40
第40話「因縁の再会」
ギルドの片隅。
午後の陽射しが窓から差し込み、埃が金色に踊る静かな時間。
カナと聖女は、隅のテーブルを挟んで向かい合っていた。机の上には、例のTL本が広げられている。
「でね、この騎士がさ、『私が守る』って言うシーンがもう!」
「ええ。あの筋肉の描き込みは、確かに研究価値があります」
「でしょ! あとこのページの指の重なり方! 見て、ここ!」
「なるほど……これは……確かに、関節の表現が細密ですね」
二人はTL本を囲み、すっかり盛り上がっていた。数日前まで「TLキラー」などと呼ばれ、あの見開きキスシーンを「即解除」と斬り捨てていた聖女が、今ではページをめくるたびに感想を口にする。変わりようが著しい。
「あんた、最初は『興味ありません』とか言ってたのにねえ」
「……研究です」
「はいはい」
カナは笑って紅茶を一口含んだ。平和な午後だった。
——その時だった。
「そういえば、コウタは?」
カナが、何気なく尋ねた。ギルドの中を見渡しても、あのぼさぼさ頭は見当たらない。
「今日は採取依頼で、森に行ってるそうですよ」
「……また森?」
カナの顔が、少し曇る。前回は装備を忘れてコボルトと素手で殴り合い、全身包帯まみれになって帰ってきた。学習したとはいえ、今日は本当に大丈夫なのか。
「大丈夫でしょうか。あの人は、よく無茶をしますから」
「……まあ、あのバカのことだから、大丈夫……でしょ」
カナは平静を装って答えた。鎧も剣もテンフィート棒も持っている。それに、今日はただの薬草採取だ。
でも、彼女の心の中は、少しざわついていた。
森の中。
木漏れ日が心地よく、遠くで小鳥がさえずっている。コウタは背中の籠にいくつかの薬草を入れながら、いつものようにのんびりと歩いていた。
「今日も平和だなあ」
彼は空を見上げ、雲の形を眺めながら、軽い足取りで進む。
——その時だった。
「…………」
前方の茂みが、サワサワと揺れた。風ではない。意思を持った動きだ。
コウタの足が止まる。
茂みから現れたのは、一匹のメスゴブリンだった。
体は小さく、痩せ細っている。手には武器もなく、着ているものもボロ布だけだ。その肌は土と泥にまみれ、あばらが浮いている。だが——その目は必死だった。何かに追われている者の目だ。
「……ゴブリン?」
コウタは、警戒して『安物』の剣を構えた。背中にずしりと『愛羅舞叶』の鎧の重みを感じる。今日は装備を忘れていない。
メスゴブリンも、コウタを見て固まった。小さく震えながら、逃げることも戦うこともできず、ただ立ちすくんでいる。
でも、彼女は襲いかかってこない。牙を剥くでもなく、唸るでもない。今まで戦ってきたゴブリンはすべて、出会った瞬間に襲いかかってきた。しかし、このメスゴブリンは違う。
「……襲ってこないのか?」
コウタは、少し戸惑いながらも剣を下ろした。
「……お前、どうしたんだ?」
メスゴブリンは、何かを訴えるように、後ろの茂みを振り返った。
その時、茂みの奥から、別の気配がした。
ドスン、ドスン、という重い足音。複数だ。低く荒い呼吸も聞こえる。
「な、なんだ?」
枝をかき分けて現れたのは——コボルトの群れだった。五匹。いずれも痩せているが、その目はギラつき、手には錆びた刃物や棍棒が握られている。彼らは明らかに、このメスゴブリンを追ってきていた。
「グギャッ!」
メスゴブリンは、恐怖に全身を震わせた。逃げ場はない。
コウタは状況を理解した。
(このメスゴブリン、群れから追われてるのか。それで、こんなに痩せ細って——)
コボルトたちは、コウタとメスゴブリンの二人を見て、ニヤリと嗤った。
「グギャギャ!」
獲物が増えた。そう言わんばかりに、彼らは笑い声を上げる。
コウタは、剣を握りしめた。指が白くなる。
(逃げるべきか。でも——このメスゴブリンを置いてはいけない)
(戦うか? 五匹は厳しい。でも——装備はある)
彼は、一瞬だけ迷った。
そして——。
「こっちだ!」
コウタは、メスゴブリンの手を掴んで走り出した。迷っている暇はなかった。
「はあ、はあ、はあ……!」
コウタは必死に走る。背中の鎧が重い。息が切れる。
後ろから、コボルトたちの足音と甲高い笑い声が迫る。四本足の獣相手に、二本足の人間が長く逃げ切れるはずがない。
メスゴブリンも必死に走る。だが、彼女の細い足はもう限界だった。呼吸は乱れ、足元がおぼつかない。
「……っ!」
彼女が、木の根に躓いて転びかける。
コウタはとっさに振り返り、彼女の細い腕を支えた。
「大丈夫か!」
メスゴブリンは、驚いたようにコウタを見上げた。
その目には、まだ恐怖があった。当然だ。人間もまた、ゴブリンにとっては敵である。
でも——それだけではなかった。
(この人間は、なぜ自分を助けるのか)
彼女の目に、ほんのわずかな信頼の光が混ざった。
しかし、その一瞬の停滞が彼らを追い詰めた。
「グギャッ!」
五匹のコボルトが、二人を扇形に取り囲む。逃げ道は塞がれた。
「……ちっ」
コウタは、メスゴブリンを背中に庇いながら、剣を正眼に構えた。今日は装備がある。鎧も剣も、そして背中にはテンフィート棒も。いつもの自分よりは、ずっと戦える。
(やるしかない)
メスゴブリンも、震えながらも、小さな石を拾って戦う構えを見せる。弱々しい。でも、生きようとしている。
——その時だった。
「ギィィィィッ!」
森を劈く叫び声。
コウタは目を見開いた。聞き覚えがある。この声を、俺は知っている——。
コボルトたちも、その叫びに動きを止めた。
そして、茂みを突き破って現れたのは——。
一匹のゴブリン。
右耳が半分千切れている。その目はギラギラと燃え、全身に無数の古い傷跡が刻まれている。皮膚は引きつれ、ところどころ毛が抜け落ちているが、その体躯は鋼のように鍛え上げられていた。
「お前……!」
コウタの声が、自然と漏れた。
それは、かつて何度も戦い、そして互いに傷を残し合った、あの「強いゴブリン」だった。一角ウサギにも負けていた頃の自分を嘲笑うかのように現れ、打ちのめしてきた宿敵。名も知らぬ、だが決して忘れられない——因縁の相手。
ゴブリンは、その場に立ち、一瞬で状況を把握した。
彼の目が、まずメスゴブリンを見る。その視線が、ほんのわずかに和らいだ——ように見えた。
次に、コウタを見る。目が合った。その瞳の奥に、敵意だけではない何かが揺らめく。懐かしさとも、警戒とも、共感ともつかない複雑な色。
そして最後に、コボルトたちを見る。その瞬間、彼の目からすべての感情が消え、ただ冷酷な殺意だけが残った。
「…………」
次の瞬間、彼は動いた。疾風。
「ギィッ!」
一匹目のコボルトの喉元を、爪が切り裂く。返す刃で二匹目の脇腹を抉る。三匹目が棍棒を振り上げるより早く、彼の蹴りがその頭蓋を砕いていた。
一撃。二撃。三撃。
まったく無駄のない、洗練された動きだった。
コボルトたちは為す術もなく地に伏していく。呻き声すら短い。残った二匹が、怯えて後退する。先ほどまでの余裕は微塵もない。
強い。
残った二匹のコボルトは、互いに顔を見合わせると、一目散に森の奥へと逃げ去っていった。追うまでもない。
ゴブリンは、その隙にメスゴブリンの前に立った。その立ち姿はまるで、これから何が来ようとも彼女を守るという決意の盾だった。
彼は、コウタを一瞥した。
その目が語る。
(——こいつが、俺のメスを助けたのか)
言葉は通じない。種族も違う。敵同士だ。
でも、その目は確かにそう語っていた。感謝と、誇りと、そして——。
ゴブリンは、メスゴブリンを自分の背中に隠すようにして、コウタに向き直った。メスゴブリンは、彼の背中にしがみつきながら、震えている。だがその震えはもう、恐怖だけの震えではなかった。
コウタは、その光景を黙って見つめ、そして何かを深く理解した。
「……こいつ、お前の——」
ゴブリンは何も言わない。言えるはずがない。
でも、その立ち姿が、すべてを語っていた。
(俺が守る)
(このメスを——俺の、すべてを懸けて)
背中に隠したメスゴブリンを庇うその姿勢。ギラつく目に宿った決死の覚悟。それは、コウタがカナに鎧を着せられて初めて知った、守りたい者のために立つ者の姿だった。
コウタは、ゆっくりと剣を構えた。口元に、静かな笑みが浮かぶ。
「……また、お前と戦えるなんてな!」
彼の声が、森に響く。そこに迷いはなかった。敵として。好敵手として。互いに背負うものがある者同士として。
ゴブリンの目が、ギラギラと燃え上がる。牙を剥き、咆哮を上げた。
その時——。
コウタの背中の『愛羅舞叶』が、深紅に輝き始めた。鎧全体が脈打つように光を放ち、背中の金色の刺繍が灼熱のように燃え上がる。
手の中の『安物』が、白銀の光を放つ。刀身に刻まれた太い文字が、内側から打ち破られんばかりに震え、隠された聖剣の輝きが漏れ出す。
「な、なんだ……!」
鎧が、剣が、呼応している。目の前の強敵に。そして、コウタの心に。
ゴブリンもまた、全身から異様な気配を放ち始めた。それは怒りでも魔力でもない——ただ、守るための意思の塊だった。
メスゴブリンを守るために。
そして、この人間と、雌雄を決するために。
「ギィィィィッ!」
ゴブリンの咆哮が、森中に轟き渡る。鳥が一斉に飛び立ち、木々が震えた。
「うおおおおおっ!」
コウタが、ゴブリンに向かって突っ込む。地面を蹴る足が土を抉り、深紅のオーラが尾を引く。
ゴブリンも、コウタに向かって飛びかかる。大地を割るような踏み込みで、爪を振りかざして。
拳と剣が激突する。
——ドォンッ!!!
衝撃波が、周囲の木々を根こそぎなぎ倒した。砕けた枝と舞い上がる落ち葉。地面が陥没し、空気が悲鳴を上げる。
メスゴブリンは、その場に立ちすくんでいた。目を見開き、ただ二つの力の衝突を見つめている。
二つの力がぶつかり合う。
深紅のオーラと白銀の光が渦を巻き、混ざり合い、膨れ上がる。
その瞬間——。
ドォォォォンッ!!!
剣と爪がぶつかった一点から、信じられないほどの光が全方位に放たれた。白銀と深紅が螺旋を描きながら森全体を包み込む閃光。昼間の太陽すらかき消すほどの輝きが、すべてを白く塗りつぶす。
あまりの眩しさに、コウタは目を開けていられない。網膜が焼かれる。
ゴブリンも同じだ。
光がすべてを支配する中、二人の拳はまだ触れ合っていた。力と力。意思と意思。
でも、ゴブリンには、守るべき者がいた。
(——メスが……!)
光の中、彼は無理に体を捻った。光に焼かれながら、眼を閉じたまま、記憶と本能だけで方向を定める。メスゴブリンのいる場所へ。
「ギッ!」
光の中で、震えているメスゴブリンの小さな体を抱きかかえる。
そのまま、背中を向けた。光の炸裂に、自分の背中を盾にするように。
「ギィ……!」
ゴブリンの背中が、白銀と深紅の光に焼かれる。皮膚が焦げ、古傷が開き、灼熱が骨まで達する。
それでも——彼は離さない。腕の力を緩めない。
(守る)
(このメスだけは——)
(たとえ、この身が燃え尽きても)
光が収まったとき、ゴブリンはすでに森の奥へと駆け出していた。メスゴブリンを胸に抱えたまま、振り返らずに。ボロボロの背中からは煙が上がり、所々がまだ赤く燻っている。だが、その足取りに迷いはなかった。
「ま、待て!」
コウタが叫ぶ。だが、ゴブリンは止まらない。振り返りもしない。
全力で、逃げる。
いや、違う。
逃げるのではない——守るために、生きるために、走るのだ。
傷つき、焦げ、血を流しながら。
それでも、彼は背中で、腕の中で、自分のすべてを守っていた。
「……はあ、はあ、はあ……」
コウタは、その場に膝をついた。剣を杖代わりに地面に突き立て、肩で息をする。
全身が痛い。鎧越しでもわかるほどの衝撃の残滓。力が入らない。手はまだ震えている。
(……やっぱり、すげえな、あのゴブリン)
(強さも——覚悟も)
彼は、逃げていくゴブリンの背中を、滲む視界で追い続けていた。小さくなっていく二つの影。やがて、森の闇に溶けて見えなくなる。
「……お前にも、守りたいものがいるんだな」
コウタは、誰にともなく呟いた。その声は、風に溶けて消えた。
その頃、ギルドの片隅。
カナと聖女は、まだTL談義に花を咲かせていた。机には追加の菓子と、二杯目のお代わりの紅茶が並んでいる。
「だから、このページの筋肉の描き込みが——大腿二頭筋のラインが絶妙で、しかもこの陰影——」
「ええ。確かに、これは高い研究価値があります。解剖学的に見ても、非常に正確というか——」
「でしょ!」
——その時だった。
遠くで、微かに光が走ったような気がした。窓ガラスがかすかに震え、置いてあったティースプーンがカタリと音を立てる。
「…………?」
聖女が、窓の外を見た。森の方角だ。その目が、わずかに細められる。
「どうしたの?」
「いえ、何か光ったような……それに、かすかに魔力の波動も」
「気のせいでしょ。どうせまた、どっかの冒険者が派手に魔法をぶっ放しただけよ」
「……そうですね」
聖女は、少しの間だけ窓の外を見つめていたが、やがてTL本に視線を戻した。
——彼女たちは、まだ知らない。
森の中で、とんでもない戦いが起きていたことを。
コウタが、因縁の相手と再会していたことを。
そして、ゴブリンにも——守る者がいるということを。
夜。
その夜、コウタはよろよろと宿屋に戻ってきた。扉を開ける手にも力が入らない。
「ただいま……」
全身傷だらけ。服はボロボロ。鎧には無数の傷が新しく刻まれ、ところどころが焦げている。顔には泥がつき、髪には落ち葉が絡まっていた。
でも——なぜか、満足そうな顔をしている。晴れやかですらあった。
「コウタ!」
「コウタさん!」
カナと聖女が、ほぼ同時に駆け寄る。二人とも、彼が戻るまでギルドで待っていたのだろう。カナの顔には安堵と怒りが半々に浮かび、聖女は無表情ながらもその目に稀に見る動揺があった。
「何があったの!? その傷! 鎧までこんなに!」
「……ゴブリンと戦った」
「は?」
「すごく強いゴブリン。前に何度か戦ったやつで、今日はその——」
「…………は?」
カナの顔が、呆れた表情に変わる。安堵が引き、代わりにじわじわと怒りが勝ち始める。
「ゴブリン?」
「そう。すごく強いんだ! 俺の本気を受け止めて、それで——」
「…………」
カナは、コウタの全身をまじまじと見た。泥と血にまみれ、ボロボロの服。鎧に刻まれた新しい傷跡。そして——その顔に浮かんだ、不思議な充実感。
「……あんた、ゴブリンごときに、こんなにボロボロになったの? しかも今度は装備全部あったのに?」
「だから、すごく強いゴブリンなんだって!」
「この街に来てから、あんたがゴブリンと戦ったの、もう何度目よ」
「それが、その、全部同じゴブリンで——」
「はいはい」
カナは、深く深くため息をついた。呆れと、心配と——そして少しの、隠しきれない安堵。
「とにかく、早く手当てしなさい。こんなの、薬草がいくらあっても足りないわ」
「うん。ごめん、カナ。聖女様も、心配かけてすみません」
「……いえ。コウタさんの無事が何よりです」
コウタは、ふらつく足で部屋へと入っていった。
カナは、その後ろ姿を見送りながら、呆れたように——でも、どこか優しい声で——呟いた。
「……ゴブリンごときに、何やってんのよ、あのバカ」
(——でも、なんでそんなに嬉しそうな顔してるんだか)
聖女は、無言でコウタの背中を見つめていた。鎧に刻まれた新しい傷跡。あれはただのゴブリンがつけられる傷ではない。それに——鎧から、かすかに残る深紅の反応。
(……何かあった。今日、森で)
彼女は、窓の外——月明かりに照らされた、静かな森の方角を見つめた。手にしたTL本を閉じ、胸の前でそっと握る。
聖女の部屋。
自室に戻った聖女は、机の前に座り、TL本を開いていた。ページは「騎士が傷つきながらも誰かを守り抜く」章。
「……研究です」
(——今日のあの光。遠くからでもわかる、聖剣に似た波動)
(——でも、それが何かはまだ)
(それに、強いゴブリン。コウタさんの話では、前にも何度か戦っている——)
彼女は、窓の外を見た。
月が、静かに輝いていた。森を銀色に照らし出す、大きな満月。
誰も、真実を知らない。
強いゴブリンの存在を。
彼が背中に守ったもののことを。
そして、二つの力が衝突した時に見せた、深紅と白銀の光が何を意味するのかを。
知るのは——ただ、あの森だけだ。
今夜の月明かりは、傷ついたゴブリンとそのメスが身を潜める、森のどこかの洞窟をも、等しく照らしている。彼は背中の火傷に耐えながら、メスゴブリンの無事を確認し、静かに目を閉じるだろう。
コウタは自分の部屋で、新しい傷に顔をしかめながらも、口元に笑みを浮かべて眠りにつくだろう。
そして、そのどちらも知らないカナと聖女は——それぞれの胸に小さな疑問を抱えたまま、長い夜を過ごすのだ。
今日の教訓:守るべき者のために立つ時、その背中は誰よりも強く、誰よりも傷つきやすい。それを知る者は——特別に、強い。




