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第一話 神様は甘いものがお好き

琉球王国時代、各地には王府より任命を受けた神女(ノロ)が派遣され、地域の祭祀を執り行っていた。

本作の主人公カナーも、その一人です。

祈りの場では凛々しい彼女ですが、普段はちょっとおっちょこちょい。

そんなノロ様の周りでは、今日も何やら不思議なことが起こるようで……。

史実を背景に、民俗と怪異、人々の暮らしを織り交ぜた連作物語です。

一 ノロ様の災難


 今帰仁(なきじん)の朝は、鳥が騒がしい。

まだ日が山の端から顔を出す前だというのに、森では鳥たちが好き勝手に鳴き交わし、草むらでは虫が声を張り上げている。

そんな朝の静けさを破ったのは、一人の女の悲鳴だった。

「ひゃあっ!」

中城(なかぐすく)ノロ、加那。村ではカナーと呼ばれる二十六歳の女である。

首里王府から正式に任命を受けた神女(ノロ)であり、近隣の村々の祭祀(さいし)を担う立派な身分の持ち主なのだが、今朝はその立派な足が、家の敷居に引っかかっていた。

「痛い、痛い、痛い……!」

片足で跳ねながら、カナーは柱にしがみついた。

「ノロ様、朝から何をしているんですか」

庭で水を汲んでいた小夜が、呆れた声を上げる。

「見ればわかるだろう。足の指を打ったんだよ」

「そんなに急いで、どちらへ?」

「どちらへって、御嶽(うたき)に決まっているさ。今日は朝のうちに供え物を確かめるんだ」

「その前に、ちゃんと足元を見てください」

「見ていたよ」

「見ていたら、敷居にぶつかりません」

「敷居が思ったより高かったんだ」

「昨日も同じことをおっしゃっていました」

カナーは返す言葉を失った。

小夜は十九歳になる村娘で、亡くなった祖母の代からこの家に出入りしている。遠慮というものを知らず、カナーが失敗すると実に嬉しそうな顔をする。

「いいから、早く水を汲んでおくれ。戻ったら粟を炊くから」

「はいはい。転ばないでくださいね」

「転ばないよ!」

そう言って庭へ踏み出したカナーは、足元に置かれた水桶を危うく蹴飛ばしかけた。小夜が何も言わずに見ている。

「……今のは違う」

「何も言っていませんよ」

カナーは鼻を鳴らし、足早に門を出た。

村の外れには、小さな森がある。

木々が深く茂り、昼でも薄暗いその一角には、古くから村人たちが祈りを捧げてきた場所があった。人々はそこを御嶽と呼び、むやみに立ち入ることを慎んでいる。

カナーも、ここへ来るときだけは余計な口を閉じる。

入り口で足を止め、衣の乱れを正してから森へ入った。

湿った土の匂いがした。

昨夜の雨が葉の先に残り、ときおり雫となって落ちてくる。

奥の拝所には、前日に村の女たちが用意した供え物が置かれているはずだった。

粟の粉を練って丸め、蒸したもの。

今回は少しばかりサトウキビの甘い汁を混ぜてある。村の女たちが、豊かな実りを願って特別に作ったものだった。

ところが。

「あれ?」

カナーは足を止めた。

供え物が、ない。

昨日、確かに五つ並べてあったものが、一つ残らず消えている。

器だけが、ぽつんと置かれていた。

「……神様?」

思わず口にしてから、カナーは眉をひそめた。

「いやいや、まさかねえ」

器を覗き込む。

少しばかり粉が残っている。

そして、その縁には、何やら小さな跡がついていた。

カナーは顔を近づけた。

「ふうん……」

そのとき、背後で枝が鳴った。

「ひっ!」

カナーは飛び上がった。

振り返ると、枝から落ちた雫が葉を揺らしただけだった。

「……まったく。驚かせないでおくれよ」

誰にともなく文句を言い、もう一度器へ目を戻す。

小さな指の跡だった。

それも、どうやら子どものものらしい。

「神様にしちゃあ、ずいぶん小さな手だねえ」

カナーは腰に手を当てた。

どうやら、面倒なことになりそうだった。



二 神様の食いしん坊


供え物が消えたという知らせは、その日のうちに村じゅうへ広まった。

「神様が召し上がったんだ!」

「きっと今年は豊作になるぞ!」

「いや、器まで舐めるように食べたというのは、何かお怒りなのではないか?」

村人たちは好き勝手なことを言った。

カナーは広場の木陰に腰を下ろし、その騒ぎを眺めていた。

「まったく。供え物がなくなっただけで、どうしてこう大騒ぎになるのかね」

「ノロ様がいちばん大騒ぎしていたじゃありませんか」

隣で小夜が言う。

「あれは驚いただけだよ」

「『神様が全部食べた!』って叫んでいましたよ」

「言ってない」

「言いました」

「……小さな声で言っただけだ」

小夜は笑った。

そこへ、腰の曲がった老婆がやって来た。

阿加(あか)という、村でも古い祭祀の作法をよく知る女である。

「カナー。供え物が消えたそうだね」

「ええ。きれいさっぱり」

「それで、どうするつもりだい」

「どうするって、誰が食べたか調べますよ」

阿加は、じろりとカナーを見た。

「神様が召し上がったのかもしれないだろう」

「神様が?」

「そうさ」

「それならそれで構いませんけどね」

カナーは腕を組んだ。

「神様なら、どうして器に指の跡を残すんです?」

「指くらいあるだろうさ」

「それに、昨日は五つあったんですよ。五つとも食べたら、さすがに腹が膨れるでしょう」

「神様の腹の具合まで心配するんじゃないよ」

小夜が吹き出した。阿加も口元をわずかに緩めたが、すぐに真顔へ戻った。

「いずれにせよ、御嶽の供え物を勝手に持ち去るのはよくない。人の仕業なら、きちんと話を聞いておやり」

「わかっていますよ」

「それから、神様のことをむやみに笑うんじゃない」

「笑ってませんって」

「おまえは昔から口が減らない」

阿加はそれだけ言うと、杖をついて去っていった。

カナーは小夜を見た。

「昔からって、私はまだ若いんだけどねえ」

「子どもの頃から、という意味でしょう」

「わかってるよ」

そんなことを話していると、一人の男が近づいてきた。

「ノロ様。実は、昨日の夕方、御嶽の近くで子どもを見ました」

「子ども?」

「ええ。十くらいの男の子です。木の陰に隠れるようにして、何かを見ていました」

「誰の子か、わかるかい」

「それが、顔までは……」

カナーは少し考えた。

御嶽の近くにいた子ども。器に残された小さな指の跡。

ただ、それだけで犯人と決めつけるわけにはいかない。

「小夜、ちょっと付き合っておくれ」

「どこへ?」

「御嶽さ」

「またですか?」

「もう一度、ちゃんと見ておきたいんだよ」

「朝も見たんでしょう?」

「朝は朝。今は今」

カナーは立ち上がった。

その勢いで、腰に挟んでいた小さな布包みが落ちた。

「あっ」

拾おうとして屈み、今度は小夜と額をぶつける。

「痛っ!」

「もう! ノロ様!」

「だから、そんなに急いで拾わなくていいって!」

「先に拾おうとしたのはノロ様です!」

二人のやり取りを聞いていた村人たちは、顔を見合わせて笑った。

どうにも威厳のないノロ様である。

しかし、カナーが本気で何かを調べ始めるときの顔を、村人たちはよく知っていた。

笑いながらも、誰も二人を引き止めなかった。



三 小さな足跡


午後の御嶽は、朝よりもずっと明るかった。

木々の間から差し込む陽が、湿った地面にまだら模様を作っている。

カナーは供え物の器を持ち上げ、裏側まで確かめた。

「やっぱりねえ」

「何がです?」

「これを見てごらん」

器の下に、乾いた草の細い切れ端が挟まっていた。

「草ですね」

「そう。御嶽の奥に生えている草じゃない」

「じゃあ、どこの?」

「道の向こうの畑だよ。あそこには、この草がたくさん生えている」

小夜は感心したように頷いた。

「よくそんなことに気がつきますね」

「昨日、畑の脇を通ったからね。衣にくっついて、取るのが大変だったんだ」

「なるほど」

「おかげで、今朝もまだ一枚ついていた」

「……ノロ様、今朝の衣、ちゃんと確かめました?」

「確かめたよ!」

カナーは咳払いをした。

「つまり、誰かが畑を通ってここへ来たかもしれないってことさ」

供え物を運んだ女たちも、同じ道を通った可能性はある。これだけでは証拠にならない。

けれど、調べる場所は絞れそうだった。

二人は御嶽を出て、畑の脇へ回った。

雨のあとで柔らかくなった土に、小さな足跡が残っていた。

「子どもの足ですね」

「そうだね」

足跡は畑の端を通り、細い道へ続いている。

その先には、数軒の家があった。

カナーは足跡を追いかけようとして、ふと立ち止まった。

「小夜」

「はい?」

「昨日、あの家の子が熱を出したって話していなかったかい」

指さしたのは、道の奥にある小さな家だった。

「ああ、ミヨのことですか。まだ寝込んでいるそうですよ」

「兄さんがいたね」

「タルーですね。十歳だったかな」

「ふうん」

カナーはその家へ歩き始めた。

すると小夜が、後ろから声をかけた。

「ノロ様、そっちは違いますよ」

「え?」

「家は右です」

「……知ってるよ」

「左へ行こうとしていましたよ」

「道の様子を見ていたんだ!」

どうにも締まらない。

しかし、カナーの頭の中では、一つの考えが形になりつつあった。



四 白い着物のおばあ


タルーの家は、畑の外れにあった。

家の前には小さな薪の束が積まれ、軒下には濡れた布が干してある。

戸口に顔を出した母親は、カナーを見るなり驚いた。

「ノロ様。何かありましたか」

「いやね、ちょっとタルーに聞きたいことがあって」

母親の顔が曇った。

「……あの子が何か?」

「叱りに来たわけじゃないよ」

カナーは笑ってみせた。

奥から、痩せた男の子が顔を覗かせた。

タルーだった。

「タルー。昨日、御嶽へ行ったね?」

少年の肩がびくりと動いた。

それだけで、カナーには十分だった。

「供え物を食べたのかい」

タルーは黙っている。

「怒らないから、正直に話してごらん」

「……食べてない」

「そうかい」

カナーはしゃがみ、少年と目を合わせた。

「じゃあ、誰が食べたんだろうねえ」

タルーは唇を噛んだ。

やがて、小さな声で言った。

「ミヨに、あげた」

母親が息を呑んだ。

「タルー!」

「だって、ミヨ、何も食べられなかったから!」

少年の目から涙がこぼれた。

「昨日、甘いものなら食べたいって言ったんだ。だから……」

カナーは黙って聞いていた。

病気で寝込んでいる妹のために、御嶽の供え物を持ち去った。

それだけなら、よくないことではあっても、事情はわかる。

しかし、まだ一つ疑問があった。

「タルー。どうして御嶽に供え物があるって知っていたんだい」

「……おばあが教えてくれた」

「おばあ?」

「白い着物のおばあ」

カナーは眉を上げた。

「どこのおばあだい」

「知らない」

「知らない人について行ったのかい?」

「ついて行ってないよ。畑のところに立っていたんだ」

タルーは袖で涙を拭った。

「おばあが、御嶽に甘いものがあるって教えてくれた。妹に持って帰ってもいいって」

カナーは小夜と顔を見合わせた。

「それで、全部持ってきたのかい」

「……うん」

「五つとも?」

「うん」

「ミヨはそんなに食べられた?」

「一つだけ」

「じゃあ、残りは?」

「……僕が食べた」

小夜が思わず笑いそうになり、慌てて口を押さえた。

カナーも口元を引き締めるのに苦労した。

「まったく。神様の分までお腹に入れたんじゃないかね」

タルーはまた泣き出しそうになった。

カナーは頭をかいた。

「まあ、次からは勝手に持っていかずに、ちゃんと話しなさい。困ったことがあれば、私のところへ来ればいい」

「……怒らない?」

「悪いことをしたら叱るよ。でも、妹のために何かしてやりたかったんだろう?」

タルーは頷いた。

「それなら、別のやり方を考えようじゃないか」

奥の寝床から、小さな声が聞こえた。

「ノロ様……」

ミヨだった。

「甘いの、おいしかった」

カナーは笑った。

「そうかい。それはよかった」

母親が何度も頭を下げた。

カナーは手を振り、明日の朝に供え物を改めて用意すること、タルーもその支度を手伝うことを約束させた。

これで一件落着。


そう思ったのだが…帰り際、タルーがぽつりと言った。

「ノロ様」

「何だい」

「あのおばあ、ノロ様のことも知っていたよ」

カナーは振り返った。

「私を?」

「うん。カナーは昔から慌てん坊だから、よく見てやっておくれって」

カナーの笑顔が止まった。

「……ほかに、何か言っていたかい」

「足元を見ないと、また転ぶよって」

小夜が横で吹き出した。

「ノロ様、ずいぶんよく知られていますね」

「笑うんじゃないよ」

しかしカナーは、少しばかり考え込んだ。

亡くなった祖母も、よく同じことを言っていた。

もっとも、カナーが慌てん坊なのは村じゅうが知っている。

白い着物の老婆など、このあたりにはいくらでもいるだろう。

そう思い直して、カナーは少年に尋ねた。

「そのおばあ、どんな顔だった?」

「優しそうだったよ。ここに、ほくろがあった」

タルーは自分の左の頬を指さした。

カナーは、何も言わなかった。

祖母にも、同じ場所にほくろがあった。


五 神様のお裾分け


翌朝。御嶽には、新しい供え物が並べられた。

タルーも母親に連れられてやって来て、神前に頭を下げた。

カナーはいつものように衣を整え、静かに祈りを捧げた。

木々の間を風が渡る。

鳥の声が、遠くから聞こえた。


祈りを終えると、カナーは供え物を確かめた。

五つとも、ちゃんと残っている。

「よし」

思わず呟いてしまい、慌てて口を閉じた。誰も聞いていなかったようだ。


その日の午後、カナーは祖母の使っていた古い箱を開けた。

中には、布や櫛など、いくつかの品がしまわれている。

祖母は厳しい人だった。

祭祀の作法を間違えると叱られたし、歌を覚えられないと何度でもやり直しをさせられた。

そのくせ、村の子どもが腹を空かせていると、こっそり食べ物を分け与えるような人でもあった。

「……おばあなら、やりそうなことだけどねえ」

カナーは独り言をこぼした。

もちろん、死んだ祖母が現れたなどと、本気で信じているわけではない。

誰かが似たような格好をしていたのだろう。

それだけのことだ。

そう思って箱の蓋を閉じようとしたとき、底に小さな包みがあることに気づいた。

「あれ?」

広げてみると、乾いた葉が数枚出てきた。

その間に、小さな紙片が挟まっている。

祖母の手で書かれたものだった。

字は少なく、ただ一言。

『子どもには、甘いものを』

カナーはしばらく、その紙片を見つめていた。

それから、ふっと笑った。

「……まったく。あの世へ行ってまで、子どもを甘やかすんだから」

そのとき、家の外から小夜の声がした。

「ノロ様! タルーのお母さんが、お礼に粟を持ってきてくださいましたよ!」

「おや、それはありがたいね」

「それから、タルーがノロ様にって!」

「何を?」

「昨日の供え物の残りだそうです!」

カナーは思わず立ち上がった。

「なんだって?」

「食べきれなかった分を持ってきたって!」

「……あの子、残りがあったのかい」

カナーは呆れた。

そして、少しだけ笑った。

「それなら、お茶でも淹れようかね」

箱を閉じ、立ち上がる。

すると足元に置いてあった小さな腰掛けに、思いきり脛をぶつけた。

「痛っ!」

外から小夜の声が飛んできた。

「ノロ様! また何かにぶつかったんですか!」

「腰掛けが悪い!」

「腰掛けも動きませんよ!」

「わかってるよ!」

村の午後は、今日ものどかだった。

その頃、御嶽では。

誰もいないはずの拝所(はいしょ)に、風が吹き抜けた。

供え物の一つが、ころりと器の上で転がった。

まるで誰かが指先でつついたように。

そして、木々の奥から、かすかな笑い声が聞こえたという。

もっとも、それを聞いた者は誰もいない。

ただ翌朝、供え物を確かめに来たカナーが、器の上に一つだけ残された小さな指の跡を見つけて、しばらく首を傾げていた。

「……神様も、甘いものがお好きなのかねえ」

そう呟いたカナーは、今度こそ足元を確かめてから、御嶽を後にした。


第一話 了


お読みいただき、ありがとうございます。

ノロ様といえば、神聖で近寄りがたい存在を想像されるかもしれません。

けれど、祭祀を離れれば、彼女たちも同じ土地で暮らす一人の人間だったはず。

そんな想像から生まれたのが、主人公のカナーです。

ちょっとおっちょこちょいですが、祈りには真剣。人の困りごとを放っておけない彼女と一緒に、琉球王国の不思議な日々を楽しんでいただけたら嬉しいです。


なお、本作は歴史資料や民俗文化を参考にしたフィクションです。登場人物や事件、祭祀に関する一部の描写には創作を含みます。

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