私の知らないエピローグ
今日は夏が来たような気温になった。
この北国でも、6月は梅雨のように長雨が続き、空気はむせるほどの湿度に満ちている。
街路樹の幹には、緑色の苔が生える有様だ。
そんな中、私はいつものように喫茶店への道を急いでいた。
今日はバイトの日だ。
だけど委員会が時間がかかってしまって、先に記石さんに知らせていた時間よりも遅れてしまっている。
あらためて遅れていることを知らせ直したし、記石さんは気にしなくていいと言ってくれたけれど、やはり気が咎める。
なので急いで走っていると、誰かに呼ばれたような気がした。
槙野君の声に似ていた気がする。
でも不思議と、気にならずに私はそのまま走り続けた。
汗でシャツが肌に張り付くのが気持ち悪い。着替えを持ってきているので、お店に行ったら汗拭きシートで一旦汗を拭って、乾いたシャツを着て爽やかな気分になりたい。
その気持ちがより強くなって、私は足を止める気にはならなかった。
少し前までの自分だったら、間違いなく立ち止まっていたんじゃないかな。
それぐらい私は、槙野君に気持ちを引かれなくなっていた。
それにしても最近こういうことが多い。
誰かに呼ばれた気がする、ということが。
だけどすぐに、もっと気になることを思い出す。
「最近、連日バイトに入ってくれって言われるようになったけど……」
お店はいつもどおりに閑散としていて、たまに二~三人のお客がいるだけだ。
特に忙しいわけではないが、記石さんが私がいると出かけるようになった。
「外出の用が重なったのかな?」
それならそうと言えばいいのにね、なんて思っている間に、喫茶店に到着した。
四時を過ぎているので、どのお店もお客がいない時間だ。この喫茶店も例にもれず、ただでさえ少ないお客が一人もいない。
外側からその様子をちらりと見てから、裏口へ。
「こんにちは、出勤しました」
そうお店側へ声をかけると、振り返ったのは記石さんではなかった。似ているけど雰囲気がこう……より艶っぽい感じがするので、間違いなく柾人だ。
人のふりをしている鬼は「来たか。客はいないからゆっくりしていいぞ」と言ってくれる。
「ありがとうございます」
礼を言いながら店のバックヤードにある着替え用の部屋に引っ込んだ私は、首をかしげた。
柾人を店番にして、記石さんが留守にするなんて珍しい。
***
彼女を呼び止めようとした彼は、今日も走りすぎるその背中を見送るしかなかった。
でも今日こそは。
もう時間がないのだ。だからその背中を追いかけようとして……。
「そこまでですよ」
肩に手を置かれて、彼は驚いて振り向く。
全く気配を感じさせないまま、自分に近づいていたことが信じられなかった。
「そう驚くことではありませんよ、槙野さん」
槙野の気持ちを見通したように言うのは、茶色みの強い髪の青年だ。自分よりも何歳も年上だということは知っている。
教室でしか話せない彼女から、なんとかそれを聞き出すことができたのだ。
いや、話を振った後、彼女の側にいた友達が口を滑らせたおかげか。
名前は聞きそびれたことが苦々しい。名前さえわかれば少しは……。
「あなたは誰ですか。どうして僕の名前を知っているんですか」
立ち止まった槙野の肩から手を離し、その青年は答える。
「もちろん、美月さんに聞いたからですよ。そしてずっと見ていたからです。彼女の周囲を」
一度言葉を切って、数秒置いてから青年は続けた。
「美月さんにあんなにも鬼ばかり関わって来る、元凶を探すために」
「鬼? 元凶? 何のことだ?」
槙野は一歩後ろに下がった。
だめだ、この男は危険だと感じる。
今すぐ逃げてしまいたい。でも、鬼と言いながらもこちらのことを全ては知らないだろう。きっと鎌をかけているだけのはず。それなら、穏便に離れなくては。
「よくわからないが失礼な人だな。それに鬼だなんて時代錯誤な……」
「最近、不調のようですね」
青年はじっと槙野を見つめたまま言う。
「試合でもなかなか成果を出せず、テストでも点数が下がる一方のようで。そしていつもぼんやりしていることが多くなったとか」
槙野は青年から目をそらせなくなる。
「急に不調に陥る人の場合、鬼を使っていることが多いものなのですよ。なにせ自分の実力に、鬼の力を上乗せしているわけですからね」
「な、何を根拠にそんな夢みたいな話を……」
槙野は焦った。そうして、青年に気取られないように、自分のポケットに手をしのばせる。指先に触れるのは、小さな木片を繋いだブレスレットだ。
青年は槙野の返事を気にもせず続けた。
「美月さんにそれとなく確認してみれば、あなたの周囲には病む人が多すぎる。最初は自分のライバルだった相手。それがほとんどいなくなると、なんでもいいからと思ったのか……自分に気持ちを向けている女性達を使うことを思いついた。そうではありませんか?」
「女性を使うってどうやってだよ。本当に変な人だな。気持ち悪くて関わりたくない」
槙野は怒ったふりをして、青年から離れようとした。
「おや、お帰りですか」
青年は槙野が諦めて帰ることにしたと勘違いしたようだ。
槙野は『かかった』と思った。
背を一度だけ向けた後で、すぐに手に持ったものを投げつけるため振りかぶって――。
「まだまだですね」
いつの間にか距離をつめていた青年が、槙野の手を掴んでいた。
驚いている間に、持っていた木片をつなげたブレスレットを取り上げられてしまう。
しかしその瞬間、密かに槙野は喜んだ。
――それに触れさえすれば、こちらの鬼に相手は影響される。
今までだってそうだった。
通りすがりにぶつかったフリをして。手にブレスレットとして身に着けた状態で、肩や腕に触れるだけで、相手はじわじわと自分の中に――鬼を産み出す。
だから冷静に言った。
「返してくれ」
手元に戻りさえすればいいのだ。しかし青年は薄笑いを顔に浮かべた。
「いいえ。あなたの鬼ともども、依り代のこれも私が頂きますよ」
「なっ……!?」
槙野は背筋に鳥肌が立つ。だめだ。この青年にあの木片を渡してはならない。
「鬼よ、そいつを食え!」
槙野がそう言ったとたんに、木片から白い影が湧き上がる。
その影は大きな死神の持つような鎌を振り上げたような形だ。そして生き物のように動き、その鎌で青年の首を刈り取ろうとする。
しかし青年はふと笑った。
振り下ろされる鎌を、片手を挙げて刃を受け止める。
そのまま静止した白い影は、青年の指先に手繰り寄せられて紙のようにくしゃくしゃと丸められていく。
「あ……あ……」
最後には白い丸めた紙ごみのようになったそれは、青年がふっと息をふきかけると消えてなくなった。
呆然とする槙野の前で、青年は微笑んだ。
「さ、あなたの中にある余計な記憶をいただいていきましょう。うちにお腹をすかせている犬がいるもので。いい栄養になってくれると期待していますよ?」
***
十分ほどで、記石さんが喫茶店に戻って来た。
記石さんは店に入ってくるなり、手に持っていた本を店内の書棚に収めた。
私はテーブルを拭いていた手を止めて尋ねる。
「新しい本を買ったんですか?」
鬼が記憶を奪った相手の物語ばかり並べているわけではない。普通の本も置いているのだ。そういうものは、たいてい記石さんがふと思い立って買ったものが多い。
だけど記石さんは首を横に振った。
「いいえ。人から譲っていただいたのですよ」
彼はそう言って、楽し気に微笑んだのだった。




