冷たいコンクリートの床から伝わる微振動が、俺の麻痺した神経を執拗に叩く。
旧排水処理場の空気は、重金属と廃油の混ざった不快な臭いに満ちていた。
天井の隅では、旧式の低圧水銀灯が寿命を迎えつつあり、不規則な明滅が壁の錆びを不気味に浮き彫りにしている。
「……ハルト、自己診断機能はどうだ。生体端末のフィードバックが止まっていないか」
リュウが傍らで、小型の分析器を片手に問いを投げかけてくる。
彼の指先は正確にキーを叩き、周辺の電磁波密度を監視し続けている。
俺は荒い呼吸を整えようと試みたが、肺の奥に残る熱の残渣がそれを拒んでいた。
「……計算野が過熱している。視覚の端にノイズが走るが、運動出力に致命的なエラーはない。ただ、右腕の冷却が追いついていない」
俺は自分の右腕を見た。
皮膚の下を流れる赤い発光体は、周囲の水分を蒸発させるほどの熱量を保持したままだ。
特定の起動コードによって物理法則を局所的に歪め、高密度エネルギーを生成する、極めて高度な軍事技術の結果なのだ。
「当然だ。人間の血管を冷却パイプ代わりに使っているようなもんだからな。放熱効率を上げないと、お前の細胞は炭化するぞ」
リュウが手際よく予備の冷却スプレーを俺の腕に噴射した。
白い冷気が噴き出し、赤いアザと接触した瞬間に激しい蒸気へと変わる。
皮膚が焼かれるような激痛が走ったが、脳の情報処理回路はその痛みすら単なる電気信号として淡々と処理していく。
その時、処理場の厚い鉄扉の向こうから、低周波の駆動音が響いてきた。
地鳴のような、重厚な機械の足音。
一般兵が使用する軽量の外骨格ではない。
都市制圧用の多脚戦車、あるいは重量級のパワードスーツの類いだ。
「……早すぎる。量子スキャンの死角を選んで移動したはずなのに、なぜ場所が特定されているんだ」
リュウが忌々しげに端末を睨み据えた。
画面には、赤い輝点が網の目を狭めるように俺たちの現在地を包囲していく様子が映し出されている。
俺は脳内のログデータを高速再生した。
執行官との戦闘……最後に放った熱波動……周囲の磁場の乱れ……。
「……リュウ、俺の右腕だ。この高エネルギー反応が、周囲のニュートリノ分布を書き換えている。物理遮蔽が効かない素粒子レベルの痕跡を、奴らの衛星は追っているんだ」
俺の言葉に、リュウは息を呑んだ。
「理論的には可能だが、それをリアルタイムで演算して追跡するなんて……。科学局のスーパーコンピュータを完全に俺ら専用に割いているっていうのかよ」
「それだけ、この出力は奴らにとって許容できないバグデータなんだ。物理定数を書き換えかねない『特異点』を、野放しにはできない」
俺は重い腰を上げた。
右腕のアザが、外部からの走査波に反応して鋭く脈動する。
敵の電子の網が、皮膚を撫でるような感触として直接脳に伝わってくる。
冷徹な計算に基づいた、逃場のない処刑宣告。
ドォォォォォォン!
処理場の巨大なハッチが、外部からの指向性爆薬によって内側へと吹き飛ばされた。
猛烈な風圧と砂塵の中から、四機の自律型攻撃ポッドが滑り込んでくる。
円盤状の機体には、高速徹甲弾を射出するガトリングガンが装備されていた。
「戦闘モード移行! リュウ、柱の影に!」
俺は叫ぶと同時に、床に転がっていた鋼鉄のプレートを蹴り上げた。
右腕から噴き出した熱量が、プレートを一瞬で赤熱させ、強力な電磁場を形成する。
直後、放たれた数百の弾丸が、磁気反発によって軌道を逸らされ、周囲の壁を無残に削り取った。
「分析……完了」
俺の瞳の奥で、赤い文字列が高速で流れる。
自律ポッドの制御アルゴリズム……攻撃パターン……姿勢制御のクセ》。
脳が自動的に最適な「破壊手順」を導き出していく。
俺は熱に浮かされたような足取りで、弾丸の雨の中へと踏み出した。
一機目。
右側のスラスターが姿勢補正のために噴射する、その一ミリ秒の隙。
俺は掌から熱線を放ち、そのセンサー部をピンポイントで焼き切った。
視覚を失った機体が壁に激突し、激しい火花を散らして沈黙する。
二機目、三機目。
俺の右腕が描く赤い軌跡は、精密なレーザーカッターのように正確に敵の急所を捉えていく。
「ハルト! 後ろだ! 本隊が来ぞ!」
リュウの悲鳴に近い警告。
崩落したハッチの向こうから、純白の装甲を纏った人型の影が複数、光学迷彩を解除しながら現れた。
執行官直属の特殊戦術部隊。
彼らの手には、生体エネルギーを強制的に中和する「分子振動抑制銃」が握られていた。
「対象の熱源反応、臨界を維持。これより第三段階拘束プロトコルを開始する」
兵士たちのヘルメットから、合成音声が重なり合って響く。
彼らの動作には一片の感情もない。
ただ効率的に、排除すべきノイズを消去するためのプログラムとして動いている。
銃口から放れたのは、目に見えない高周波の衝撃。
それらが俺の右腕の熱と干渉し、激しい音を立てて空間が震える。
俺の腕の赤い光が、強引に抑え込まれ、暗く沈んでいく。
同時に、全身の血管が内側から凍り付くような、形容しがたい不快感が襲った。
「……っ、が……!」
膝を突き、床を掻き毟る。
出力を奪われ、能力が急激に低下していく。
世界が再び、ただの暗い廃墟へと戻っていく。
科学の力によって、俺の「特異点」が封印されようとしていた。
「チェックメイトだ、不純物。その力は我らの管理下で再構築される」
兵士の一人が、俺の頭部に銃口を突きつけ、固定した。
冷たい金属の感触。
死という物理的な終焉が、すぐそこまで迫っている。
だが、俺の脳は、まだ諦めるな!と叫んでいる。
自分自身に出力が足りないのなら、外部からの物理的圧力を「燃料」に置き換えればいい。
俺は歪んだ微笑を浮かべ、胸部中心――心臓に位置する場所に意識を集中した。
外部からの抑制波をあえて受け入れ、内部で加速させる。
作用と反作用。
秩序による圧力が高まれば高まるほど、反発するエネルギーは指数関数的に増大していく。
「なっ……!? 抑制フィールドが逆流している! バカな、熱源出力が……計測不能だ!」
兵士の声が驚愕に裏返った。
俺の全身から、眩いばかりの白熱した光が溢れ出す。
「撤退しろ! 全部隊、退避――!」
司令の叫びも空しく、俺の右手から熱放射が炸裂した。
特殊兵士たちの装甲が紙細工のように融解し、処理場の堅牢な壁がドロドロのマグマへと変貌する。
最新の科学兵器たちが、物理法則の極限を超えた熱の前に、ただの鉄屑へと還元されていく。
爆煙と熱気が渦巻く中、俺は|ふらつきながらも立ち上がった。
右腕の光は一時的に収まった。
「リュウ、行こう。ここから脱出だ!」
俺は呆然とするリュウの手を取り、溶け落ちた壁の向こう側――地図にない未知の下層領域へと足を踏み出した。
(第 6話に続く)