番外中編 ある公爵令嬢の激動 完
自分で「十七歳の立派なレディ」と言いながらも、勤めを嫌がってカーテンの裏に隠れるなんて幼稚なことをしてしまったのを謝るのは、とても恥ずかしかった。
けれど自分のしたことで迷惑をかけて、心配させたりしたことは事実だから、ちゃんと謝る。
「ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした、大神官さま」
「ああ、ああ、そうかしこまらんでよい、巫女や」
ふさふさした白い眉を困ったように下げて、大神官が言う。
「わしの方こそ、すまなんだなぁ。伝え聞いた巫女について知り、書物の中にあるものはみな読んだと思うておったが、それゆえにわしはそなた自身を見ることをおろそかにしてしまったようだ。
これからはもっと、そなたに合ったやり方を探してゆこうな。そなたもわしに、どうするのが良いと思うか、些細なことでもかまわぬ、気兼ねせず教えておくれ」
そしてにっこり笑って、謝る私についてきてくれたクライヴを示して言う。
「おお、もちろん、わしに直接言いにくければ、クライヴに話すのでも良いぞ」
どうしてここで彼の名前が出てくるのだろう。
訳が分からず、好々爺の笑みを浮かべる大神官から、一歩下がったところに控える聖騎士を振り返る。
彼は一瞬、精霊神殿最高位の老人を何か言いたげな顔でちょっと睨んだような気がしたけれど、見間違いだろうか。
次の瞬間にはもういつも通りの穏やかな表情で、平然と応じた。
「いつでもどうぞ、巫女さま」
何と言えばいいのか分からず、私は曖昧に頷いた。
大神官はクライヴに話すのでも良いと言ったけれど、最初から寛容な態度で私を導いてくれる経験豊富な先達を、信用しないわけがない。
急遽、休養日とされたその日の翌日から、私は大神官といろんなことを話した。
そうして話をしていくうちに、私が一番力をうまく発揮できるのは、女神さまのもとに降る光の雨を見ている時だということが、だんだんと分かってきた。
おそらくよほど遠く離れなければ、私は女神さま……、ではなく、竜胆の宮の姫君のもとに降る光の雨を、見失いはしない。
あれほど惜しみなく絶え間なく降り続けるものを、他の誰もが視えないというのが、私には理解しがたいほどに美しく豪奢な光景なのだ。
そして、その光の雨を間近で拝することによって巫女姫となったと思しき私は、同じ光景を見ることで精霊に近付きやすくなるようなのだ。
それが分かると、精霊神殿の中でもっとも高い塔の最上階が改装され、皇宮殿に向かう一面の壁を取り払った特別な部屋が用意された。
私はその部屋の中央に敷かれた絨毯に座し、竜胆の宮の姫君に降る光の雨を遠く見つめながら、自分のもとにも気まぐれのように降る光の雫に触れ、そこに意識を寄せてゆく。
一度は聖殿でできたことだからか、コツを掴めるようになると、私はだんだんとその手順に慣れていった。
まだまだうまくできない日も多いけれど、うまくできる日は意識が精霊たちの流れに近付き過ぎて、自分の体に戻るのが難しくなるほど集中してしまうこともある。
そういう時はたいてい大神官が呼び戻してくれるのだけれど、なぜか二度ほど、目が覚めるとクライヴに抱きかかえられていたこともあった。
精霊の流れに近付き過ぎた後はたいていぼうっとしてしまうので、何がどうしてそうなったのかは、よく分からない。
ただ、クライヴの声はなぜか夢うつつの中でもよく響いて、彼に「フィーユ」と呼ばれると、私は思わずその姿を探してしまい。
彼に「おちびさん」と呼ばれると、ムッとして「違います」と抗議するために起きてしまうのだ。
本当に、十七歳の女性相手に「おちびさん」なんて、失礼にも程があると思う。
前にそう呼ばれた時、自分が幼稚なことをしていたのを、認めないではないけれど。
それでも、だからといっていつまでも「おちびさん」呼ばわりするのは、意地悪ではないだろうか。
一度、そう言ったら、クライヴは急に距離を詰め、なぜか泣くような目でささやいた。
「それなら、おれにそう呼ばせる前に、戻ってください。あなたがいるのは“ここ”です。あなたは精霊ではなく、人なんです。……だからあまり、精霊に心を寄せないでください。ここに、いてください」
あまりにも真剣なその眼差しに、何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。
そして彼は私が頷くのをじっと見つめると、何事も無かったかのような顔でまたいつもの“聖騎士”の距離に戻った。
不意に、理解する。
あまり精霊に近付き過ぎると、巫女姫は人ではなくなるのだと。
巫女姫が生きるのが下手なのは、もとから人よりも精霊に近いからなのだと。
きっと、だから巫女姫は精霊を視る。
だから、早逝する。
精霊になるのに、人の肉身は不要なものだから。
でも、私には人の肉身が必要だ、と思う。
だって、そうじゃないと「ここ」にいられない。
そうなったらきっと、あの人は本当に泣いてしまうんじゃないかと、心配で。
そこまで考えて、ふと我に返り、思わず火照った顔を両手でおおい隠してうめいた。
思い浮かべた“あの人”が、どうして彼なのか、私はだんだんと理解しつつある。
しばらく前は、たぶん違うだろうと、思っていたのに。
そのせいか、理解しつつあっても、心の中で抵抗する。
私が人でいたいのは、他にも理由がある。
一番末っ子の私が早逝してしまったのでは家族が悲しむし、大神官だって他のみんなだって、きっと悲しむだろうから、と。
巫女姫として未熟すぎる私は、先のことを考えるのが怖くて、誰にも言わないまま心の中でそうして抵抗していた。
そんなある日、竜胆の宮の姫君が、皇帝の妃、皇妃となるための華燭の典に招かれたと、大神官から告げられた。
「無理です~! 遠くからお姿を拝見するだけでも恐れ多いのに~! 直接お会いする時間が設けられたと言われても、そんなの無理です~!」
恥も外聞もなく泣きじゃくる私に、大神官が目を細めて言った。
「懐かしいのぅ。そなたがはじめて神殿に来た時も、そう言うて泣いておったのぅ」
「覚えていらっしゃるなら大神官さまから無理だと伝えてください~! 前の時のあの失態……! 今思い出しても死にそうなのに~! もう今度こそ、本当に無理ですから~! どうぞお許しください~!」
「巫女姫として見違えるほど成長したというに、これを見るとまるで最初の日に戻ったようじゃのぅ」
ほっほっほ、と笑った大神官は「しかしお断りするのは無理じゃ。お会いするしかないゆえ早めに諦めておくれ、巫女や」とサックリ言い、さらにとどめを刺すような言葉を追加してくる。
「そなたには言うておらなんだが、これからは儀式で定期的にお会いすることになるでの。まあ、ゆっくり慣れてゆこうな」
「て、定期的にお会いする……っ?! め、め、め、女神さまに、定期的に……っ!!」
あの御方に近付くことさえ恐れ多いのに、お会いする機会がある。
しかも、定期的に。
思わず「あうう~~~」とえぐえぐ泣きながら倒れ伏した。
嬉しいのか辛いのか分からないが、とりあえず無理、と思う。
巫女としての経験が浅かった時でさえあの醜態なのに、今はさらに精霊に触れる鍛錬をしている最中なのだ。
こんな状況で女神さまの近くになんて行ったら、あの光の雨……、いや、滝のごとく天から降り注いでやまない無数の精霊の流れに圧倒されて、また醜態をさらすに違いない。
私はあの御方にまた会える、という喜びと、醜態をさらす恐怖で大混乱しながら、泣き伏したまましばらく動けなくなった。
巫女姫として見違えるように成長した、と言われても、私の中身なんてこの程度である。
いつも親身になって世話してくれる女性神官たちが「今度こそきっと大丈夫」と励ましてくれたけれど、ぜんぜん大丈夫な気がしない。
また醜態をさらし、あの女神さまに今度こそ失望の目で見られたら、と思っただけでもう今から気絶できるくらい大丈夫じゃない。
けれど周囲の準備はどんどん進んでゆき、私は式典用の巫女装束を仕立ててもらって、ついに訪れた華燭の典の日、質素だけれど美しい白一色のそれを纏う。
「服よりも白いお顔をされてますね、巫女さま」
謁見のために用意された広間のそばの客室を控えの間として与えられ、そこに入ると今にも倒れそうな私を見かねて椅子に座らせたクライヴが、からかうように言ってくる。
しかし、今日ばかりはまともに返事をすることもできない。
大神官は華燭の典のもっと本格的な儀式で重要な役目を担わなくてはならないために、ここにいる精霊神殿の代表は私一人である、という責任もあり、ずっしりと体が重たくてたまらない。
それをどう思ったのか、彼の他にも同行している神官や聖騎士たちが目くばせを交わし、何人かが部屋の外へ出る。
私はまともにそれを認識することもできなかったけれど、ふとそばに膝をついて座り、膝の上で重ね合わせたカタカタと震える手が他の誰かの手におおわれたのを感じて、のろのろと顔を動かした。
普段ではありえないほど近い距離に、クライヴが膝をついて寄り添っている。
その大きくてかさついた分厚い手が、私の冷えきった手をあたためるように包み込み、その体温に思わずちいさな吐息がこぼれた。
「傍にいる」
低い声で言われたその言葉に、涙が出そうなほどの安堵を覚えた。
「おれがずっと、傍にいる。フィーユ、だから、大丈夫だ」
断言して、クライヴがふと笑う。
「いつ転んでも、気絶しても、床にぶつかる前に絶対におれが受け止めてやるから、安心してぶっ倒れてこい」
最初から倒れる前提なんて。
ひどいわ、とつぶやき、けれど思わず私も笑ってしまった。
そうして、膝の上で震えていた手が、いつの間にか彼の指をすがるように掴んでいることには、気付かないふりをした。
それからしばらく後に訪れた謁見の時、前よりだいぶ良かった……、と思いたいけれど。
やはり女神さまのお顔はまともに見られず、さんざん練習してきたご挨拶は噛みまくり、どうにか「これだけはなんとしても!」という気迫で頭に叩き込んできた祝福の言葉だけは、うわ言のように述べることに成功はしたものの。
「次の儀式の時に、また、お会いしましょう……! それまでに、なんとか、泣かないよう、修業、してきますから……!」
何か一つでもこの女神さまのお役に立ちたい、という思いが暴走してうっかりそんなことを口走ったためか。
「無理しないでね」
ひぃ……!
女神さまが私にお声を……!!
というショックで腰を抜かし、後はもう言葉など出てこず、ひたすらに泣きじゃくる私を約束通りクライヴが抱きあげての退席となった。
女神さまのお声は天上の楽の音色を思わせるほど美しかったけれど、それだけでもただの人にすぎない私には刺激が強いというのに、追い打ちをかけるように声をかけられた途端に精霊の雨の勢いが増したのだ。
すさまじい勢いで天から降り注いで大地へ散ってゆく、精霊の奔流に魂を持っていかれないようにするだけで精一杯で、もう何もできず、何も分からない。
女神さまからいくらか離れて後、ようやく我に返った私は申し訳なさすぎて命を捧げたくなったけれど、そんなもの捧げても迷惑になるだけですからやめましょうね、とクライヴに止められた。
思っていたことがいつの間にか口から漏れたらしく、帰り道は延々とそれを繰り返していた。
そして神殿に戻った後、同行した神官たちが口々に女神さまと皇帝陛下の衣装の素晴らしさ、とてもお似合いでこの上なく優雅でいらっしゃった、と語るのに歯噛みした。
女神さまが神々しすぎて、私にはまともにあの御方を直視することができないのだ。
だから衣装など裾をほんのすこし拝めれば良い方で、全体像などとても目に入れられない。
そのことが悔しくてたまらず、どんなお姿をなさっておいでだったのか、なぜか謁見の主役であったはずの私が、それに同行した神官や聖騎士たちを細かいところまでしつこく問い詰める、という妙な図式になった。
そしてあまりにもしつこく問い詰めたせいか、みんな最後にはクライヴに返答役を押し付けて「あ、私ちょっと仕事が」とか言いながら逃げてしまったので、思いがけず部屋に二人きりになる。
そのことに、ふいに距離を詰めて謁見の前の時のように私の傍で膝をつき、今度は真正面から見上げてくる彼の目を見て気付く。
「フィーユ。ずいぶん熱心に聞いていたが、皇妃陛下の花嫁衣装、そんなに羨ましかったのか」
優しく甘いようでいてみょうに迫力のあるその眼差しにとらわれ、うまく息ができない。
答えられない私の手を取って、クライヴが言う。
「いつかおれのためにそれを着てくれと頼んだら、許してくれるか?」
巫女姫としてまだ未熟すぎるから、と言い訳をして、先のことを考えないようにしてきたのに。
急に突き付けられた未来とその言葉に声を失い、とっさに引こうとした手はクライヴの太い指に絡めとられて、ほんのすこし動かすことすらできない。
「最初は急に重い役目を負わされた年下の女の子として、気の毒に思っていただけだった。おちびさんと、呼んだのは自分には遠い存在だと己に言い聞かせるためもあった。他の聖騎士たちと同じような距離で、ただの護衛役に徹しようとしたこともあった。だが全部、無駄だった。
フィーユ、あなたがかすみ隠れの時、おれだけに姿を見せてくれることにどれだけおれが歓喜していたか、気付いていたか? あれがおれの、離れようとする努力のすべてをとかして無駄にしたんだ。
だからおれは諦めるのを諦めた。これまで早逝する巫女姫が多かったために数は少ないが、精霊に取り込まれず人として生き続けた巫女姫が、聖騎士と婚姻を結んだ前例がある。おれは、それを狙うことにした」
なにもかもが初耳のことで、目を丸くする私に、「根回しは最終段階に入ってる」と告げるクライヴは悪びれない。
「フィーユはそういう話に疎いからな。外堀を完全に埋めるまでは何も知らないままで自由にさせておくつもりだったが、いいかげんおれの方が限界だ」
いつになく鋭く底光りするクライヴの、獣のような目に見つめられ、全身が火照る。
猛獣の獲物になったような気分になるのと同時に、なぜか自分がとても強い力を得たような気がするのは、どうしてだろう。
「許すと、言ってくれ、フィーユ」
大きな手にとらわれた私の手をゆっくりと引き寄せて、跪いたクライヴがその目に獣を宿したまま恭しくその甲にキスをする。
あたたかく柔らかく濡れたそれが触れる感覚に、ぞくりと背筋が震えた。
「おれは、フィーユが、欲しい」
あまりにも生々しく鮮烈なその眼差しと言葉に、どうしてか、ずっと前に一度だけ見た泣きそうな目が重なった。
ここにいろ、と切なく胸をかきむしるような声で言った時の、彼の顔が重なった。
それと同時に、カッと頭に血がのぼった。
きっと彼は私の返事なんてお見通しで、最初から分かっているに違いないのに、どうしてこんな試すようなことを言うのだろう。
いつも私で遊ぶようなことをする人に、どうして私は恋なんてしてしまったんだろう。
猛烈に腹が立つのに、嬉しくてたまらないのがわからない。
彼に対する気持ちを、私はずっと、わからない。
「答えが、欲しいなら」
混乱を抱えたまま、私はひそやかに胸を躍らせながら、できるだけ余裕に見えるようにっこりと笑った。
「私を、捕まえて」
そして、わずかに力の抜けていた彼の指からするりと自分の手を引き抜き、はじめて彼にも見えないようにかすみ隠れを発動させた。
意図的にそれをするのは初めてだったけれど、案外と簡単にできてしまったことにドキドキしながら、一瞬にして私の姿を見失った彼のそばから素早く離れて逃げる。
夢の中にいるように足取りは軽く、雲の上にいるみたいに転ぶことなく私は走った。
今すぐに捕まえてほしいような、けれど永遠に掴まりたくないような、矛盾した気持ちを抱えながら。
数分後、「フィーユ」とただ名を呼んで、姿が見えているかのように手をのばした彼に庭園の木陰からすくい上げるように抱きあげられて捕らえられ、「あなたのお気に入りの場所でおれが把握していない所があるなどと、まさか思ってはいませんよね?」なんてささやかれるとは、まるで予想もせず。
軽やかな足取りで走る私は、自分がこの上なく幸福に微笑んでいることに、気付いていなかった。
2019年3月9日、番外更新完了。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。