第2話 氷の彫像
遙か東の地の果ての、絶海にのんびりと浮かぶ島。
ほとんどを山と森に覆われた、茶と物語の名産地に生まれた都は、にわかにざわついていた。
「それがよぉ、親王殿下が突然戻ってきたんだよ!」
「はああ? てめぇ昼間から酒かっくらっていよいよイカレちまったのか。殿下は逃げたんだろォ?」
「だぁーから戻ってきたんだよ! しかもえれぇ別嬪連れだぜ。オレっちの勘じゃ、ありゃ『女』だ」
「はあああ? てめぇがモテねえからって幻覚たあ驚いたな!」
「ぁンだとテメェ!」
「やんのかコラァ!」
酔っぱらいに行商人、役者、娼妓と、大通りには人があふれていた。皆は一様にあることについて騒いでいる。
ことの発端はこうだ。この地を治めていた「炎帝」が心を病んで以来、政務を一手に引き受けていた弟君が、突如行方をくらました。それも脱走同然で、供すら連れずに夜中に都を抜け出したという。
皇族として、皇帝陛下の代理として、あってはならないことだった。側仕えの若者は首をくくらんばかりに嘆き、主が戻らなければ自分も死ぬ! と言って聞かず、屋敷の女官頭に一喝される始末。大臣たちは万一に備えあれやこれやと話し合い、かと言ってろくな成果も出ず、しょぼくれて解散するばかり。
その他大勢の女官は手垢と尾ひれがついた話を楽しみ、「妻を娶れとの声に嫌気がさし、男と一緒に駆け落ちした」という噂まで流していた。
左様、炎帝陛下の弟君は、老若も美醜も問わず女人に興味を示さないことで知られている。
その弟君が、娘か、少年か。
男の服を着た何者かと一緒に帰ってきたのだ。
「お願いでございます、お願いでございます! どうかお引き取りを、そっとして差し上げてくださいまし!」
弟君の屋敷の前、人だかりをさばいているのは側仕えの若者・葉。なよやかな、宮廷劇団の女形であった彼は、主の帰還に涙を流して喜んでいた。涙目になり野次馬の相手をしている様は実に健気だ。
「あの子は誰なの? 男? 女?」
「殿下の駆け落ち相手というのは本当か?」
「違いますッ! 殿下は陛下をお助けするため都を出たのです! 色恋などではありません!」
今なお舞台の張りを保つ声は、屋敷の奥、浴室まで届いていた。
「葉さん……大丈夫、でしょうか」
「大丈夫、大丈夫。吹けば飛びそうな葉っぱには良い機会ですよ」
女官に湯浴みをさせてもらっていた注目の的・烏龍が心配そうに漏らす。快活そのものの声できっぱり言ってのけたのは、屋敷の女官頭・木蘭だ。
と、言っても女官は彼女しかおらず、常に屋敷で仕えているのは彼女と葉の二人だけだという。花びらを浮かべた湯に白磁の肌を撫でられながら、屋敷の二人目の娘は戸惑うばかりだった。
「もう驚いてしまいましたよ。殿下が美しい女人を連れていらした、それだけでなく烏龍様は『お茶の精』。あたしも葉もどれだけ待ちわびたことか」
「待ちわびた……?」
「お茶の精を見つけ、陛下の病を治して差し上げることが、殿下の悲願。国中の茶園という茶園、時に険しい山奥にも岩山にも入り、『お茶の精』をずっと探していらしたのです」
烏龍の裸体を丁寧に拭きながら、木蘭は言った。恐縮にさわさわと揺れる茶の葉の耳も拭いながら。その感触に初めて誰かと過ごした夜を思い出す。
朝、快復した人間の男と共に山奥から出た烏龍は、馬上で彼の身上を打ち明けられた。
「皇帝」の弟。「親王」という皇族の位を持ち、長らく病に伏している皇帝の代わりとして政務についていること。皆は麗親王と呼ぶが、屋敷にいるときはまことの名で――――耀青と呼んでくれて構わないということ。
烏龍を都へ連れてゆくのは、「炎帝」と呼ばれる皇帝陛下の病気を治すため、力を貸して欲しいからだということも。
二人きりの旅路は気楽なものだったが、都のきらびやかな気配は、烏龍をひどく緊張させた。男か女かと聞こえるたび、耀青の外套を被った下でびくついていたものだ。もし、人ですらないと知られたら、と。
その烏龍に耀青は言った。
――――安心して。
屋敷では、彼の言葉の通りだった。
「…………緊張、してしまいますよね」
肌着を着せつけてくれた木蘭が、烏龍の、耳に触れた。椿の葉にも似てつやつやとした表面を、少し荒れた指先が撫でる。
「あたしだったら間違いなく逃げ出します。だって、どこの誰かも分からない男のチカラになれだなんて、冗談じゃないって思いますもの」
「どこの誰かも分からない、男?」
「そう。相手が皇帝だろうが親王だろうが、神だろうが、好きでもない男に請われるのはまっぴら御免です」
「好きでもない、男……」
烏龍はつぶやいてから頬を染めた。自分の声が聞いたこともないような色をしていたからだ。木蘭はふと指を止め烏龍を見つめる。
「殿下は、無理強いをする方ではありません。お嫌でしたら遠慮せず仰ってくださいね。……特に、これから皇宮で、陛下のお傍で過ごす日々は、色々と苦労が絶えないことでしょうから」
耀青曰く明朗快活、男勝り、竹を割ったような女人・木蘭。その彼女が今、夜に見上げた星空のような顔で烏龍を見つめている。
まるで、月の傍に仕えつつ、見守ってくれるかのように。
「木蘭……」
烏龍は木蘭に身体を寄せた。木蘭も、そっと、背中に手を添え抱き寄せてくれる。
「大丈夫。烏龍様に何かがあれば、殿下が必ず守ってくださいます。あたしも、葉っぱも力になりますから、何も心配は要りません」
優しく、心強い声。耀青のまろやかで深い声とは対照的な、だが守ってくれるような色は同じだ。青竹色の長衣の胸に顔を埋めようとした烏龍だったが、ニカッ、と笑った木蘭に離れさせられる。
「殿下がスネてしまいますから、そろそろ参りましょう」
あれよという間に烏龍を姿見の前に連れ、衣装を着付けてくれながら、木蘭は唇の端をきゅ、と上げた。
「さっきのアレ、二人だけの秘密ですよ」
不思議そうに首を傾げた烏龍は、また、木蘭の快活そのものの笑い声を聞いたのだった。
「嗚呼……これは見事なものだ。よく似合っているよ、烏龍」
屋敷の一室で茶をたしなんでいた麗親王耀青は、湯浴みを終えて現れた部屋の主に感嘆の声を上げた。
「あ、ありがとう……ございます」
木蘭に教わった礼を、左足を少し前に右足は後ろに、両の手を左に添えて腰を下ろそうとする。しかし上手く行かずによろめいて木蘭に支えられ、耀青が笑うのが分かった。
「ははは、無理はするな。男の装いで女人の礼というのも趣があるな」
彼が言った通り、烏龍は「男」の服を着せられていた。どうも人間というものは男と女で衣服のつくりも、髪型も、色々と異なるらしい。耀青が着ているものと似ているが落ち着いた柄の、肌触りの良い生地で作られた青衣に三つ編みを一本垂らした烏龍は、木蘭曰く「男と女の狭間のようで素敵」だそうだ。
「女人の装い……でなくて良いのでしょうか?」
戸惑う烏龍に耀青が応えてくれる。
「貴女は精霊、男と女の狭間ということにしておいた方が、後々面倒を招かずに済むだろう。いかにも『女人』といった装いでは要らぬ反感を買ってしまう。それが……木蘭ならば心配は無用だろうね」
「何を仰います! あたしだって一応女なんですよ!」
「あははは、顔が嬉しそうだよ、木蘭」
確かに、木蘭なら女人のきらびやかな装いよりも、「男」のものの方が似合いそうだ。元々化粧も装身具も好まない、自分が装うよりも他人を飾る方がずっと楽しいと言っていたから。烏龍を挟んで笑いあう二人は主と使用人というより「兄弟」のよう。
「さて……そろそろ参るとしようか」
おいで、烏龍。皇帝の弟君である親王は、いたずらっぽく微笑んで、うやうやしく手を取ってくれた。
耀青の屋敷は皇帝が住まう宮殿の北にある。
色とりどりの木々に花、茶の樹もある庭園を通り抜けて宮殿に向かう途中、すれ違う者たちは深く礼をしつつも烏龍をチラと盗み見た。値踏みするような、どこか畏れと忌避が混ざった視線は、彼ら彼女らとは異なる存在なのだと思い知らせてくる。
それでも前を向き、袖に隠れた手で耀青の服をきゅ、と掴めば、彼が守ってくれるようだった。
やがて、二人は山では見たこともない巨大な門をくぐり抜けた。
「すごい、こんなに大きなものを、人の手がつくったのですね」
「貴女の言うとおり。我々の祖は法力も神通力も使わずに、これだけの宮殿を都を造り上げたのだ。人の世も意外とやるだろう?」
「まあ、そんな……そんなつもりでは」
「あはははは、分かっているよ」
耀青はよく笑う。
初めは意図が分からず戸惑っていた烏龍だったが、彼は、心を素直に表すひとなのだろうと思うようになった。表情も身振り手振りも豊かで意図を探る必要がない。
何より堂々としていて、自分とは正反対の彼が羨ましい……そのようなことを考えているうちに、これから拝謁する存在の住まいの前に到着した。
「皇后」
炎帝陛下の、今となってはただひとりの「妻」が住まう宮は、寂しい静けさに包まれていた。
「麗親王耀青、皇后娘娘に拝謁します」
深々と礼をする耀青の隣で、烏龍は慌てて礼をした。
「お立ちなさい」
琴を奏でる音にも似た、澄みきった声がする。烏龍がおそるおそる面を上げて立ち上がると、目の前に座る女性は何も言わずに見つめてきた。
「感激のあまり言葉が出ないようです、娘娘」
耀青の目配せに礼を申し上げ忘れていたことに気づく。
「か、か、感謝します……」
慌てて言葉をひねり出すも、皇后は冬の高山のよう、清々しいが冷えきった目で見つめてきた。
「精霊に人の理は通じぬもの。礼節とて同じでしょう」
美しいひとだった。まばゆい金色の衣に織り込まれた紅色花の華麗さも、複雑に結い上げられた黒艶髪を彩る金銀の頭飾りも、顔を見るだけでかすんでしまうほどに。女神であると言われれば信じてしまいそうな顔かたちは木蘭曰くの「傾城」、人の世でいう「絶世の美女」そのものだった。
皇后は蓋つき茶碗の蓋をずらし、茶に口づけた。
紅い唇を隠すよう蓋を傾ける手の小指と薬指には、金属で出来た長い爪が光っている。金の色と銀の色、それぞれの透かし彫りにあしらわれた宝石は燃え上がるような色をしていた。「炎帝」陛下より賜ったものだろうか。
だが吸い込まれそうな宝石も、皇后の前ではかすむだけだった。
「麗親王より話は聞いているわ。そなたは茶の精霊、長年探し求めた陛下の『希望』であると」
「希望……?」
萎縮する烏龍を立たせたまま、皇后はにこりとも笑わずに続ける。
「陛下はご即位されて間もないとき、病に伏された。侍医があらゆる手を尽くしても治らず、次第に、周りの者を拒むようになったの。ついにはこなたまでお会いすることができなくなった……その中でも、麗親王だけはお部屋に入ることを許されていたのよ」
何故だか分かるかしら。無言の問いを突きつけられたそのとき、隣の麗親王が、耀青がわずかに前に歩み出た。
「娘娘、烏龍は詳しい話を存じ上げておりません。ここは私がよく言って聞かせますゆえ、一刻も早く陛下のところへお連れしたいのですが」
皇后の目が、スッと墨を引いたような目が細められる。深々と礼をする「麗親王」を見下ろす様は氷の彫像のようで、烏龍は、雪に埋もれたときを思い出し身震いした。耀青はそれを感じたかのよう声を紡ぐ。
「ご覧のよう、烏龍はまだ人の世を知りません。至らぬ点も多くございます、されど陛下がお求めなのは『お茶の精』なのです。人の世を知らぬ無垢な存在、俗世から離れた異なる世界の存在こそ陛下の『希望』。それに……雪に埋もれていたところを助け出してからまだ数日。緊張で倒れられては私が陛下のお怒りを買います」
深く、落ち着いた、それでいて熱さを秘めた声。烏龍を包み守ってくれるような声。皇后の、ひく、と動いた金属の爪が煌めく。
「……さすがは、陛下の弟君。想いの強さはこなたとて敵わないかもしれないわね」
「滅相もございません。娘娘の想いこそ最も尊いもの」
「こなたは皇宮を飛び出すことなど出来なくてよ。面を上げなさい」
熱と雪、火と氷。
二人の会話は静かだった。それでいて、烏龍を寄せつけない迫力の帳に覆われていた。麗親王耀青は面を上げると皇后を見つめ再び礼をする。
「お行きなさい」
そして烏龍を連れ、皇后の宮を出た。
「か、感謝します……」
喉を絞められたような声で礼を言った烏龍に、皇后は、最後までにこりともしてくれなかった。




