1話 貴族の女
狩人は頻繁に森に籠る。長い時は四、五日、街に戻らないこともざらだ。日中は狩りをして、夜は森に点在する猟師小屋で身を潜め、夜明けたらまた狩りをする。そして肉が腐らないうちに街へ戻り、解体所で肉と毛皮に分けて市場に卸す。それを繰り返して過ごすのが一般的な狩人の暮らしだ。
ただ俺の場合、街へ戻ることなく雪解けから木枯らしが吹くまでの一年の大半を森深くにある山小屋に住んでいた。それが出来たのも、死んだ父が残してくれた『魔法の袋』のお陰だった。大きな屋敷一つ分の荷物が収納でき、しかもそのなかに入れている間は腐ることも痛むこともないという、とにかく便利なシロモノだ。
これは、森で道に迷っていたとある偉い貴族を助けて、そのお礼として貰ったものらしい。売れば金貨100枚は下らないとのことだが、そもそも父の大事な形見であり、手放すつもりはない。
そして今、俺は、初雪がちらつき始めた山小屋から降りて、街へ戻る最中だった。行程としてはほぼ中間であるクスノキの巨木、その根に腰掛けて焚火をしていた。
冬を山小屋で暮せないわけではなかった。けれど――冬は街で過ごすこと――それが父が死んだ後、俺の保護者となった父の友人だちとの約束だったからだ。
辺りは薄闇に包まれていた。当然、周囲に魔物除けの香を焚き、虫除けのオイルを撒いた。万全とは言えないが、これで仮眠をとるのに問題はないはずだった。ここまでして寝込みを襲われたなら、運が悪かったと思うしかない。それが狩人の生き方なのだ。
そんな時、繁みからガサゴソと小さな音が聴こえた。
香を焚いているからには魔物でないはずである。
「誰だ!」
俺は、鋭く誰何すると、手元にあったナイフを抜いた。
藪の中からゆっくりと手をあげて立ち上がったのは若い女だった。
歳の頃は17、8と言ったところだろうか。かなり汚れているようだが、着ている服は如何にも高価そうなドレスであり、髪も金髪で、顔立ちも整っていた。
典型的なお貴族様である。
「そこで何をしている?」
俺はゆっくり立ち上がって女へナイフを向けた。
「じ、じつは、あの、えっと、助けてくださいませんか?」
女は声を震わせながら、たどたどしく言うと、両手を挙げて藪の中から一歩前に出た。
「……」
俺はまだ警戒を解かない。ナイフは構えたままだ。
「こちらから良い匂いがしましたので、つい引き寄せられて来てしまったのです」
女は手を挙げたまま少し恥ずかしそうに俯く。
「アンタ、お貴族さまだろ? こんな森の中で何をしているんだ?」
俺は女を見て問い質す。
「はい。わたくしはサグランティーノ侯爵家の長女、ロザンナと申します。父の使いで、王都からユレイブの街へ行く途中の街道で、盗賊に襲われてしまいました」
サグランティーノ侯爵令嬢は口惜しげに顔を歪めた。
俺はナイフを振って、話の続きを促す。
「えっ、あ、はい。それで、わたくしだけが殺されずに捕まったのですが、隙をついて逃げ出すことが出来たのです。ただ……どれだけ歩いても一向に街へ辿り着くことが出来ず……」
「盗賊のアジトはここから南だ。ユレイブの街はもっと南だ。アンタ、反対に歩いてきているぞ」
女は手を口に当てて愕然としていた。さすがはお貴族様だ。街の女なら「ええっ⁉」などと声を上げていたことだろう。
「そ、それで、大変申し上げにくいのですが……。今日で森を彷徨って三日目になります。これまで水と、森で見つけた果実を齧ったくらいで……。その……お肉というか、何と言いますか、食事らしい物を何も口にしておりません。少々で構いませんので、分けて頂けないかと。それから、もし良ければ街までご案内頂ければと……」
俺は女を観察する。
焚火の上にある鉄串に刺さったうさぎの肉に、女の目は釘付けであり、生唾を何度も飲み込んでいた。確かによほど腹が減っている様子だ。
しかし貴族という立場をカサにきて、無理に俺から肉を奪おうという気はないらしい。黙って俺の返事を待っている。
おそらく盗賊に襲われたというのは嘘ではないだろう。距離と日数からして、逃げ出して来たというのも納得がいく。
魔物が化けているという線も考えられたが、この辺りに、人に化けれる程、高位の魔物がいるという話は聞いたことがない。
それに例え、どんな強力な魔物であったとしても魔物除けの香は不快なはずであり、涎を垂らさんばかりの、あんな呆けた顔が出来るはずもなかった。
「あっ、もちろんお金はお支払い致します。街へ戻ったら、必ず貴方が満足頂ける額をサグランティーノ侯爵家の名にかけてお約束いたしますので、どうか、その、是非に……」
俺が黙考していると、女は何を勘違いしたのか、慌てて報酬の話を始めた。
森や山で困った時、狩人は対価を求めず助け合うことが不文律となっている。お互い様ということだ。
父が貴族から『魔法の袋』を貰った時も、金貨を押し付けられそうになったらしい。断る父に、――では、せめてこれを――と渡されたのが『魔法の袋』だったそうだ。
一見して小汚い袋であり、まあ、これぐらいなら良いだろうと、貰ったそれが、大きな屋敷一つ分の容量を持つ『魔法の袋』だったのだ。
慌てた父は、返そうと貴族の元へ向かったが、すでに街をたった後であり、もはや有難く戴くしかなかったそうである。
ただ、この『魔法の袋』が、父の、そしてそれを受け継いだ俺の、狩人人生を豊かにしてくれたのは間違いない。
「わかった。なら、こっちへ来な」
俺はナイフをおろした。