第十三話 マーサが倒れた日
その日の朝は、いつも通りだった。
ひだまり孤児院の庭では、ガルの正拳突きが響いていた。
ぱん。
ぱん。
ぱん。
トトは少し離れた場所で、十回の呼吸宿題をしている。
足の裏。
膝。
腰。
腹。
胸。
心臓。
そして、息。
トト「……今日は静か」
ガル「何が」
トト「心臓」
ガル「慣れてきたな」
トト「微増?」
ガル「微増」
食堂からは、マーサのスープの匂いがしていた。
ミリがいつも通り、まだ眠そうな顔で椅子に座っている。
リリィは猫を抱えている。
ユアンは昨日整理した六つの約束を見直していた。
エルは小さな魔力の光を手のひらに乗せ、消す練習をしている。
壁には、新しく整理された六つの約束が貼られている。
一、危ないことを勝手にしない。
二、怖い時、分からない時は大人を呼ぶ。
三、自分の体と命を守る。
四、力は守るために使う。
五、必ず帰る。帰ったら食べて、ありがとうを言う。
六、毎日の宿題と生活をちゃんとやる。
三十二個あった約束は、箱の中にしまわれた。
けれど、なくなったわけではない。
大事なところだけが、壁に残っている。
マーサ「ほら、朝ごはんだよ。手を洗った子から座りな」
トト「はい!」
マーサの声は、いつも通りだった。
少し強くて。
少し温かくて。
逆らう余地がない。
レオンは朝食を食べながら、今日の予定を確認していた。
今日はギルドの日だ。
昨日のローデン商会の件もあり、事件報告書、商会停止通知、保護された見習いたちの支援手配など、仕事が山ほどある。
セシリアはすでにギルドで待っている。
マーサ「顔がもう書類に負けてるよ」
レオン「まだ戦っていません」
マーサ「戦う前から負け顔だね」
トト「レオン兄ちゃん、書類にも殺気出す?」
レオン「出さない」
ガル「出しても減らないだろ」
ユアン「燃えるかもしれない」
レオン「燃やさない」
マーサ「燃やしたら、私が怒るよ」
レオン「……はい」
朝食のあと、レオンは玄関に立った。
マーサはいつものように、包みを渡す。
「昼にちゃんと食べるんだよ」
レオン「ギルドで食べます」
「食べたふりじゃなくて?」
「食べます」
マーサ「よろしい」
ミリ「すーぷまで帰る?」
レオン「ああ。帰る」
トト「ギルドの仕事、倒してきて!」
レオン「書類は倒すものではない」
ガル「昨日は倒すって言ってた」
レオン「言ってない」
ユアン「たぶん言いました」
リリィ「猫も聞いた?」
猫「……」
レオンは少しだけ息を吐き、門へ向かった。
「行ってくる」
マーサ「行っておいで」
それは、いつもの朝だった。
少なくとも、その時は。
王都冒険者ギルドでは、朝から妙な空気が流れていた。
ローデン商会の摘発で騒がしいのは当然だった。
だが、それとは別に、受付の周辺で冒険者たちがひそひそ話をしている。
「南区で熱病が出たらしいぞ」
「宿屋でも二人倒れたって聞いた」
「ただの風邪じゃないのか?」
「治癒魔法の効きが悪いらしい」
レオンはその言葉に足を止めた。
「熱病?」
受付嬢が顔を上げる。
「ギルドマスター。今朝から報告が増えています」
セシリアがすぐに書類を持ってきた。
「南市場周辺、南倉庫街、東門近くの宿屋で、発熱、強い倦怠感、咳、喉の痛み、皮膚に薄い灰色の斑点が出る症状が確認されています」
レオン「感染病か」
「可能性があります」
ギルドの空気が重くなる。
感染病。
魔物より厄介な敵だ。
斬れない。
殴れない。
殺気も効かない。
太刀でも、病は斬れない。
フィリアは朝から王城の治癒師団と連絡を取っていた。
王城から届いた速報には、こうあった。
『灰斑熱の疑いあり。過去の記録では、魔物の森周辺で数十年に一度発生。通常の治癒魔法では症状緩和のみ。根治には特定薬草が必要』
レオン「特定薬草?」
セシリア「銀露草です。魔物の森の湿った谷、月光が差す場所に生えるとされています」
受付嬢が不安そうに言う。
「魔物の森ですか……」
ギルド内がざわつく。
魔物の森。
四か月前の魔物群。
若い魔族。
黒玻璃の影。
まだ完全に安全とは言えない場所。
レオン「在庫は」
セシリア「王都内の薬師ギルドに確認中です。ただ、銀露草は保存が難しく、乾燥させると効き目が落ちるため、常備は少ないはずです」
レオン「患者数は」
「確認中です。少なくとも七名」
「増えるな」
「はい」
その時、ギルドの扉が勢いよく開いた。
駆け込んできたのは、ひだまり孤児院の近くに住む配達少年だった。
息を切らし、顔を青くしている。
「ギルドマスター!」
レオンの体が先に反応した。
「何があった」
少年は震える声で叫んだ。
「マーサ先生が、倒れました!」
ギルドの音が消えた。
ほんの一瞬。
書類の音も。
冒険者の声も。
受付の羽ペンの音も。
全部が遠くなった。
レオンは立ち上がっていた。
椅子が後ろに倒れる。
「いつ」
「昼前です! 台所で、急に……熱が高くて、フィリア先生を呼びに行けって……!」
レオンはもう動いていた。
セシリアがすぐに後を追う。
「馬車を」
レオン「遅い」
「では、騎馬を」
「走る」
セシリアは止めなかった。
止められない顔だった。
だが、声だけは飛ばした。
「王城へ連絡! フィリア様、グレン様へ緊急伝令! 灰斑熱疑い、ひだまり孤児院!」
受付嬢たちが一斉に動く。
冒険者たちも道を開ける。
レオンはギルドを出た。
王都の道を走る。
灰天太刀は腰にある。
だが抜かない。
戦気を足へ回す。
瞬灰歩は短距離用だ。
王都全域を飛ぶことはできない。
だから、走る。
屋根を蹴る。
石畳を踏む。
路地を抜ける。
人混みを避ける。
誰かが驚いて声を上げた。
だが、レオンは止まらない。
頭の中には、一つだけ。
マーサ。
昼前。
台所。
倒れた。
熱。
感染病。
レオンの胸の奥で、聖力がわずかに揺れた。
使えばいい。
今すぐ。
戻せばいい。
命を削ってでも。
けれど、フィリアの声が頭の奥で響く。
聖力は最後の手段。
原因が残っている病には、無理に使えば一時的に戻せても、使い手を削る。
そして、感染そのものを断てるとは限らない。
レオンは歯を食いしばった。
「……まだだ」
使うなら、正しく。
助けたい時ほど、自分の命も守る。
今は、その約束が刺さる。
ひだまり孤児院の門が見えた。
門の前には、アルトがいた。
白銀の翼を広げ、不安そうに低く鳴いている。
ぐるるる。
レオン「アルト」
アルトは道を開けた。
玄関にはガルが立っていた。
顔色が悪い。
だが、崩れていない。
「レオン兄ちゃん!」
「状況」
ガルはすぐ答えた。
「マーサ先生が台所で倒れた。フィリア先生はまだ。リュシア先生が診てる。トトは泣きそうだけど、部屋にいる。ミリとリリィはエルが見てる。ユアンが記録してる」
レオン「よくやった」
ガルの目が少しだけ揺れた。
それでも頷く。
「はい」
レオンは手を洗った。
一瞬、入りたい気持ちが勝ちそうになる。
だが、手を洗う。
六つの約束。
自分の体と命を守る。
危ないことを勝手にしない。
感染病なら、焦って入れば広げる。
レオンは濡れた手を拭き、布で口元を覆った。
そして台所へ入った。
マーサは、寝台代わりに並べた長椅子に寝かされていた。
顔が赤い。
呼吸が少し荒い。
額には濡れ布。
首元には、薄い灰色の斑点。
リュシアが横で魔力の光を浮かべている。
「来たわね」
レオン「状態は」
リュシア「高熱。灰斑。魔力汚染ではない。黒玻璃でもない。灰斑熱の可能性が高い」
マーサは薄く目を開けた。
「……レオン」
レオンは膝をついた。
「はい」
マーサ「手、洗ったかい」
こんな時でも、それだった。
レオンの喉が詰まる。
「ああ」
「なら、いい」
マーサは少しだけ笑おうとした。
だが、咳が出た。
レオンの手が動きかける。
聖力。
金白色の光が、指先に出かける。
リュシアが低い声で言った。
「レオン」
レオンの手が止まる。
マーサも、熱に浮かされた目でそれを見た。
「使うんじゃないよ」
レオン「……」
「私一人に、あんたの命を削るんじゃない」
レオン「一人ではありません」
「屁理屈だね」
レオンは黙った。
マーサの声は弱い。
それでも、いつものマーサだった。
叱る力がある。
レオンを止める力がある。
リュシア「聖力は使うとしても最小限。今は熱を下げる処置と隔離が先。銀露草が必要よ」
フィリアが駆け込んできたのは、そのすぐ後だった。
王城から馬を飛ばしてきたのだろう。
息が少し乱れている。
「マーサ先生!」
レオン「フィリア」
「確認します」
フィリアはすぐに手袋をつけ、布で口元を覆い、マーサの脈、呼吸、斑点、喉、目を確認する。
表情が厳しくなった。
「灰斑熱でほぼ間違いありません」
トトが食堂の入口に立っていた。
布で口を覆っている。
目に涙がたまっている。
「マーサ先生、死なないよね?」
食堂が静まる。
レオンはすぐには答えられなかった。
フィリアが代わりに答えた。
「助けます。そのために、今から動きます」
トト「俺、何すればいい?」
ガル「トト」
トト「何かしたい!」
レオンはトトを見た。
震えている。
怖がっている。
レオンはゆっくり言った。
「六つの約束を見る」
トト「え?」
「二番。怖い時、分からない時は大人を呼ぶ。もう呼んだ。三番。自分の体と命を守る。だから、勝手に近づかない。六番。毎日のことをちゃんとやる。小さい子を不安にさせない」
トトは涙をこらえた。
「……はい」
ガルがトトの肩に手を置く。
「俺が一緒にいる」
ユアン「僕は記録します。誰が熱を出したか、誰が近くにいたか」
エル「私はミリとリリィを見ます」
ミリ「マーサ先生……」
リリィ「猫も心配してる」
猫「……」
猫はいつもの窓際ではなく、食堂の隅にいた。
マーサの方を見ている。
物置の方から、小さく鈴が鳴った。
ちりん。
霊も、異変を感じている。
レオンは立ち上がった。
「王城と連携する」
フィリア「はい。すぐに感染防止を」
リュシア「私は王城へ魔法通信を飛ばすわ」
セシリアが到着した。
少し遅れて、息を切らしている。
だが、手にはすでに書類がある。
「ギルド側、初動準備に入りました。発熱者情報、薬師ギルド在庫確認、冒険者招集を開始しています」
レオン「銀露草は」
「王都内の在庫は乾燥品が二束。軽症者には使えますが、マーサ様の状態には新鮮なものが必要です」
フィリア「新鮮な銀露草で薬湯を作れば、根治できる可能性が高いです」
レオン「場所は」
リュシア「魔物の森。北東の湿地谷。月光が差す場所。古い薬草図鑑では“銀露の谷”と呼ばれているわ」
ガル「魔物の森……」
トト「俺たちも」
レオン「行かない」
トトの口が止まる。
レオンは強く言った。
「今回は行かない。絶対に」
トト「でも」
「一番。危ないことを勝手にしない」
トトは壁を見る。
六つの約束。
減らしたばかりの約束。
それが今、重い。
トト「……はい」
レオン「ガル」
ガル「はい」
「子どもたちを頼む」
ガルの顔が変わった。
行きたい。
役に立ちたい。
でも、今の自分の役目を理解した。
「分かりました」
「ユアン」
「はい」
「記録。接触者、症状、時間」
「はい」
「エル」
「はい」
「魔力を広げるな。怖くても、治そうとしない。フィリアの指示に従え」
エル「はい」
「トト」
トトは涙を拭いた。
「はい」
「マーサを不安にさせるな」
トトは唇を噛んで、それから頷いた。
「はい」
王城への連絡は、すぐに通った。
国王エルドランは会議を中断し、緊急対策を命じた。
王城治癒師団を南区へ派遣。
騎士団に市場、宿屋、井戸、倉庫街の確認を指示。
薬師ギルドに銀露草の在庫提出命令。
冒険者ギルドには、魔物の森探索隊の編成要請。
グレンからの返答は短かった。
『騎士団、出ます』
続いて、アリシアからの伝言。
『私は王城で魔力通信補助と治癒師団の記録補助をします。聖力は使いません。』
ルカからも届いた。
『僕は王城で待機します。勝手に動きません。必要なら伝令を手伝います』
レオンはその文を見て、少しだけ目を伏せた。
成長している。
みんな。
怖くても、勝手に走らない。
それが今、どれほど助かるか。
ギルドでは、冒険者たちが集まっていた。
セシリアが指示を出す。
「銀露草採取隊は、魔物の森北東部へ向かいます。戦闘班、採取班、護衛班、薬師同行班に分けます」
ベテラン冒険者が手を上げる。
「魔物の森なら、俺たちが行く」
「薬草の見分けは?」
「薬師を連れていく」
「毒草との違いは銀色の露、葉裏の白脈、夜に淡く光ることです。間違えれば効果がありません」
別の冒険者が言った。
「日暮れを待つのか?」
セシリア「銀露草は日中でも採れますが、見つけやすいのは夕方以降です。ただし夜の魔物の森は危険度が上がります」
レオン「俺が行く」
全員が分かっていた。
止められない。
だが、フィリアが言った。
「レオン様、マーサ先生を一時安定させるために、ここにいていただく必要もあります」
レオン「俺が行けば早い」
「分かっています。ですが、感染病は速さだけではありません。王都全体を守る指揮も必要です」
セシリアも頷く。
「レオン様が単独で森へ入れば、薬草は早く見つかるかもしれません。しかし王都内の感染対策、患者搬送、薬の分配、騎士団との連携が薄くなります」
レオンの拳が握られる。
走りたい。
森へ行きたい。
今すぐ。
だが、マーサの声が頭に残る。
一人に、あんたの命を削るんじゃない。
そして壁の約束。
力は守るために使う。
自分の体と命を守る。
必ず帰る。
レオン「……分かった」
セシリアは少しだけ息を吐いた。
「探索隊第一陣は、ギルド選抜と騎士団混成。指揮はグレン様。薬師二名同行。レオン様は王都指揮と、緊急時の第二陣」
レオン「ああ」
リュシア「私は上空から魔力探知で森の異常を確認するわ。アルトを借りる」
アルトが外で低く鳴いた。
ぐるる。
まるで、最初からそのつもりだったように。
フィリア「私はマーサ先生と発熱者の処置に残ります」
アリシアからの魔法通信が届く。
『王城より通達文を出します。発熱、灰色の斑点、強い咳がある者は外出を控え、近くの詰所へ報告。井戸水は煮沸。食器と布は煮る。市場と宿屋は換気。人の密集を避ける。孤児院、宿屋、倉庫街の確認を優先』
国王の印が押された緊急通達は、すぐに王都中へ配られた。
鐘が鳴る。
王都の各区に、騎士たちが走る。
薬師たちは薬湯を準備する。
治癒師たちは発熱者を分けて診る。
ギルドは冒険者へ依頼を出す。
『灰斑熱対策緊急依頼。銀露草採取。王城承認済み。報酬増額。危険度高。単独行動禁止』
ひだまり孤児院では、食堂の一部が隔離場所になった。
マーサは別室で休んでいる。
フィリアがついている。
トトたちは離れた場所で待つ。
待つこと。
それが一番難しい。
トトは拳を握っていた。
「俺、何もできない」
ガル「できることをしてる」
「待ってるだけ」
「勝手に動かないのも、できることだろ」
トトは壁の六つの約束を見る。
一、危ないことを勝手にしない。
二、怖い時、分からない時は大人を呼ぶ。
三、自分の体と命を守る。
四、力は守るために使う。
五、必ず帰る。帰ったら食べて、ありがとうを言う。
六、毎日の宿題と生活をちゃんとやる。
減らしたばかりの約束。
少ないから、すぐ読める。
すぐ思い出せる。
トト「……宿題、やる」
ガル「今?」
「今やらないと、怖いことばっか考える」
ガルは少しだけ目を細めた。
「俺もやる」
二人は庭に出た。
フィリアの指示で、マーサの部屋には近づかない。
手を洗う。
布をつける。
距離を取る。
ガルは正拳突きを始めた。
今日は数を減らす。
それでも、やる。
トトは十回の呼吸をする。
心臓は、うるさい。
とても。
トト「……うるさい」
ガル「それでいい」
トト「マーサ先生、帰ってくるよね」
ガルの拳が止まりかけた。
でも、止めない。
ぱん。
「帰ってくる」
トト「うん」
ぱん。
「レオン兄ちゃんが、帰す」
トト「うん」
ぱん。
「でも、俺たちも待つ」
トト「うん」
その頃。
魔物の森の入口では、グレン率いる探索隊が準備を終えていた。
騎士八名。
冒険者十二名。
薬師二名。
ギルドの斥候三名。
そして上空には、リュシアとアルト。
リュシア「北東に魔力の濁りがあるわ。でも黒玻璃ではない。魔物の群れが少し動いている」
グレン「銀露の谷まで最短で向かう。単独行動禁止。薬草採取を優先。戦闘は避ける」
冒険者の一人が剣を握る。
「ギルドマスターは来ないのか」
グレン「王都を守っている」
その一言で、誰も何も言わなかった。
魔物の森へ入る。
木々が暗い。
湿った空気。
遠くで獣の声。
薬師が小さな地図を広げる。
「銀露草は、水が冷たく、月光が差し、魔力が淀みすぎない場所に生えます」
グレン「急ぐ」
「はい」
日が傾き始める。
王都では、通達を聞いた民たちが井戸水を煮沸し、宿屋は窓を開け、市場は一部を閉じ始めていた。
不安は広がる。
だが、混乱はまだ小さい。
王城とギルドが同時に動いたからだ。
国王の命令。
ギルドの依頼。
騎士団の巡回。
治癒師の説明。
薬師の薬湯。
それぞれが、王都を支えている。
ひだまり孤児院では、マーサが薄く目を開けた。
そばにはフィリア。
少し離れて、レオンが立っている。
「子どもたちは?」
マーサの声はかすれている。
レオン「離れた場所で待っています」
「泣いてるかい」
「少し」
「そうかい」
マーサは息を整える。
「レオン」
「はい」
「森に行きたい顔してるよ」
レオンは黙った。
「でも、行ってない」
「……はい」
「えらい」
その一言で、レオンの顔がわずかに歪んだ。
マーサ「一人で全部やらない。そう決めたんだろ」
レオン「はい」
「なら、待つのも仕事だよ」
レオンは深く息を吸った。
「はい」
フィリアが静かに言う。
「熱は高いですが、意識はあります。今は安定しています。銀露草が届けば、間に合います」
レオン「届く」
フィリア「はい」
レオンは窓の外を見た。
夕暮れ。
空の向こう。
魔物の森。
そこへ向かう者たちがいる。
グレン。
リュシア。
アルト。
冒険者たち。
薬師たち。
自分ではない誰かが、今、帰る道を作っている。
それを信じる。
それが、こんなにも難しい。
夜が近づく頃。
物置の鈴が鳴った。
ちりん。
子どもたちが顔を上げる。
トト「霊の子?」
リリィ「何か見つけた?」
猫「……」
鈴はもう一度鳴る。
ちりん。
ユアンが窓の外を見た。
「王城の伝令です!」
門の外から声がした。
「王城より伝令! 合言葉!」
トトが走りかけて、止まる。
ガルが代わりに前へ出る。
「どこへ帰る?」
伝令は息を切らしながら答えた。
「ひだまりへ帰る!」
門が開く。
伝令は手紙を差し出した。
レオンが受け取る。
グレンからだった。
『銀露の谷に到着。銀露草、確認。採取開始。ただし周囲に魔物の群れあり。帰還まで時間を要する』
レオンは手紙を握った。
「見つかった」
食堂に、小さな息が広がる。
トト「見つかった……!」
ミリ「すーぷ?」
リリィ「薬草」
エル「よかった……」
ガル「まだ帰ってきてない」
ユアン「でも、見つかった」
レオン「ああ」
まだ終わっていない。
魔物の森から戻るまでが仕事だ。
薬草を煎じ、マーサに飲ませ、熱が下がるまでが仕事だ。
王都中の感染を抑えるまでが仕事だ。
だが、道は見えた。
帰る道が、少しだけ見えた。
マーサの部屋から、かすかな咳が聞こえる。
レオンは振り返る。
手紙を持ったまま、静かに言った。
「マーサさん」
部屋の中から、弱い声が返る。
「……見つかったかい」
「はい」
「なら、待つよ」
レオンは目を閉じた。
待つ。
信じる。
任せる。
それもまた、守るための力だった。
外では、王都の鐘が鳴っている。
感染病を知らせる鐘ではない。
夜間通達の鐘。
井戸水を煮ること。
発熱者を報告すること。
無理に外へ出ないこと。
市場を早く閉じること。
宿屋は人を詰め込みすぎないこと。
王都全体が、見えない敵に向き合っている。
ひだまり孤児院の壁には、六つの約束。
その三番目。
自分の体と命を守る。
今日ほど、その言葉が重い日はなかった。
レオンは手紙を折り、胸元にしまった。
そして、灰天太刀に触れる。
まだ抜かない。
今は、抜く時ではない。
今は、待つ時だ。
森へ向かった者たちが、銀露草を持って帰る。
マーサが、もう一度スープをよそう。
子どもたちが、また食堂で笑う。
その道を信じる。
レオンは静かに息を吐いた。
「必ず帰る」
それは、壁に書かれた約束だった。
そして今夜は。
マーサにも。
探索隊にも。
王都にも。
その約束を守らせる夜だった。




