後編 ── 呼び出し音が鳴る前に
三日後。
母からの電話は、泣き声から始まった。
「お父さんが倒れたの……」
頭の中が真っ白になった。
何を聞いたのか、どう返事をしたのかも覚えていない。
気づけば新幹線に乗り、窓の外を流れる景色をぼんやり眺めていた。
実家近くの病院へ着くと、母が小さく頭を下げた。
「急だったの。仕事から帰ってきて、ご飯を食べようとして……」
それ以上は聞けなかった。
病室へ入る。
父は眠るように横たわっていた。
腕には点滴。
規則正しく鳴る心電図の音だけが、静かな部屋に響いている。
「親父……」
呼びかけても返事はない。
その手を握る。
昔は自分の手なんてすっぽり包んでしまうほど大きかった。
けれど今は、驚くほど軽かった。
骨ばった指先を見つめていると、不意に、あの夏の日のことが浮かんだ。
小学一年生だった俺を荷台に乗せ、汗だくになって自転車を漕いでいた父。
あの公園まで、車で四十分。
社会人になってから何度もその道を走った。
信号も多い。
ゆるやかな坂も続く。
運転しているだけでも少し遠いと感じる道だ。
それを父は、自転車で往復した。
しかも荷台には俺を乗せて。
「よくあんなところまで連れて行ってくれたな……」
初めてそう思った。
あの日、父は何も言わなかった。
疲れたとも、重いとも、一度も口にしなかった。
ただ、
「楽しかったか」
帰り道に、それだけ聞いた。
返事もせず、俺は荷台で眠ってしまった。
病室で父の手を握りながら、胸の奥が締めつけられた。
言いたいことが、あまりにも多すぎた。
「ありがとう」
「ごめん」
「また公園へ行こう」
どれも言えなかった。
父は、その日の夜、静かに息を引き取った。
葬儀は、近所の人でいっぱいだった。
運送会社の同僚たち。
昔からの友人。
近所のおじさんたち。
祭壇の前では皆が口をそろえて言う。
「世話になったな」
「よく笑う人だった」
「酒が入るとうるさかったけどな」
笑いながら泣いていた。
父らしいと思った。
葬儀が終わった夜。
誰もいなくなった居間で、スマートフォンを開いた。
未再生の留守電が一件。
あの日、聞かなかった父の声だった。
再生ボタンを押す。
ザーッという小さな雑音。
それから、聞き慣れた声が流れた。
『おう。忙しいところ悪いな』
少し間があく。
『押し入れ片づけてたら、おまえのアルバムが出てきてさ』
ふっと笑う声。
『泥んこで遊んでる写真ばっかりだった。おまえ、
ほんと落ち着きのない子だったな』
俺も少し笑った。
涙で画面が滲んだ。
『そうそう、公園で寝ちゃってさ。おまえを背負って家まで運んだんだぞ』
『あのときは重かったなあ』
照れくさそうな笑い声が混じる。
思わず顔を覆った。
そんなこと、知らなかった。
父は一度も話してくれなかった。
『最近帰ってこないけど、元気ならそれでいい』
少し沈黙が流れる。
『……まあ、無理はするなよ』
また間があいた。
録音が終わる直前、少し小さな声で言った。
『おまえが頑張ってることくらい、ちゃんと知ってるからな』
電子音。
部屋は静まり返った。
俺はスマートフォンを握ったまま動けなかった。
翌朝。
母が仏壇にお茶を供えていた。
「昨日、留守電聞いたよ」
母は小さくうなずき、押し入れから古いアルバムを持ってきた。
何度も開かれた跡がある。
泥だらけの俺。
ランドセル姿の俺。
運動会で一等賞の旗を持つ俺。
そして、自転車の荷台で眠っている俺。
その写真だけ、角が少し擦り切れていた。
「お父さんね」
母が写真を撫でながら笑う。
「人が来るたびに、この写真を見せてたの」
ページの間から、一枚の新聞の切り抜きが落ちた。
俺が営業成績で社内表彰されたときの記事だった。
送った覚えもない。
母が拾って挟んだのだろうと思った。
「違うわよ」
母は首を振った。
「お父さんがコンビニで買ってきた新聞を切り抜いて、大事そうにしまってたの」
胸が熱くなった。
「あんたが頑張ってること、自慢だったのよ」
母はそれだけ言うと、線香に火をつけた。
細い煙が、ゆっくりと父の写真の前で揺れた。
帰る日。
母が玄関まで見送ってくれた。
「また電話するね」
「うん」
「忙しくても、たまには出なさいよ」
俺は笑った。
「今度はちゃんと出るよ」
母も笑った。
車に乗り込み、エンジンをかける。
スマートフォンには、父の留守電が残っている。
消そうと思ったことは、一度もない。
仕事で失敗した日。
心が折れそうな夜。
そんなときは、今でも再生ボタンを押す。
『……無理はするなよ』
『おまえが頑張ってることくらい、ちゃんと知ってるからな』
再生が終わる。
車内は静まり返り、エンジンの音だけが小さく響いていた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には「母」。
俺は呼び出し音が鳴り終わる前に通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、ご飯食べた?』
「食べたよ」
『そう。よかった』
それだけの会話だった。
電話を切る。
夕焼けに染まるフロントガラスの向こうで、信号が青に変わる。
俺は静かにアクセルを踏んだ。
もしこの物語が、誰かに一本だけ電話をかけるきっかけになれたなら、
それ以上に嬉しいことはありません。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




