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前編 ── あとで聞けばいいと思っていた

もし、今日お父さんやお母さんから電話がかかってきたら。

この作品を読み終えたあとでいいので、一本だけ、電話をかけてみてください。

そんな物語です。

父の声が嫌いだった。


正確には、父の説教が嫌いだった。


父は高校を途中で辞め、十八歳から運送会社で働き続けた。


朝はまだ暗いうちに家を出て、

夕方には排気ガスと汗の匂いをまとって帰ってくる。

日に焼けた腕は丸太のように太く、

荷物を積み下ろししてきた手のひらは、

革みたいに硬かった。


仕事着を脱ぐと、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。


一本飲めば機嫌が良くなり、

二本目を開けるころには声が一段と大きくなる。


近所のおじさんが遊びに来れば、何度も聞いた昔話を始め、

少し下品な冗談を飛ばしてみんなを笑わせる。


母は決まって顔をしかめた。


「もう、その話は何回目?」


「何回でも面白いんだからいいんだよ」


父は豪快に笑う。


俺はそんな父が少し恥ずかしくて、早く自分の部屋へ逃げ込んだ。


子どもの頃は、父と母はまるで別の生き物のように見えた。


母は静かで、父は騒がしい。


母は本を読み、父は野球中継を見ながら大声を出す。


似ているところなんて、一つもないと思っていた。


それでも日曜日になると、父はよく俺を外へ連れ出した。


「今日は遠征だ」


そう言って、自転車の荷台をぽんと叩く。


小学一年の夏休み。


朝早く起こされ、眠い目をこすりながら荷台に乗った。


「しっかりつかまってろ」


父は勢いよくペダルを踏み込んだ。


家の近所の公園だと思っていた。


けれど、自転車はどんどん知らない道へ進んでいく。


橋を渡り、坂を越え、川沿いの土手を走る。


途中で父は何度も立ち漕ぎになった。


額から汗が流れ、Tシャツが背中に張り付いている。


「親父、まだ?」


「もう少しだ」


その「もう少し」が何度も続いて、ようやく着いたのは、

大きな遊具のある公園だった。


「ほら、好きなだけ遊んでこい」


父はベンチに座ることもなく、笑って俺の背中を押した。


俺は夢中で走り回った。


長い滑り台を何度も滑り、

アスレチックで泥だらけになり、

噴水ではしゃいだ。


遊び疲れて父のところへ戻ると、

父は缶コーヒーを飲みながら笑っていた。


「腹減ったか」


そう言って、少しつぶれたおにぎりを取り出した。


帰り道。


荷台に揺られているうちに眠ってしまったらしい。


気づいたときには、自分の布団の中だった。


父がどうやって俺を家まで運んだのか、考えたこともなかった。


子どもとは、そういうものなのだ。


大学進学で地元を離れてからも、

父は週に一度は電話をかけてきた。


「ちゃんと食べてるか」


「夜更かしするなよ」


「風邪ひいてないか」


「お金は足りてるか」


話すことは、毎回ほとんど同じだった。


「大丈夫だから」


「子どもじゃないんだから」


「忙しいんだよ」


それが俺の返事だった。


母は笑いながら言う。


「お父さんは心配してるだけなのよ」


「心配しすぎなんだよ」


そう答えながら、内心では少しうんざりしていた。


社会人になってからは、電話の回数は少し減った。


その代わり、着信に気づいても折り返さないことが増えた。


仕事が忙しかった。


営業に配属され、数字に追われる毎日だった。


休日も資料づくり。


家に帰れば眠るだけ。


親と長電話をする余裕なんてない。


そう思っていた。


ある年の正月。


久しぶりに実家へ帰ると、父は相変わらずビールを飲んでいた。


「お、帰ってきたか」


「ただいま」


「仕事どうだ」


「まあまあ」


「そうか」


会話は、それだけだった。


テレビでは箱根駅伝が流れていた。


父は黙って画面を見ている。


俺もスマートフォンを見ている。


母だけが台所で忙しそうに動いていた。


その帰り際だった。


「送ってやる」


父が珍しく言った。


「いいよ。駅まで歩けるし」


「まあいいから」


二人で歩いた冬の道。


吐く息は白かった。


駅まで十分ほど。


父は何も話さない。


ようやく口を開いたと思ったら、


「身体だけは大事にしろ」


それだけだった。


「わかってるよ」


そう返すと、父は照れくさそうに笑った。


今思えば、あの人は昔から言葉が少なかった。


電話ではあれだけ話すくせに、

面と向かうと何を話せばいいのかわからなかったのかもしれない。


社会人五年目の春。


その頃には、父からの電話は少し面倒なものになっていた。


仕事中に鳴れば「あとにしてくれ」と思い、

休日に鳴れば「ゆっくり寝かせてくれ」と思う。


父は、ずっと元気でいる。


そんな根拠のない思い込みが、自分の中にはあった。


だから、その夜も何も考えなかった。


日曜の夜。


会議資料を広げ、数字を見比べていると、スマートフォンが震えた。


画面には「父」。


小さく息をつく。


「またか……」


通話を切った。


すぐに、また鳴る。


「勘弁してくれよ」


机に向かったまま、もう一度切った。


三度目は留守番電話になった。


あとで聞けばいい。そう思った。


その「あとで」が来ないことを、このときの俺はまだ知らなかった。



「忙しいから、あとで電話しよう」と思った経験は、多くの人にあるのではないでしょうか。


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