君のとなりにいるために
エレオノール・ド・クロワザンが辺境伯レオン・ド・ヴィラールの婚約者となったと発表されたその日から、彼女の生活は劇的に変わった。
名前のない一介の侍女から、突如 『クロワザン侯爵令嬢』そして『辺境伯の婚約者』としての立場を与えられ、貴族の世界へと引き戻されたのだ。
部屋に運び込まれる贈り物の数々、貴族夫人たちから届く茶会の招待状、次々と訪れる知らぬ貴族たちからの挨拶。
元は貴族だったとはいえ、この華々しさは未体験だ。さすがは国内でも屈指の大貴族である辺境伯との縁だといえた。
辺境伯の元に滞在中の婚約者として、立場にふさわしい新しい部屋も与えられた。
邸内の使用人達に対しては、田舎貴族の娘であるノノが辺境伯の婚約者として中央貴族の仲間入りをするにあたって恥ずかしくないように、侍女として学んでいたという形で家令や侍女頭から説明がなされた。
侍女仲間で仲良くなっていたサラなどを筆頭に、知らなかったとはいえ主人の婚約者に対して馴れ馴れしくして無礼を働いてしまったのではないかと心配している声があると聞いて、ノノは邸内で挨拶をする場を設けてもらって彼らに頭を下げた。
「私が至らぬばかりに、使用人として館に入るという異例のことになり、みなさまには迷惑をおかけしました」
思ってもない謝罪の言葉に使用人達が顔を見合わせる。その動揺をおさめるようにノノは穏やかに続けた。
「私はあくまで使用人としてお世話になっていたのですから、その間のことを気詰まりには思わないでくださいませ」
あらかじめ話してあった家令や侍女頭以外の人々は慌てたように声をあげた。
「そんな! エレオノール様、どうぞお顔をお上げください」
田舎貴族という触れ込みと、実際に侍女として勤めていた事実、それに率直な謝意のお陰でノノは大事な主人の婚約者として無事に受け入れてもらうことができた。
使用人たちから親しみやすさを持ってもらえたのは、急に多忙になったノノにとっては、積極的な支えを得られて助かったほどだ。
ちなみに『クロワザン』という家名については、ノノも初耳で困惑するしかなかったのだが、レオンはしっかりと時間をとって、そのあたりのことも丁寧に説明してくれた。
「クロワザン家は昔、ヴィラール家から分家した家系なんだ。侯爵位を持ち、領地はない。ヴィーニュ=ドールの端に館を構えている」
「そうなんですね…。お名前を存じ上げなくて…」
「いや、無理もない。あの家はほとんど名を知られていないから」
地図でクロワザン家の館がある位置を示しつつ、レオンは彼らが辺境伯領から出ることがないから外部に名を知られる機会もないのだと解説した。
「今の当主夫妻には子供がなくてね。そこを、彼らに頼んで一人娘がいたということにしてもらったんだ。口裏を合わせてもらっているので、君の身元はそれで保証される」
田舎の貴族で、領地に引きこもっている——
その点で、クロワザン家にはノノが生まれたベルトラン家と共通する部分が多かった。
ベルトラン家も歴史ある名家であり、辺境伯と婚姻を結べるだけの家柄である一方で、領地が中央から遠いために、普段はほかの貴族達との接点がほとんどなかった。
だからこそ、侯爵家の一人娘である彼女がベルトラン家を離れてバルボーの義娘となり、貴族の館に商人として出入りするようになったときにも、顔が知られておらず問題が起きなかったのだ。
まさか再びエレオノールという名前に、それも辺境伯の婚約者という立場に戻ることになるとは、運命というものにただ驚くばかりだった。
レオンは、ノノが商人の娘であると思っているので、貴族としての礼儀作法の教師として信頼できる旧知の貴婦人を呼び寄せてくれた。
いくら外界を知らぬ田舎貴族の娘という設定とはいえ、辺境伯の婚約者として外に出したときに恥をかくようなことがあってはならないからだ。
ヴィラールの縁戚で、公爵である夫を亡くした未亡人と紹介された老婦人は、『辺境伯の頼みで貴族として振る舞わなければいけなくなった商人の娘』という立場のノノにとても優しく接してくれた。
「ヴィラール公のお相手ともなれば、自然と周囲の目は厳しくなるでしょう。大変ですけれども、頑張って頂戴ね」
「はい…覚悟しております」
大急ぎで作法を学び直すことになったノノは嘘に嘘を重ねる心苦しさを感じつつも、辺境伯の隣にいられるだけの気品を身につけていった。優しい老婦人はノノの覚えの良さにすぐに太鼓判を押してくれた。
ノノは内心、自分がまだ貴族と思ってもらえるだけの振る舞いを覚えていたことに安堵した。
一方、婚約が発表された後、ヴィーニュ=ドール領内は祝賀ムードに包まれていた。
「辺境伯様は、婚約者が亡くなってからずっと元気がなかったと聞いていたけど、やっと立ち直られたんだろうね」
「侯爵のご令嬢も素敵な方だと聞いているし、領主様のお幸せを願わずにはいられないよ」
庶民たちは、領主レオンの心が前向きになったことに安堵し、彼らの支えるべき大切な存在として祝福の言葉を惜しまなかった。
■
今日もまた何通も届けられた手紙を部屋で読んでいたときのこと。
封筒に見慣れた署名をみつけてノノは目を瞠り、慌ててそれを開封した。
義兄アルフォンスからの手紙は辺境伯の婚約者宛と見せかけて書かれていたが、急な環境の変化に戸惑っているのではないかと気遣う内容は、間違いなく義妹であるノノに宛てたものになっていた。
義兄には、あれから幾度か手紙を送っているが、エレオノールという名の婚約者になったという話については、贋金の件も絡むため手紙で説明することが出来ず、ここしばらくは文のやりとりが絶えていた。
だからきっと連絡がなくなったことで懸念を深めたのだろう。最後に綴られていた、『今晩訪ねていく。灯りを持って庭にて待て』という強引な言葉にノノは不安を抱きつつ、ひそかに手紙をしまいこんだ。
深夜、ノノは手燭ひとつを持って屋敷の庭の隅で義兄を待った。領内の治安が良いこともあって辺境伯の邸宅も現在は格段の防護はされていない。さすがに館に入る玄関付近には見張りが立つが、広大な庭のすべてを見回るようなことはなく、義兄はそれを分かっていて庭での接触を指定してきたのだろう。
少しして、ひっそりと現れたアルフォンスは灯りを持たず長い外套を羽織り、周囲に気を配りながら静かに近づいてくる。
「ノノ!」
誰もいないと確かめて小走りに近づいてきた彼は、ノノの手を取った。
声には彼の深い心配と愛情が宿っている。彼の手を握り返してノノは微笑んだ。
「義兄さん。私は大丈夫」
思えば自分はいつもこの義兄を心配させてばかりいるのだと、ちくりと胸が痛む。
アルフォンスは声を抑えて低く囁いた。
「今すぐ逃げるぞ」
彼の顔には隠しきれない焦りが滲んでいた。もちろんその焦燥には理由がある。
「婚約者だなんて一体なにがどうなってる? 死を偽るだけでも罪なのに、他家の名前を使うなんて重罪だ」
「それは…」
「あの辺境伯のせいでお前が罪を重ねる形になってしまった。ここにいたら駄目だ」
アルフォンスが言った通り、他家の名を使って身分を偽る行為は罪になる。彼が混乱し、慌てるのももっともだった。
ノノは贋金のことを伏せつつ、どうにか事情を説明できないかと考えていたのだが、彼はノノに口を開かせなかった。
「行こう、ノノ」
握られた手にぎゅっと力を込めて、アルフォンスは真剣そのものの表情で義妹の瞳を見つめる。
初めて見るような彼の激情のこもった眼差しにノノはたじろいだ。
そして彼はこれまで秘めてきた想いをとうとう口にしたのだった。
「君を、愛してるんだ」




