『燻り』
ランバルト王はエステドーナから一路王都ユニオンまで撤退し、後には傷付いた軍団が残された。サンタレン湖畔で甚大な被害を受けたプロキオン軍も残兵と合流を果たしたが、それでも尚軍勢は半壊していた。
ランバルト撤退後、全体の指揮を執ったのはヒュノーであった。能力や立場から他に適任はいなかった。ただ本来指揮を引き継ぐに足る人物としてリンガル公ジュエスがおり、驚くべき事に右腕を失う重症を負っても彼は戦地に留まる事を選んだのだが、その状況では流石に全軍の指揮までは不可能だった。
本隊の敗北は事実上遠征の失敗を意味していた。セファロス軍を撃破しうる可能性のある部隊は他戦線には存在しないからだ。セレーノ方面軍も包囲を解いて本隊残余と合流し、より防御力の高い国境沿いの城塞テュリオイへと下がった。ペラール方面から攻勢を掛けたサロネンス派も引き潮の様に退いていった。獲得した土地は全て放棄する羽目になった。
ディリオン王国によるメガリス侵攻は失敗に終わったのだ。
◇ ◇ ◇
支配者の敗北。それは平民にとっては新たな支配者が登場する前触れに過ぎない。それを力無き者、貪られる者達には拒否する事は許されない。
だが力さえあれば。そう、力さえあれば、何者をも拒絶し捻じ伏せることは出来るのだ――――
◆ ◆ ◆
【新暦674年8月 ロック】
王都ユニオンに遠征失敗の報が齎されようとしていたその頃、フェルリアのとある地方ではそういった状況など我関せずとでも言うかのように一つの神殿が建てられていた。
豪勢かつ荘厳な造りを施されたその建物の正体は、冥神を祀る神殿であった。
その後もロックの布教により狂信者達はさらに増え続ける事となり、今では膨大な数となった。そして彼らの力により建立された冥神の神殿内には、支配地域からの貢納、税金、戦地での略奪品、信者からの寄進などの財貨が蓄えられていた。
それらは無論、領民や信者への物質的還元などに使われる事は無く、全て冥神の布教の為に使われる名目となっている。
否、正確には一人の神官を名乗る男の我欲の満たす為だけにと言うべきであろうか。
そしてその日、まだ建てられて間もない神殿では領民や信者を招き、集会が行われた。
その集会は神殿の最奥の広間で行われ、広間の最上座には教祖である神官ロックが座り、その背後には普段と同様に寄り添うようにしてピラが静かに佇んでいた。
彼の眼前には大勢の領民や信徒達が皆一様に低く跪き、時折両手を高く掲げ彼を神の如く崇めていた。その光景にロックは満足げに目を細めた。
「冥神の忠実なる信徒達よ。お前達の働きにより我らが神聖なる神、冥神は心からお慶びになられている」
神官の言葉に信者達の間に感嘆や驚きなどのどよめきが湧き起こった。
ロックはそれを手で鎮めると、さらに厳粛に言葉を続けた。
「だが、真の御慈悲を求めるならば、今より更なる布教を広めよとも冥神は仰せになられた。即ち冥神の御言葉に従わなければ、やがて訪れる救いの道も閉ざされる事となるであろう。そうだな、ピラよ。お前も同じ考えであろう」
「は、はい、御使い、さ、様」
ロックの言葉にピラは頷く。
信徒達からは“巫女”として扱われているピラであったが、最早その顔は決して真面ではなかった。従順にロックに付き従っているように見えるが、実際は廃人のようにぶつぶつと何かを呟いているのみで、精神が壊れた抜け殻のような状態となっていた。しかし愚かな信者達にはそれが神秘的な姿に映るらしく、ピラの言葉を聞くと信徒達からはさらに感嘆の息が溢れた。
「この程度の財貨ではまだまだ足りぬ。以後も冥神の御慈悲を讃える為、この神殿に供物を捧げ続けよ。さすればやがて我らに救いの時が訪れよう」
「おおお、冥神の御慈悲を!」「御慈悲を讃えよ!」
「冥神のご慈悲を讃えよー!」「我らが救いの神よー!」
神殿内に信者達の熱い叫びが響き渡る。あまりの威力に神殿そのものが軋み揺れるかのようだった。
皆狂気的に一様に声を張り上げる集団の最前列にはネアルコスの姿もある。
本来であれば彼らを支配し、この神殿に捧げられたあらゆる財貨は彼の手に渡るべき物であるはずだった。
しかし彼は冥神の御使いであるロックを妄信していた。
この動乱の世を生み出した元凶、弱者を使い捨て、弱者を苦しめるばかりの太陽神の手先である現政権を崩壊させるべきと考えている。
それがやがては弱者を救うこととなり、自身が目覚めたという冥神の教えに従うこととなり、そしてこの世が救われると考えているのだ。
熱心な澄んだ目でこちらを真直ぐ見つめてくるネアルコスに笑みを浮かべて見せながら、ロックは内心で嘲笑った。
――本当に、何て馬鹿な奴なんだ。お前も、お前らも――
そもそも、流れの傭兵であるネアルコスの様な輩が世に溢れ、気ままに力を振るうからこの世は地獄なのではないか。自分たちこそが元凶だというのに、どの面下げて世の為人の為などとほざくのだろうか。
ロックは目の前で愚かにも騒々しく勢いに湧く信者達にも笑みを向けた。
だが、――これを進めていけば!もっと大きな力も得られる――とも同時に感じていた。
二度と貪られる立場になどなるものか。この程度ではまだまだ冥神も、そして俺も満足はできない。
可愛くも愚かで従順な信徒達。もっと俺の為にその全てを捧げて見せろ。
神の為に、そして救済の為に掻き集めて来い。全てが俺の力になる。その力でお前達を助けてやる。神なんぞ心から信じている実に哀れで愚かなお前達をな。
そしてロックはこちらを何も言わずに見つめてくるボーマンの幻を一瞥する。
――お前も喜べよ。お前が死んでくれたおかげで俺はここまで辿り着いたんだからな。これもお前の犠牲のおかげだ。だから素直に喜べ。そんなしけた面を俺に向けるな――
ロックは自身だけにしか見えていないボーマンを心の中で足蹴にし、椅子から立ち上がると手を高く掲げた。
「さあ忠実なる信者達よ。今宵も冥神に祈りを捧げようではないか。この動乱の世に踏み躙られている多くのか弱き者をお救い下さるよう、そして従順なる我らに救いの道があらんことを」
「ああ、冥神様」「我らをお救いください」
「ご慈悲を讃えよ」「慈悲深き我らが神よ」
ロックの言葉に従い、信者達は再びその場に膝をつくと切々と祈りの言葉を呟き始めた。
背後でも同じようにぶつぶつと祈りの言葉を呟いているピラの声が微かに聞こえてくる。
正直耳障りでしかなかったが、今回だけは大目に見てやることにした。何故なら今はとても気分が良いからだ。
ここは神を祀る神聖な社殿であるが、実際はロックにとっては自身の根城である。ここからさらに救いを求める奴隷や平民達を集め、もっともっと大きな組織を作り上げていく。それは決して弱者を救うことには繋がらないが、自分自身がかつて味わった貪られる側の思いを二度と味わう事の無いよう、そして貪る側に居座り続けるために、ロックは更なる野望に心を燃やすのであった。
◆ ◆ ◆
◇ ◇ ◇
王都に"逃げ帰った"ランバルトに対して人々は反応を示さなかった。心の内では思う事は多々あろうが未だランバルトの恐怖の呪縛は弱いものでは無かった。ランバルトの方も姿を現さず宮廷へ篭り、人々への懐柔に努めようなどとは微塵もしなかった。
セファロス率いるメガリス軍は国境沿いで停止し攻勢の予兆を見せていないのは幸いだったが、それも一時的な休憩でしかないだろうと人々は思っていた。いや、誰よりもランバルト自身が強くそう認識していただろう。
そして恐れは何よりも人を突き動かす。例えそれが崖から飛び降りる様な自殺行為であったとしても―――
◆ ◆ ◆
【新暦674年9月 王の執務室 宰相フレオン】
夜が深まり誰もが寝静まった時分。
重々しい静寂の漂う王の執務室にはその部屋の主とフレオンの姿があった。
フレオンの正面に座るランバルドの表情は冷たく、迂闊な発言をしようものならその琴線に容易に触れることになりそうな危うい気配が十二分に漂っていたが、しかしその表情には肝要の力強さがまるでなかった。
それは心の支えを失い茫然自失となった敗者の顔そのもの。
フレオンは哀れむようにその姿に目を細めた。
――何ともわかりやすい。かつての覇気は最早失われたようだな。……まあ、"どんな強固な岩にもヒビはあるものだ"――
顔の前で組んだ両手で口より下の表情を隠しているランバルトはフレオンを見てはいない。
まるでここにはない何かを見ているように冷徹な眼差しに虚ろさを漂わせ、虚空を静かに見据えている。
その表情から時が満ちたことを感じつつ、フレオンは冷静にランバルトに問いかけた。
「陛下、ジュエス公の処遇、如何致しましょう」
「……処遇?」
少し反応が遅れるように間を開けてランバルトは問い返した。
そのようなことなど今まで頭に無かったと言わんばかりのあからさまと取ることのできるほどまでに手応えのない反応である。
しかしフレオンはそれに構うことなく冷静に言葉を続けた。
「彼は勅命に背き、陛下と軍を危機に陥れ、挙句独断で戦い敗北しました。これだけでも十分処断に値いたします」
「……奴のことなど今はどうでもいい」
ランバルトは煩わしげにそう言い捨て目を背けた。
それは無理もない反応と言えた。
このディリオン王国擁するすべての兵力を動員し行われた今回のメガリスへの親征は完膚なきまでに大敗を喫し、しかも敵前逃亡さながらの撤退を行った国王を差し置き単身メガリス軍と孤軍奮闘。それにより己の右腕と彼の愛する腹心の将を一人失ったのだ。
それでも尚彼はいまだ国境へと留まりメガリス軍の侵攻に備えている。無謀とも投げ遣りとも取れる行動ではあったが、同時に勇猛果敢とも取れるその姿勢に多くの者が敬意を払い脱帽をしたに違いないからだ。
――それに引き換え国王はこの有様だ。誰も顔には出さずとも、その胸中に押し隠す物をランバルトは敏感に感じていることだろう――
故にその話から目を背けたいランバルトの心中は容易に察することができるフレオンであったが、しかしその思いを慮っている時ではないのだとフレオンは怒号を浴びせられることも覚悟の上でランバルトに迫った。
「そう仰るお気持ちは計り知れますが、ジュエス公はサンタレン湖での戦いにて右腕を断たれる重症を負い、そのうえ腹心の将だけでなく多くの兵を失いながらの敗走を喫しました。にも関わらず帰還命令に従うことなく今尚独断により国境へと駐留し、敵軍の侵攻に備えているとのこと。これはいささか不自然な行動とは思われませぬか」
フレオンはその口調を平静に保ちながらも敢えて大袈裟にそう言い立てた。
「それにこれまでにも気がかりな点はございました」
「……何だ」
ランバルトは耳が痛いとでも言いたげに忌々しげに言い捨てた。
「ジュエス公は以前もかのメガリス軍の総大将と直に剣を交えながらも生き残った数少ない勇猛な将。故に今回も己が生き残ると自負していた可能性は大いにございます。しかし本来彼は冷静に戦局を見極め、何を重視し何をすべきかを判断できる智将としての面もあったはず。だのに何故此度はそのような愚行へと打って出たのか……」
そう抑揚のない声音で半ばランバルトの反応を無視するようにつらつらと語り続けていると、ふいにランバルトの顔に怪訝の表情が浮かび始めたのをフレオンは見逃さなかった。
やがてある言葉をランバルトが発するまで一旦言葉を飲み込んだフレオンは、一切視線を反らすことなくその冷徹と怪訝とが入り混じった危うい目を見つめ続けた。
「……フレオン。貴様、一体何が言いたい」
ランバルトが遂にその一言を出し、フレオンは口角があがりそうになったのをどうにか堪えた。
そうして何かを含んでいると思わせる為の十分な間を置き、ランバルトを真直ぐ見つめたまま再びフレオンは口を開いた。
「……わたくしが思いますに、陛下、ジュエス公は」
するとそこで焦らすようにもう一度言葉を切ると、フレオンは詰め寄るように僅かに身を乗り出し、そして低く落とした声でこう告げた。
「陛下の死を望んでいたのではないかと」
フレオンのその言葉を聞くと、ランバルトは驚愕するでもなく激昂するでもなく、その目にさらに深い疑念と今度は殺意の色を露にし、目の前の相手の喉笛に牙を剥こうとする獣の如く静かに目を細めた。
「……ほお。その口振りからすると、以前からお前は彼奴にそういった疑惑の念を抱いていたとでも言うのか」
「ジュエス公の動きが怪しいのは以前から陛下もつとに感じておられた事でしょう」
その指摘にランバルトは何も答えなかったが、記憶を振り返るように目を伏せる仕草と僅かに寄せられる眉間が思い当たる節があることを雄弁に物語っていた。
「あれだけの痛手を負わせられながら、今も尚、彼は国境にあります。彼の命に従う軍と、そして"我々"と対する敵軍と共に」
ランバルトの疑念を煽るため、フレオンはわざとジュエスに忠誠を誓っている彼の麾下の兵たちとメガリス軍とを並べてそう告げた。
そうすることで心身ともに深手を負わされながらも国境に残り、壮絶にも抗戦を続けようとしている勇将という印象から、そう見せかけている裏でメガリス軍と共謀しランバルトの命を狙おうとしている狡猾な反逆者へと変えようとした。
何故ならランバルトが最も恐れているのは過去最大の勢力を率いても手も足も出なかった"軍神"セファロス。
そのセファロスと同じ場所に"裏切り者"がいるという疑念を強めさせるには今のジュエスの逸脱した行動は十分信憑性があるものだった。
「思えば反乱後のメールに復興を支援していたのも、実は彼らの支持を得るためにサーラ様を動かしたのではありますまいか」
これもまたランバルトの疑心を煽るのには効果のある一件といえた。
メールが崩壊したのも元はといえば自身への反逆が招いた結果。それをまるで本人は許さずともその妹の夫である彼はそれを許し彼らを手助けしたと捉えることができる。
「テオバリドの件も………実に怪しい」
テオバリドによる暗殺未遂の事も思い起こさせる。手引きしたのは自分だということも尾首にも出さない。
「そしてミーリア陛下が未だジュエス公に抱く想いは恐らく彼も知っていることでしょう。果たしてそれを利用すればどう出来るか、も」
更にはミーリアが密かに抱き続けているジュエスへの強い思いもランバルトに打ち明けた。
彼女の存在はランバルトにとって王位を得るため、そして子孫を残すための道具でしかないということはフレオンも気づいていた。
しかし彼女が真に想いを寄せている相手こそがジュエスであるとなると、今のランバルトにとっては無視できない事実となるであろうことは間違いなかった。
「血統、業績、人脈。それらを全て含めれば最も王位に近いのはジュエス公だと考える者がいないとは、決して否定し切れますまい」
そうしてジュエスへの疑心を煽る言葉が吐かれる度、ランバルトの瞳は冷たく燃え上がった。その疑い全てを信じている、否、信じたがっているのだ。
それは無慈悲なまでにあらゆる者を切り裂く剣の如くに冷たく鋭くあっても、最早泥の中に埋もれる愚人の嫉みと大差ないとフレオンは感じていた。
しかし今こそそれを利用すべき時であり、フレオンはランバルトの心を最も揺るがす言葉を口にした。
「王位は、陛下の運命は今や危ういものです。いえ、失礼、語弊が御座いました」
フレオンはわざとらしく言い改めた。
「……今はまだ、です」
その思わせぶりな言葉にランバルトは苦渋の表情を浮かべた。
今となっては彼は誰も信用できない状態にある。
それはこのフレオンに対しても例外ではない。だからこうしてランバルトの心をざわめつかせる言葉を吐き続ける彼が実に疎ましく思えてきた。
「危ういというのであれば、危うい要素を取り除けば宜しいのです」
しかしその感情とは裏腹にフレオンの言葉を遮れず耳を傾けてしまう己自身がいた。
「先手を打つしかありません。陛下、これは戦争なのです。敗北は死です」
「……一体私にどうしろと言うのだ」
「陛下、ただ一言仰ってくだされば良いのです。任せる、と」
そう言われ、ランバルトは逡巡するように顔を伏せた。
フレオンの言葉に従うべきか、拒むべきか、激しく揺れるランバルト。
しかしジュエスへの疑心が明確になりつつある彼は今、もうフレオンの掌の中にあるも同然だった。
――さあ、言え。もうそれしか道は無い筈だ――
「陛下。私は味方です」
いつものように平然とした口調でフレオンは甘い言葉を囁く。
ランバルトは意を決したように目を閉じると、低く短くフレオンに答えを返した。
「……任せる」
「……仰せのとおりに。陛下」
ランバルトの言葉に頷き、フレオンは腰を下ろした。
――勝った――
するとそこへランバルトは早速ある疑問をフレオンに投げかける。
「……それで代わりにお前は何を求めるのか」
ほう。流石はランバルト公。わかっておられる……。
フレオンは感心するようにランバルトを見つめた。
「お前の事だ。何も代償を考えていない筈がない」
そこでランバルトは代償で忠誠が買える方がいっそ安心出来る、とは言わなかった。
それを言ってしまえば要らぬ弱みを相手に見せることになるかもしれないと危惧したからであろう。
「では、一つだけ」
フレオンはランバルトの言葉に従い、ある望みを打ち明けた。
己の野望を叶えるための足がかりとするその望みを。
「我が末娘のスコルピアとアルティル殿下の婚約を了承して頂きたく存じます」
予想どおりの反応というべきか、ランバルトはフレオンの要求に大きく瞠目した。
同時にそれでもきっとランバルトは了承するだろうという勝算があった。
ランバルトの関係強化策は意外に単純だったからである。
それはおもに金や土地などの利で釣るか、恐怖で縛るか、婚姻関係を結ぶかだ。
コーア地方放棄で証明したように、フレオンを利で釣るのは確実ではないとランバルトは考えていたことだろう。
まして恐怖で縛るのは本末転倒であり、端から選択する訳がなかった。
そうなると、もうこれ意外に術は残されていない。
さらに残っていないのはランバルトが"使える"婚姻としての駒も同様である。
妹サーラと言う駒は既にジュエスに対して使ってしまい――ランバルトにとっては敵に寝返った――、他の駒は謀反の咎で殺してしまったのだから。
確信を抱いていたフレオンは、ただ静かにその言葉が出されるのを辛抱強く待ち続けた。
「……わかった。その要求に応じよう」
「ありがとうございます。陛下」
ここからは全て私にお任せ下さい。その言葉は敢えて口にすることなくフレオンは立ち上がると、無言のまま浅く頭を垂れ、そのまま執務室を出た。
非公式にではあるが、これでランバルトからジュエス誅殺の許可は得ることができた。
あとはジュエスを罠へと嵌めるのみ。策は――その先の事も――既に練ってある。
自身の執務室へと戻ったフレオンは執務卓に座り、早速あるところへ書簡を出すために粗葦紙を取り出した。
そこに表情を変えることなく筆を滑らせていきながらフレオンは無意識に思考を巡らせた。
――ランバルトは冷酷な独裁者だ。今までは忠実な部下、兄妹、そして理解者がいた。だが、今はもういない。少なくとも彼の心の中には。その隙間を埋めてやるのはこれ以上なく簡単なことだ――
孤独は不安を、不安は怒りを、怒りは憎しみを呼ぶ。
憎しみが溢れれば……人は死ぬ。
きっとランバルトももうじきだろう。そう思うと思わず笑みが漏れそうになったが、フレオンはつい普段の癖で反射的にあがりそうになった口角を無意識に抑えていた。
そしてフレオンはふとランバルトがかつて発したある言葉を思い出したのだった。
――"狂人には狂人の理屈というものがある"――
かの軍神セファロスに向けて放ったその一言。
戦場で戦うことだけを望み、その欲望を満たすことのみに生きる彼こそ正しく狂人と呼ぶに相応しいとフレオンもまたランバルトと意を同じくしていた。
それと同時に何かを切望しながら狂人になりきれない者は、実に哀れだとも考えていた。
言ってしまえばランバルトも自身の想いに固執するなら固執し、狂人の如く狂ってしまえばよかったのだ。
そう思うと自然と呆れとも嘆息ともつかない溜め息が零れた。
さもすれば軍神同様、共に歩く者も理解者も必要とはしなくなるはずなのだ。
きっとそこには孤独も不安も怒りも憎しみもない。
だからこそセファロスはそう、狂っているのだ。奴の中には何もないが、全てがある。自分の言葉ながらまるで意味は分からないが、そうとしか他に言いようがなかった。
そしてそこにフレオン自身の中で新たな疑問が気泡のように浮上してきた。
――では、私は狂人なのか?――
そこで進めていた筆がぴたりと止まり、フレオンの目は書簡より少し上へと移動した。
戦に関する才能は皆無と言っていいほど戦のことには疎いフレオンにセファロスのような武人の考える理屈というものは到底わからなかったが、しかし彼が狂人となったその理由や彼の胸のうちにある思いなどは漠然と理解することができた。
それはフレオン自身もまた他人を陥れ、騙し、掠めとる事に秀でている己の能力を己の欲望のままに使うことに対し全く躊躇を覚えたことがないからである。
まして己の策により味方が減ることや敵が増えることに悩み、不安を抱いたことなど一度たりとてない。
ある者の存在を疎ましく思えば敵対関係にある者を巧みに動かし、利用価値を見出した者がいれば相手が食らいつく餌を用意し味方と思い込ませ懐へと入り込んだ。
人の心など用意に読むことができ、そして動かすことができる。かの軍神の場合は戦場において。フレオン自身の場合は政において。
だからこそフレオンはセファロスが理解でき、そして自分もまた狂人であると自覚することができた。
――そうだ。私は彼と同様、狂っているのだ。では――
しかしそこで不意に疑問が浮かんだ。
――では、私は何を求めているのだ? 何を望んで狂ったのだ?――
そう己に問いかけたが、しかしフレオンは答えを出せなかった。
おそらくセファロスは自分が求めたものを既に知っている。故にその行動には迷いが無く、疑問もない。そして己を満たすために戦いを求め、今尚も戦場をひたすら渡り歩いている。
ならばこれまで策を弄し続けてきた自分自身は一体何を欲し、何を求めてここまで迷うことなく進み続けてきたのか。
今になって明確な理由がないことに不意打ちのように気づかされたフレオンは、思わず茫然と宙を見据えていた。
いつから謀を己のためだけに使うようになったのか。
一体どういった理由があって迷いを捨てたのか。
これからやるべき大きな謀を前にして思いがけない謎に直面してしまったフレオンだったが、結局すぐに答えを出すことはできずそのまま深い夜は夜明けへと近づいていった。
◆ ◆ ◆
そして――――
◆ ◆ ◆
【新暦674年9月 フェルリアの軍営 公ジュエス】
コンスタンスという大きな戦力を失い、総大将自身は右腕を失うという重傷を負ったことでサンタレン湖畔での戦いはディリオン軍の敗北で幕を閉じた。
カッシア、エステドーナに続きまたしても多くの戦力を削がれ大きく戦意を挫かれたディリオン軍は、しかし未だその陣営を前線に置いていた。
単刀直入に言ってしまえば、先のエステドーナでの戦いにおけるランバルト王の撤退こそがこの親征の失敗と終幕を意味しており、これ以上戦っても益など無いに等しいことは誰もが火を見るように明らかと言えることであった。
それでも尚、総大将無きジュエスを筆頭としたディリオン軍がフェルリア地方からの撤収を選ばずにいるのは、単にジュエスの未だ失われる事の無い恐るべき戦意によるものであった。
――まだ王都に戻るわけには行かない。まだやるべきことが残っている――
しかしサンタレン湖からの撤退後も怪我を押してメガリス軍の侵攻に備えるために軍務に駆け回っていた彼を、部下達は不信や反感を抱くどころかただただその身を深く案じていた。特にセルギリウスと軍医はこのまま前線から下がるべきだとしつこく勧めていた。
目の前でコンスタンスが凄惨な殺され方をし、続けざまに右腕を奪われたジュエスの心身の状態は誰が見ても満身創痍に近く、例えかの戦神が取り損ねた首を求めてここへ襲い来るかもしれないとしても彼に今必要なものは休息以外に無かったからである。
「閣下。あれからまだ一度もお休みになられていません。それにその傷ではこのまま動き回り続ればいずれは命に関わることになりますぞ」
いよいよたまりかねた軍医を始めとした部下達がジュエスに嘆願するような形でそう訴えると、ジュエスはとうとう逆らうことができずようやく休息を承諾した。それは後方に下がることを拒否し続けているジュエスなりの妥協でもあり、それで少しでも口煩い部下達が黙るのならばそれに越した事は無かった。
渋々自身の天幕に戻ると、ジュエスは寝台にその体を横たわらせた。深く吐き出される息は体の力を抜くものであったが、その思考は今も忙しなく回り続けている。軍の再編、敵への対応、補給、偵察など……考えれば考えるほどジュエスに休む暇など有りはしない。
こうしている間にもいつまたセファロスが進軍を再開するか、僅かの気の緩みも許さぬ状況にあるのだ。見るも痛ましい右腕に巻かれた包帯には濃く血が滲んでいるものの、その表情には尚も決意と戦意に満ちていた。
それでも端から見ればその疲労と消耗具合を覆い隠すことまではできておらず、それにより部下達からは始終後方へ下がるよう幾度と無く訴えかけられ続けていた。
だからこうして休む事にしたのも少しでも彼らを黙らせる為に止む無く妥協した結果によるものである。
――全く、セルギリウスも軍医も他の奴らも後方移床を嫌と言うほど勧めてくるな……。まあ、目の前でコンスタンスを失った挙げ句、僕自身セファロスに片腕を奪われてしまったんだ……。単に僕を心配しての事だというのはよく分かるが、しかしそんなことをしている時間も余裕も僕には残されていないんだよ――
それはつい先程まで配慮をしてきた部下達に向けてのものだったが、さらに自分自身に言い聞かせるものでもあった。
正直に言えば少し前に鏡に映る自身の顔を見た際には、冷静に疲れているなと思ってしまうほど自分が疲労していることはとっくに自覚していた。
だが逃げる訳にはいかない。戦うしかないのだと、セファロスの軍から撤退した直後に固めた決意が休むことを許そうとはせず、まるでそれが原動力となるかのように重傷の身であろうと体を突き動かすのだ。
――そうだ。負傷など言い訳にはならない。"戦場"は、そういう世界なのだから……――
セファロスに抱いた畏怖と決意をも込めて疼く右腕と疲弊した肉体へ叱咤するようにジュエスは言い聞かせる。
そのため自身の天幕に予期せぬ来訪者が入ってきたことにはその直後まで気付くことができなかった。
「お休みのところを失礼する」
その声を聞き、ジュエスは驚きのあまりにカッと目を大きく見開いた。
天幕に入ってきたのたは、何と王都にいるはずのフレオンだった。
片腕がないせいで素早く起き上がることができないジュエスはそれでも急ぎ横たえた体を起こすと、地味で印象に残らない格好をしたフレオンが天幕の出入り口付近に佇んでいるのを視認した。
「フレオン殿? これはまた、意外な来訪者だ……」
ジュエスは内心の動揺を押し隠す為に平常心を装いフレオンを迎える。
「何の知らせも無く訪れたことを申し訳なく思うが、陛下が貴公の事を気に掛けておられていたのでな。傷の具合はどうかな?」
相変わらず茫洋とした顔と本心を窺わせない無表情に平坦な喋り口調で尋ねられ、ジュエスは自身でも驚くほど率直に答えた。
「痛むよ」
だがさらに付け加えるなら、これでも鎮痛の薬を使っている。それでも気を抜くと顔が歪みそうになる程の忌まわしい痛みだ。流石にそこまで打ち明けるつもりは無いが。
「そうか……。見るからに顔色も悪いな」
「だが、休む訳にはいかないのでな」
つまるところ部下と同様、前線から退いた方がいいのではないかということを言外に匂わすフレオンの指摘にジュエスは聡く言葉を返す。
「ランバルト陛下が戦わないからか?」
すると今度はこの単独行動の核心を突く問いを表情を変えずに寄越してきたフレオンをジュエスは強く睨みつけた。
「……そうだ。彼奴は逃げた。逃げ出したんだ。あの恐るべき戦神には最早叶わぬと知って、尻尾を巻いて、びびってな!」
そう侮蔑するように吐き捨てたジュエスは、膝の上に置いた左手をこれでもかと握り締めわなわなと震わせた。
フレオンは表情を変えずにジュエスを冷静に見つめる。
やがて憤怒を吐露したことで少しだけ気が治まったジュエスは、フレオンに最も肝要であるサーラの安否のことを問いかけた。
「彼女は……サーラは無事か?」
「サーラ姫か? 無事に決まっているだろう。この状況なら尚更だ」
フレオンはわかりきったことを聞いてどうすると言わんばかりにぞんざいに答えたが、それに反応している余裕など無かったジュエスは沈痛な面持ちで王都に残してきた最愛の妻のことを憂いた。
「僕の所為とはいえ、人質紛いの立場にサーラが置かれてしまっているのは本当に心苦しいことだ。できることなら今すぐにでもサーラの元へ駆け戻ってやりたいのに……」
「……貴殿のお気持ちは察して余りある。だがそれでも襲い来る敵軍を迎え撃つべく、ここを動く訳にはいかぬというのだろう?」
フレオンの言葉にジュエスはただただ頷いた。
直後に苦笑が込み上げてきて咄嗟に堪えようとしたが、気が緩んでしまったかのように顔に出てしまいジュエスは自嘲も込めて口角を釣り上げた。
――まさかあのフレオンとこんな会話をするとは、僕も随分と弱ってしまったものだ――
すると目の前でずっと佇んでいたフレオンが徐に懐から何かを取り出した。
見ればそれは酒瓶で、しかも高価そうな代物だった。
「これは東方産の貴重な果実酒で、陛下からの贈り物だ。せめてものな」
フレオンの耳を疑うような説明にジュエスは思わず訝ったが、しかし思いがけない形で自分が弱っていることを思い知ってしまったジュエスは最も警戒すべき目の前の相手の魂胆をそれ以上勘繰ることができなかった。
「本当か? 懐柔策としてはやけに稚拙だな。だがまあ……痛みには効きそうだ」
それは謀において右に出る者はいないと自他共に認めるフレオンに対してのものか、それともその果実酒の送り主に向けてのものかは口にしたジュエス自身にも判然としなかったが、フレオンは然程気にしていないといった様子で平然と答えた。
「……勿論、よく効くとも」
ジュエスは寝台から立ち上がると二人分の杯を用意した。
軍務に勤しんでいた時よりも体が重い気がしたのはずっと張り詰めていた緊張の糸が緩んでしまった所為であろう。
場所を移動してフレオンに果実酒を注いでもらうと、天幕内にはたちまち芳しい香りが充満した。
これだけでフレオンの言に偽りが無いことが十分わかる。
ジュエスは杯を持つと目の前で軽く掲げるだけの乾杯をフレオンと交わし、それを口に含んだ。
――……ああ、美味いな――
言葉にすることはなかったが、ジュエスは素直にそんな感想を抱いた。
しかも原材料の果実の味の中にどこか不思議な甘味まで感じることができる。
なるほど。貴重な酒と言われるはずだとその珍しい味にジュエスは納得した。
「それにしても、フレオン殿。来るなら来ると一言あっても良かったのではないか? 宰相が都を離れるなど、通常なら大概な事だろう」
「やむを得んだろう。直接会う必要があったのだから。先程も言ったが、陛下が貴公の事を随分と気に掛けておられたのだ」
「それなら尚のこと堂々と来ればよいではないか」
「隠れていた方が都合が何かとよいのだ。宰相フレオンがこんなところにいる筈が無いと思われる方が、敵への対処も容易というものだからな」
「敵か。敵といえば貴殿の敵はさぞ多いのだろうな」
「そうでもない。今のところ数人程度だ」
冗談にも本当にも聞こえてしまうフレオンの受け答えにジュエスはつい吹き出してしまう。
これも心身ともに弱っている時につい美味な酒を口にしてしまったせいだろう。普段は決して出すことの無い軽口が勝手に口をついて出てくる。
柄にも無いとジュエスは訝りつつ、それでも今だけはフレオンに気を許しかけている自分がいることを素直に認めるしかなかった。
今の自分にできることは、ここでかの戦神の進軍を食い止め、愛する妻と我が子を戦火の蹂躙から可能な限り遠ざけることだけである。
それも今の自分に残された兵力とこの片腕だけで一体どれほどあの怪物と渡り合えるか。そう考えるとこうしてこのフレオンと一対一で酒を酌み交わすのもこれが最初で最後になることも多いに有り得る。ならば今だけは普段は彼に見せない部分を曝け出しても今更減るものなど無いだろうとジュエスは半ば諦観した心境で沈思した。
そうして会話の合間に酒はどんどん進み、一杯目を空にした直後、ふいにジュエスの手から力が抜けて杯が地面に滑り落ちた。それを拾おうとジュエスは背凭れから体を起こそうとしたが、何故か思うように体が動かない。フレオンもまたその異変にすぐに気づいた。
「どうかしたのか、ジュエス公」
「いや、なんか……力が入らないんだ」
自分でも理由がわからずジュエスはそんな曖昧模糊な返答しかできなかった。
「やはりそれほどの重傷を抱えておきながら無理をされていたのではないか?」
「ああ……そうかもしれないな」
ジュエスは苦笑を溢しながら目の上を覆う。
「もう休みたまえ。手を貸そう」
例によって抑揚も愛想の欠片も無い声色だが、それは彼にも人間らしい情が少しはあるらしいと感じることができる珍しい言動だった。もしかしたらこれはフレオンの姿をした別の誰かなのではないかと思わず冗談半分本気半分で考えてしまうほどまでに。
ジュエスはそんなフレオンの肩を借りながら再び寝台に横たわった。一杯だけだが酒を入れたことで先程よりも休むことができそうだと深く息を吐きながらジュエスは思ったが、しかしそこである違和感に気づく。
まだ体を横たえたばかりだというのに既に手足がもう動く気配を見せず、意識が薄れ始めてきている。横になっても意識が冴え冴えとしていた思考は既に曖昧になってきており、何だと声を出そうとしたがうまく言葉が発せられない。
「フ、レオ、ン……変、だ」
「変、とは?」
「から、だが、力が、抜け、て……」
うまく回らない口を懸命に動かしジュエスは訴えた。するとフレオンは不適な笑みを浮かべてただ短くこう言った。
「そうか、それは良かった」
ジュエスはたちまち強い不安に襲われた。
「それ、は……どう、いう、い……み……」
「何度も言っただろう。陛下が貴殿を気にかけていると。だが何を気に掛けているか、ということまでには頭が回らなかったのか。随分と弱っていたのだな、貴殿も」
それはここへやってきた時と少しも変わらない口調だったが、しかしここでようやく普段の彼らしい言動に戻ったことでジュエスはようやく直感した。
「ま、さか……」
これは、嵌められたのか。
「"これ"の味は皆気に入るのだが、貴殿の口にも合ったようで安心した。……まあ、私は飲んだことは無いがね」
それを聞き、既に靄がかかり始めている脳裏に浮かんだのはあの酒の味に混じった不思議な甘さだった。
――どく……か――
何と恐ろしい毒なのだとジュエスは今更になってその身で痛感する。
最初から毒に苦味や辛味といったものはなく、むしろ何も含むものはないと思い込ませ油断させる甘味と、苦しみも傷みも感じさせず体の動きを少しずつ奪っていきながらまるで眠りに誘うように死が静かに迫ってくる。
右腕の痛みとともに感じていた自身の心拍が次第にゆっくりになっていき、その傷の痛みでさえも薄らいでいっているのがわかる。それもただ呼吸を繰り返している間に殆ど分からなくなってしまい、ジュエスはこれ以上意識を保つことができそうもないことを悟った。
一方フレオンは自分の分の杯と酒の瓶をまとめて懐に収めると、もう一度ジュエスの枕元に立ち彼を哀れむように見下ろした。
「私個人に君への恨みはないが、しかしまあ、そう言うことだ。安らかに眠りたまえ」
そう言い残すとフレオンは静かに踵を返し、そっと天幕を去っていった。遠ざかるフレオンの後ろ姿をジュエスは最早目で追うことしか出来ない。いや、それさえも既に困難になっていた。
それは何も苦しみは無いがその分体を回るのが早い毒のようだった。文字通り安らかに眠るように、そして確実に息の根を止める為に。そう考えるとこのまま死んでもこの見た目では傷が原因で死んだとしか思われない可能性が大いにある。まして何も知らせずに内密にフレオンはここへやってきたのだ。部下達は誰も何も知らないはずである。毒も証拠は残らないだろう。フレオンは決して詰めは甘くない。
――ああくそ……こんなところで……なんてことだ――
そう恨みの言葉を吐き捨てたかったが毒で声が出せず、思考も奪われてしまい怒りの感情が湧き上がってこない。やはりあの男に弱みを見せるべきではなかった。完全に彼奴の術中に嵌められていた。まるで日常の政務を淡々とこなす事と同じように恐るべき謀をも平然と実行するのがフレオンであるということが頭から抜け落ちていた。
尤もこれ以上後悔したところで運命は決まっている。ジュエスは暗くなり始めた視界でぼうっと天幕を見上げながら最愛の面影に思いを馳せた。
――さーら、じゅら、ごめん……――
最後に見た二人の笑顔を思い出し、眦から透明な雫が一滴零れ落ちる。それが頬を伝い何もなかったように消えゆくように、脳裏に浮かぶ笑顔も意識もただ音も無く消えていく。
黒くも白くもならない、透明になっていく。これが死かとジュエスは知った。
ゆっくりと閉じられた目蓋は、そのまま二度と開くことは無かった。
そして彼の中で最後まで残り、最後に消えたのはただ愛する妻子への想いだけだった。
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