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「はぁ……はぁ。クソ! どうなってんだよ」
悪態をつきながら、暗い洞窟を逃げ惑う一人の少年。
溝口綾人は息を切らし、両手を膝についた。どうにか呼吸を落ち着かせようと、その場で足を止める。
ちらりと後ろを振り返る。幸いにも、追っ手はまだ眼前には迫っていないようだ。
「なんだよ、ゴブリンなんて序盤のザコ敵だろ! 適当に攻撃してても、すぐ死ぬっての!」
想像していた現実とのギャップに、動揺が収まらない。
この洞窟へ来る前、出会った優しい少女から貰った短剣。ゴブリンのような下級の魔物なら、これで退治できると本気で思い込んでいた。
ゲームなら死んでもやり直せた。
けれど、今は違う。あいつの振った鉈が当たれば、怪我だけじゃすまない。
目の前の魔物は、本気で自分を殺そうとしてくる。
ゴブリンの目が笑っていなかった。
次に近づかれたら、本当に切られる。そう思った瞬間、膝が勝手に震えた。
腰が引け、ただ虚空を切り裂くだけの刃など、相手にとって何の脅威にもなりはしない。
ニタニタと口角を上げたゴブリンが、嘲るように距離を詰めてくる。
次の瞬間、綾人の振るった短剣は鉈で弾かれ、手元からあっさりと落ちた。
こうなっては、もう綾人は逃げるしかなかった。
「な……」
綾人を追いかけてきたゴブリンが横穴から姿を現す。
それも一匹ではなかった。仲間を呼んだのか、いつの間にか数は三匹に増えている。
一匹は錆びついた鉈を持ち、もう一匹は松明を掲げ、そして三匹目は、先ほど綾人が落とした短剣を握っている。
三匹は逃げ道を塞ぐように並び、こちらを見定めていた。
「なんだよ! おい……待てって」
尻が地面についた。
立てない。それでも綾人は、ゴブリンから距離を取りたい一心で必死に後ずさった。
だが背中が硬い壁にぶつかった瞬間、喉の奥から情けない息が漏れた。
カチカチと歯が鳴る。鼻の奥がつんと熱くなり、目からは涙がこぼれた。涎まで垂れているのに、拭う余裕もない。
全身がガタガタと震える中、下半身にじんわりと生温かい感触が広がった。
足元を濡らした液体が地面へ染み込み、黒い染みを作っていく。だが綾人には、足元へ広がる染みを見ることすらできなかった。
「うぇ!?」
眼前に迫っていた一匹が、急に視界から消えた。
次の瞬間、轟音と共にその体が壁へ叩きつけられる。
骨が砕ける鈍い音がした。
壁に赤黒い血の筋が走り、さっきまでゴブリンだったものは、肉の塊へと姿を変えていた。
「え……お、お前は」
白いコートに灰色の髪と青い瞳。
綾人の目はその顔から離れなかった。どう見ても、川町みなもだったからだ。
「みな、も……ちゃん?」
「はぁ? みなも? 何言ってるのよ、貴方?」
声まで似ていた。透き通るような声色なのに、どこか少し甘く柔らかい。耳に触れるたび、張り詰めていた心が少しだけほどけていくような。
顔も声も、綾人のよく知る女の子と全く同じだった。
「みなも! みなもちゃんじゃん。えっ、なんでここに?」
「誰よ、みなもって。誰と勘違いしているのか知らないけれど……って話は後よ!」
少女は残った二匹のゴブリンへ視線を向ける。
一匹を倒されたことで動揺しているようだが、戦意を失ったわけではないらしい。
二匹のゴブリンは武器を握り直し、標的を綾人から少女へと変えた。
「ウォーター・エッジ!」
少女が右手首を、左手で支えながら高らかに叫ぶ。
すると、周囲に浮かんだ光の粒子が水の短剣へと姿を変えた。少女はそれを両手に一振りずつ構える。
「えっ、なにそれ!?」
呆気に取られている綾人を置き去りに、少女はゴブリンへ向かって一直線に駆け出した。
「はやっ!」
少女が地面を蹴ったかと思った瞬間、すでにゴブリンとの距離は消えていた。
水の刃が一閃し、首が宙を舞う。
勢いを殺さずに体をひねり返し、今度は逆の手に握った刃で、もう一匹のゴブリンの眼を抉る。
ゴブリンの醜悪な絶叫が洞窟内に響いた。
もがき、のた打ち回るゴブリンへ、少女は両手で体重をかけるように短剣を突き立てる。
刃は心臓を貫き、そのまま息の根を止めた。
「す、すげぇ……」
「ふぅ……まっ、こんなものね」
少女が短剣を握りしめると、『ウォーター・エッジ』は光の粒子となって崩れ、そのまま消えていった。
彼女は軽く両手を払うようにしてから、こちらへ振り返る。
「――で、貴方。ケガはしていないかしら?」
「あ……はい。平気、です」
「ふぅん。見たところ、新人の冒険者ってところかしら」
「あ、はい……まぁ」
少女はまじまじと綾人を見つめた。
頭から順に視線が落ちていき、やがて濡れたズボンと足元の染みに気付いたのだろう。
「はぁ……」
ため息まじりに、少女の視線が少し泳いだ。
「……まぁ、さっさと洞窟を抜けて帰ることね。残念だけれど、貴方が今後も冒険に出たところで、同じ結末を招くのが関の山だと思うわ」
「いや……あの。それが、ですね。腰が抜けて、立てなくてですね……あの」
「はぁ。あのねぇ……私は貴方の介護をするつもりはないのだけれど」
「お、お願いします……み、みなもさん」
「貴方、さっきから私のことをみなもって呼ぶけれど……誰と勘違いしているのかしら? そんな知らない名前で呼ぶのはやめてちょうだい。私はね、ミレナ・カワードよ」
「みれな……かわーど?」
ミレナ・カワード。どうやらそれが彼女の名前らしい。
目の前の少女は、服装こそ違えど綾人の知っている川町みなもに瓜二つだった。ただどうやら別人らしい。
ミレナは腰に手を当て、前かがみになりながら、むっとしたジト目で綾人を見下ろしてくる。
その目と合った瞬間、綾人の顔が一気に熱くなり慌てて顔を横に背ける。
「――で、そういう貴方は?」
「え?」
「あのねぇ……貴方の名前でしょう。まさか私に名乗らせておいて、自分は言わないつもり?」
「あぁ、えっと……溝口綾人。アヤト、です」
「なにその変な名前……。まぁいいわ。アヤトね。……はい」
名乗ったのはそっちからだったような気がする。そう心の中で突っ込みつつも、口には出さない。
差し出された右手を握ると、ミレナはそれを力強く握り返した。
次の瞬間、アヤトの腰がふわりと浮く。立ち上げられた勢いで前のめりになりそうになるが、ミレナの左手が肩を掴み、そのまま支えてくれた。
「それにしても酷い有様ね。貴方、何か着替えるものは持っていないわけ?」
「いや、ない……ですね。あぁ、そういえば、さっき魔法みたいなので水の武器的なの出してませんでしたっけ?」
「出していたけれど……まさかとは思うけれど、貴方、私の水魔法で洗い流して、なんて言い出すつもりじゃないでしょうね?」
「いやぁ……ダメですかね」
「お断りします!!」
そこまで強く否定する必要はあるのだろうか。
どうにも魔法を使うにも制限があるらしい。マナがどうだとか、効率がどうとか、ミレナはまくし立てるように説明していたが、今の綾人の頭ではたいして理解できなかった。
少なくとも分かったのは、彼女が水魔法で濡れたズボンを洗ってくれる気はないということだけだった。
「もういいかしら? 後はこのまま引き返せば街に戻れるでしょ?」
「いや……でも濡れてて気持ち悪いですし、歩きにくいし、また魔物と対峙でもしたら今度こそ死ぬと思います」
「そう。それは悲しい出来事ね。じゃあ、さようなら」
「待って!!」
アヤトは額を地面にこすり付けた。和の精神における、降伏と服従を示す最大の謝罪方法、土下座。
ミレナが背を向けた瞬間、綾人の喉がひゅっと鳴った。
駄目だ。この人に置いていかれたら、次こそ本当に死ぬ。
どうにかして街まで送り届けてもらうためにも、アヤトはすがる思いで地面に頭をこすり続けた。
「ちょっと……な、なにやってるのよ」
「お願いします! ミレナさん! 出口……いや、街までついて来てください! お荷物、お持ちしますから!」
「ッチ。持たなくていいし。嫌よ」
今、舌打ちした?
必死に顔を上げると、不服そうに腕を組みながら、軽蔑の眼差しを向けてくるミレナと目が合った。
ろくに知らない、それもたいして役に立ちそうもない男。
こんな無様な姿を晒した男と並んで歩きたくない気持ちは、年頃の女の子なら当然なのかもしれない。
だが、今は手段を選んでいる場合ではなかった。
「荷物持ちがダメでしたら、ほ、他に……そっ、そう。椅子とかどうでしょうか?」
「は? 何を言っているのよ……あんた、頭がおかしいんじゃないかしら」
もしも
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