表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

プロローグ

プロローグ 


この世界には、魔王がいる。


それは子どもでも知っている昔話であり、老人たちが酒場で語る戦の記憶であり、今もなお国境の向こうに残る現実だった。


魔王軍は何度も人の国へ攻め込み、村を焼き、街道を塞ぎ、王国の兵や冒険者たちを血の海へ沈めてきた。


だが、人を苦しめるものは魔王だけではない。


人間同士の戦争もまた、終わることはなかった。


王国と帝国。

貴族と貴族。

領地と領地。


正義の名を掲げた旗が風に揺れるたび、どこかの村で家が燃えた。

勝利の鐘が鳴るたび、どこかで親を失った子どもが泣いた。


王都の片隅にある「ひだまり孤児院」も、そんな子どもたちを受け入れる場所の一つだった。


魔物に村を襲われた子。

戦争で両親を失った子。

貧しさに押し潰され、誰にも手を引かれなかった子。


そこにいる子どもたちの事情は、それぞれ違う。


けれど、腹が減れば同じように泣き、暖かい毛布があれば同じように眠り、叱られれば同じように頬を膨らませる。


そして、腹いっぱいの飯を食べた時だけは、誰もが少しだけ笑う。


レオン・ガルディアは、それを知っていた。


王都最大の冒険者ギルドをまとめる男。

かつて竜を討ち、魔王軍の将を退けた最強の元冒険者。

王国中の冒険者から一目置かれ、貴族でさえその名を無視できない英雄。


それが、世間の知るレオン・ガルディアだった。


大柄な体。

広い肩幅。

鋭い目つき。

左目の下に残る古い傷跡。


ただ黙って立っているだけで、新人冒険者の背筋が伸びる。

少し低い声で名前を呼べば、酒場で暴れていた荒くれ者でさえ黙る。


そんな男が今、何をしているのか。


王国を揺るがす会議か……

魔王軍との決戦準備か……

それとも、竜の討伐依頼か……








いや……違う。


レオンは、孤児院の台所に立っていた。


巨大な剣を握っていたはずの手で、包丁を握っている。

戦場で敵を震え上がらせた目で、鍋の中のスープを真剣に見つめている。


「……塩は、もう少し後だな」


大鍋の中では、細かく刻まれた野菜と、安い肉の切れ端がゆっくり煮込まれていた。


材料は多くない。

むしろ、いつだって足りない。


だが、足りないなら足りないなりにやり方がある。


硬い肉は長く煮れば柔らかくなる。

野菜くずは出汁になる。

昨日の硬くなったパンは、焼き直せば子どもたちの好きな一品になる。


孤児院育ちのレオンにとって、料理とは贅沢ではなかった。


生きるための知恵であり、誰かを黙って助けるための手段だった。


「レオン兄ちゃーん! まだー?」


食堂の方から、子どもの声が飛んできた。


「もう少し待て。腹を空かせた分だけ、うまくなる」


「それ昨日も言ってた!」


「昨日よりうまいから問題ない」


そう返すと、食堂から数人分の笑い声が聞こえた。


レオンの口元が、わずかに緩む。


魔王がいる。

戦争もある。

この世界は、決して優しくない。


それでも、今この瞬間だけは、子どもたちが夕飯を待って騒いでいる。


ならば、それを守る意味はある。


レオンはそう思っていた。


たとえ世界を救った英雄と呼ばれても、彼にとって本当に大事なものは、王城の玉座でも、勲章でも、歴史に残る名誉でもなかった。


雨の日に雨漏りしない屋根。

寒い夜に眠れる毛布。

泣いた子どもが安心して帰れる場所。

そして、腹を空かせた子どもたちの前に置かれる、温かい夕飯。


それだけでいい。


いや、それがいい。


「レオン」


背後から、しわがれた声がした。


振り返ると、ひだまり孤児院の院長、マーサ・ベルが立っていた。


小柄な老婦人だ。

だが、その目は今でも若い冒険者の剣より鋭い。


「またギルドの仕事を抜けてきたんじゃないだろうね」


「抜けてはいない。少し席を外しただけだ」


「それを世間では抜けたって言うんだよ」


レオンは黙って鍋をかき混ぜた。


マーサはため息をつき、しかしすぐに鍋の中を覗き込む。


「……悪くないね。でも少し野菜が小さすぎる。子どもたちが噛む前に飲み込んじまうよ」


「次から気をつける」


「毎回そう言ってる」


世界最強の元冒険者は、孤児院の院長に頭が上がらない。


それもまた、ひだまり孤児院ではいつもの光景だった。


その時だった。


外から、どたどたと慌ただしい足音が近づいてきた。


扉が勢いよく開く。


「レオン兄ちゃん!」


飛び込んできたのは、孤児院の問題児、トト・ミルクだった。


泥だらけの靴。

乱れた髪。

息を切らした顔。


そして、両手には何か古びた金属の箱を抱えている。


レオンは鍋の火を弱めた。


「トト。まず靴を脱げ」


「それどころじゃないんだって!」


「孤児院の中では靴を脱げ」


「屋根が!」


トトは叫んだ。


「孤児院の屋根が落ちた!」


マーサが眉をひそめる。

レオンは一瞬だけ天井を見上げ、それから静かに息を吐いた。


「……夕飯の前に、屋根か」


「あと、屋根裏から変なの出てきた!」


トトは抱えていた金属の箱を差し出した。


その表面には、古い魔法文字が刻まれていた。

長い時間を眠っていたはずなのに、文字の一部はかすかに青白く光っている。


レオンの目つきが、わずかに変わった。


ただの雨漏りではなさそうだった。


それでも彼は、まず鍋の蓋を閉めた。


「マーサ先生、火を見ていてくれ」


「また面倒事かい?」


「たぶん、小さいやつだ」


レオンはそう言って、壁に立てかけてあった剣ではなく、修理道具の入った箱を手に取った。


金槌。

釘。

縄。

古びた工具。


世界を救った英雄にしては、あまりに地味な装備だった。


だが、今のレオンにはそれで十分だった。


魔王でも、戦争でも、国の危機でもない。


今日の問題は、孤児院の屋根と、子どもが拾ってきた謎の魔道具。


レオン・ガルディアは肩を回し、トトに向かって言った。


「行くぞ。夕飯までには直す」


「魔道具は?」


「それも見る」


「すごいやつだったら?」


レオンは少し考えたあと、真顔で答えた。


「夕飯の後だ」


その言葉に、トトが目を丸くする。


そして、すぐに笑った。


レオンもまた、ほんの少しだけ笑う。


世界には魔王がいる。

戦争もある。

悲しみも、理不尽も、山ほどある。


それでも彼は今日も、剣より先に金槌を持つ。


これは、最強のギルドマスターが、孤児院と街の小さな日常を守る物語である。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ