プロローグ
プロローグ
この世界には、魔王がいる。
それは子どもでも知っている昔話であり、老人たちが酒場で語る戦の記憶であり、今もなお国境の向こうに残る現実だった。
魔王軍は何度も人の国へ攻め込み、村を焼き、街道を塞ぎ、王国の兵や冒険者たちを血の海へ沈めてきた。
だが、人を苦しめるものは魔王だけではない。
人間同士の戦争もまた、終わることはなかった。
王国と帝国。
貴族と貴族。
領地と領地。
正義の名を掲げた旗が風に揺れるたび、どこかの村で家が燃えた。
勝利の鐘が鳴るたび、どこかで親を失った子どもが泣いた。
王都の片隅にある「ひだまり孤児院」も、そんな子どもたちを受け入れる場所の一つだった。
魔物に村を襲われた子。
戦争で両親を失った子。
貧しさに押し潰され、誰にも手を引かれなかった子。
そこにいる子どもたちの事情は、それぞれ違う。
けれど、腹が減れば同じように泣き、暖かい毛布があれば同じように眠り、叱られれば同じように頬を膨らませる。
そして、腹いっぱいの飯を食べた時だけは、誰もが少しだけ笑う。
レオン・ガルディアは、それを知っていた。
王都最大の冒険者ギルドをまとめる男。
かつて竜を討ち、魔王軍の将を退けた最強の元冒険者。
王国中の冒険者から一目置かれ、貴族でさえその名を無視できない英雄。
それが、世間の知るレオン・ガルディアだった。
大柄な体。
広い肩幅。
鋭い目つき。
左目の下に残る古い傷跡。
ただ黙って立っているだけで、新人冒険者の背筋が伸びる。
少し低い声で名前を呼べば、酒場で暴れていた荒くれ者でさえ黙る。
そんな男が今、何をしているのか。
王国を揺るがす会議か……
魔王軍との決戦準備か……
それとも、竜の討伐依頼か……
いや……違う。
レオンは、孤児院の台所に立っていた。
巨大な剣を握っていたはずの手で、包丁を握っている。
戦場で敵を震え上がらせた目で、鍋の中のスープを真剣に見つめている。
「……塩は、もう少し後だな」
大鍋の中では、細かく刻まれた野菜と、安い肉の切れ端がゆっくり煮込まれていた。
材料は多くない。
むしろ、いつだって足りない。
だが、足りないなら足りないなりにやり方がある。
硬い肉は長く煮れば柔らかくなる。
野菜くずは出汁になる。
昨日の硬くなったパンは、焼き直せば子どもたちの好きな一品になる。
孤児院育ちのレオンにとって、料理とは贅沢ではなかった。
生きるための知恵であり、誰かを黙って助けるための手段だった。
「レオン兄ちゃーん! まだー?」
食堂の方から、子どもの声が飛んできた。
「もう少し待て。腹を空かせた分だけ、うまくなる」
「それ昨日も言ってた!」
「昨日よりうまいから問題ない」
そう返すと、食堂から数人分の笑い声が聞こえた。
レオンの口元が、わずかに緩む。
魔王がいる。
戦争もある。
この世界は、決して優しくない。
それでも、今この瞬間だけは、子どもたちが夕飯を待って騒いでいる。
ならば、それを守る意味はある。
レオンはそう思っていた。
たとえ世界を救った英雄と呼ばれても、彼にとって本当に大事なものは、王城の玉座でも、勲章でも、歴史に残る名誉でもなかった。
雨の日に雨漏りしない屋根。
寒い夜に眠れる毛布。
泣いた子どもが安心して帰れる場所。
そして、腹を空かせた子どもたちの前に置かれる、温かい夕飯。
それだけでいい。
いや、それがいい。
「レオン」
背後から、しわがれた声がした。
振り返ると、ひだまり孤児院の院長、マーサ・ベルが立っていた。
小柄な老婦人だ。
だが、その目は今でも若い冒険者の剣より鋭い。
「またギルドの仕事を抜けてきたんじゃないだろうね」
「抜けてはいない。少し席を外しただけだ」
「それを世間では抜けたって言うんだよ」
レオンは黙って鍋をかき混ぜた。
マーサはため息をつき、しかしすぐに鍋の中を覗き込む。
「……悪くないね。でも少し野菜が小さすぎる。子どもたちが噛む前に飲み込んじまうよ」
「次から気をつける」
「毎回そう言ってる」
世界最強の元冒険者は、孤児院の院長に頭が上がらない。
それもまた、ひだまり孤児院ではいつもの光景だった。
その時だった。
外から、どたどたと慌ただしい足音が近づいてきた。
扉が勢いよく開く。
「レオン兄ちゃん!」
飛び込んできたのは、孤児院の問題児、トト・ミルクだった。
泥だらけの靴。
乱れた髪。
息を切らした顔。
そして、両手には何か古びた金属の箱を抱えている。
レオンは鍋の火を弱めた。
「トト。まず靴を脱げ」
「それどころじゃないんだって!」
「孤児院の中では靴を脱げ」
「屋根が!」
トトは叫んだ。
「孤児院の屋根が落ちた!」
マーサが眉をひそめる。
レオンは一瞬だけ天井を見上げ、それから静かに息を吐いた。
「……夕飯の前に、屋根か」
「あと、屋根裏から変なの出てきた!」
トトは抱えていた金属の箱を差し出した。
その表面には、古い魔法文字が刻まれていた。
長い時間を眠っていたはずなのに、文字の一部はかすかに青白く光っている。
レオンの目つきが、わずかに変わった。
ただの雨漏りではなさそうだった。
それでも彼は、まず鍋の蓋を閉めた。
「マーサ先生、火を見ていてくれ」
「また面倒事かい?」
「たぶん、小さいやつだ」
レオンはそう言って、壁に立てかけてあった剣ではなく、修理道具の入った箱を手に取った。
金槌。
釘。
縄。
古びた工具。
世界を救った英雄にしては、あまりに地味な装備だった。
だが、今のレオンにはそれで十分だった。
魔王でも、戦争でも、国の危機でもない。
今日の問題は、孤児院の屋根と、子どもが拾ってきた謎の魔道具。
レオン・ガルディアは肩を回し、トトに向かって言った。
「行くぞ。夕飯までには直す」
「魔道具は?」
「それも見る」
「すごいやつだったら?」
レオンは少し考えたあと、真顔で答えた。
「夕飯の後だ」
その言葉に、トトが目を丸くする。
そして、すぐに笑った。
レオンもまた、ほんの少しだけ笑う。
世界には魔王がいる。
戦争もある。
悲しみも、理不尽も、山ほどある。
それでも彼は今日も、剣より先に金槌を持つ。
これは、最強のギルドマスターが、孤児院と街の小さな日常を守る物語である。




