屋へ来た時の遊び相手だった。魔力のパスを繋いで遊んでいた仔フェンリルである。
ある日、俺が、父や母の目を盗んで、ひとりで魔獣エリアの東側へ入ろうとしたことがあった。別に何か用があったわけではない。たんなる好奇心だ。魔獣エリアの西側には父と共に何度か入ったことがあった。けれど山岳地帯に隣接する東側には――まだ早い――と連れて行ってくれなかったのである。
そして周囲を見渡し、誰もいないことを確認すると、俺は魔獣エリアの東側へ入る為のワイヤーロープを握った。
その時――そっちはダメだよぉ――と強い意思のようなものが背にぶつけられた。
見つかってしまったと思った俺は、体をビクリと震わせ振り返るが、そこには誰の姿もなく、ここまでずっとついて来ていた仔フェンリルがジッと俺を見ていた。
「……まさか、おまえなのか?」
勘違いかもしれない。半信半疑のまま俺は仔フェンリルに問い掛けた。
――そうだよぉ、フォーリオ――と返って来た時は、腰を抜かしそうになった。
魔物とのパスは一方通行だった。父や俺が発信した意思を魔物が受け入れるだけである。魔物からの意思は伝わってこない。それがこの仔フェンリルとは意思疎通が出来たのだ。
俺はトボトボと仔フェンリルに歩み寄ると、――どうだ!――という顔をした仔フェンリルを抱きしめた。
「凄いな、おまえ」
魔獣エリアの東側へ行くという目的も忘れ、俺は仔フェンリルと語り合った。言葉でさえ伝わらない気持ちや意思が純然と伝わっていくことが、その時の俺は猛烈に快感だった。
またこの仔フェンリルは、発信することを覚えただけに留まらず、魔力を糸のように細く延ばし、無接触でパスを繋ぐようになった。
無論、そんなことは父や俺にも出来ない。
また彼女の産んだ仔の何頭かは同じことをする。やはりフェンリルは神獣と言われるだけあって、特別な魔物なのかもしれない。
ただ、このことを俺は父に話さなかった。
またフェンリルには、父とパスを繋ぐことを禁じた。
父は優しい人だったが、好奇心を満たす為なら平気で残酷なことをしてしまうところがある。だから俺は、フェンリルが父から研究材料にされてしまうのではないかと恐れたのだ。
――フォーリオ、あんた、その娘をこの地へ入れるのかぁい?――
「あぁ、そうだ。この女、いやロザンナの治療をしなきゃならないからな」
――その娘は、もう……。さっさと魔獣のところにでも捨てておいでぇ――
「それは出来ないな。俺はロザンナを助けると決めた」
――なぜだぁい? なぜ、そんなモノを、この地に入れるんだぁい? その娘なら、竜王山の麓に、もっとお誂え向きの場所があるだぁろぅ――
「そんなことは知らん。とにかく、そこをどけ」
――どうしても通ると言うのならぁ、あんたでも噛み殺すよぉ――
フェンリルは身を低くして戦闘態勢をとる。
「ほう」
俺はニヤリと笑う。子供の頃を思い出したからだ。
そしてマッシュブルの革で作った厚手のグローブを装着する。これは傷つけたくない魔物や動物を相手にする時に使用するものだ。
それを見たフェンリルは長い牙を剥き出しにして、俺に向かって跳躍した。
俺はロザンナを後ろへ下がらせると、そのフェンリルの攻撃を躱し、脇腹に風を纏わせたパンチを繰り出す。
吹っ飛んだフェンリルだったが、回転してシュタリと降り立った。
――やるじゃないか。強くなったね。だけど、まだまだだね――
俺はフェンリルから体当たりを喰らって地べたを転がる。
「そんなことは言われなくても判ってる」
俺は即座に立ち上がると、風の魔法を纏ってフェンリルの側部へ回り込み、蹴りをお見舞いする。
フェンリルも――噛み殺す――などと言っておきながら、終始体当たりばかりを繰り返し、その鋭い牙や爪を使うつもりがないようだった。
――その娘はあんたの何なんだあぃ? どうして、そこまでするんだあぃ?――
「番だ」
その時、フェンリルの動きがピタリと止まった。
表情は判らないが、驚いていることは判った。
そしてマジマジと俺とロザンナを見ると、何も言わずそのまま踵を返して森の奥へ消えていった。
久しぶりにフェンリルと戦うのは楽しかった。互いに武器を使わないヌルい戦いだったが、さすがは竜種さえ恐れを成すフェンリルである。本気を出されたらまだまだ敵わないことを、俺は実感した。
よろけながら歩いていると「大丈夫ですか?」とロザンナが駆け寄って来た。これぞ仲間という感じがして心地よい。
フェンリルが立ち塞がっていた場所を過ぎると小さな森へ入った。
そしてすぐに丸太小屋が見えて来た。
ここまで来るとやはりホッとする。
山小屋があるクレーターの中に入るには、風の一族の古い結界を越えなければならない。一族の者が一緒でなければ、通過が許されないのだ。父は特別である。無理に入ろうとしても、大方、この辺りに引き戻されてしまう。
父や俺は、いつでも山小屋にいるわけではない。魔獣エリアに籠って狩りをしていることもある。だから、ビア姐とギルのおっさんが、待合場所として、ここに丸太を積み上げたのだ。
中には食堂兼リビングと屋根裏に寝室があった。一応、風呂とトイレもあり、食料の備蓄もしてある。
「丸太小屋だ」
「これが、そうなのですね……」
ロザンナはなぜか目を細め、感慨深そうに見入っていた。
丸太小屋の前まで来ると中から人の気配がした。ここまで来れたのだから、父の友人の誰かであろうが、一応、警戒だけはしておく。
そしてドアノブに手を伸ばした時――
「フォーリオ! 大変なことになった。ギルドにビアンカの討伐依頼が出されちまったよ」
丸太小屋から転がるように飛び出して来たのは、父の友人であり、冒険者で黒猫獣人のサザンのおっちゃんだった。
今話で【第2章 男は女を守ることを誓い山小屋をめざす A面】は終了です。




