↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/14

怪奇を求めて

直後、街頭の巨大スクリーンに一斉に激しいノイズが走った。


 ざらついた砂嵐が画面を埋め尽くし、下層のあちこちに据え付けられた広告板やホログラム端末までもが、同じ映像へと強制的に切り替わっていく。


 映し出されたのは、あまりにも豪奢な部屋だった。


 金糸の刺繍が施された垂れ幕、白磁の床、磨き上げられた柱。下層の鉄錆と黒雨からは、あまりにも遠い場所。その玉座に、ひとりの少女が浅く腰掛けている。

 顔は純白の布で隙間なく覆われており、その表情を窺うことは一切できない。だが、この国に生きる者なら、そこに映し出されている相手を知っている。

 自らを『上皇』と名乗る、この国絶対の支配者。


『下層に沈殿せし民よ──』


上皇の声が天から街へと降り注ぐ。


『こんにちは~~』


玉座の上で、ひらひらと軽薄に手を振ってみせる。


『上皇だよ~~。みんな、元気してる?』


少しだけ首を傾げ、愛嬌を振りまくような仕草。彼女は滑らかな調子で言葉を続けた。


『してないよねぇ。知ってる。だって下層だし。ご飯足りないし、仕事ないし、治安悪いし、未来もないしねぇ』


下層の惨めさを一つずつ読み上げてくる。


『そんな絶望真っ只中な皆さんに!』


上皇がぱん、と小気味よく両手を叩く。


『今日はお知らせがありま──す!』


直後、スクリーンいっぱいに巨大な文字が不気味に浮かび上がった。


──終頁プロジェクト


下層の街が一気にざわつき、重苦しい空気が伝播していく。

 

『さてさて。内容は、とーっても簡単です』


上皇は玉座から身を乗り出すようにして、画面の向こうの下層民たちを見下ろした。


『怪奇を持ってきてください』


一瞬の、痛烈な沈黙。


『以上!』


沈黙は、すぐに困惑へ変わった。誰かが隣を見る。誰かが自分の懐を押さえる。下層で怪奇は珍しいものではない。商品棚にも並ぶ。労働にも使われる。けれど、それを朝廷へ持ってこいと言われると、途端に意味が変わる。


『いや、本当にそれだけなんですね~。皆さん、何かしら怪奇とは縁があるでしょう? 買ったもの、拾ったもの、憑いてきたもの、捨てたくても捨てられないもの。そういうの、ひとつくらいあるはずです』


さっきまで画面を見上げていた者たちの視線が、横へずれる。隣の腰袋。露店の奥。路地裏に積まれた回収箱。誰も声には出さない。ただ、そこにある怪奇が急に別の値段を持ち始めた。


『強いとか弱いとかじゃない。珍しいとか、有名とかでもない。大事なのは、その怪奇にどんな話があるか。誰が見たのか。誰が怯えたのか。どう噂され、どう育ち、どうして今も君の手元にあるのか』


『君がそれを、どう語るのか。それを見たいんですね~』


 上皇は両手を広げた。


『もちろん、タダでとは言いません』


 白い指が一本、画面の中央に立つ。


『上層への居住権をあげます』


 その瞬間、下層が沸いた。


 叫び声が上がったわけではない。だが、空気の温度が変わった。泥の中で諦めていた目が、いっせいに光を拾う。誰かが息を呑み、誰かが報酬袋を握り潰し、誰かが隣人の顔を見た。さっきまで除去官に怯えて首を振るだけだった群衆が、今度は別の理由で黙り込む。


 あの、上層だ。


『ただし、一名限定。君を、その怪奇ごと上層へご招待。そして一人に限定するために、こちらは試験を全部で三つ用意しました。それらを全部突破できたら合格です。簡単でしょう?』


 簡単だと思った者はいない。


 それでも、引き返そうとした者はいない。


 上皇は玉座から立ち上がり、画面の奥へ軽い足取りで歩いていった。しばらく紙を漁るような音がして、やがて一枚の申請書らしきものを引っ張り出す。


『これ、見えますか~?』


 紙が画面いっぱいに押しつけられた。


 細かい記入欄と、読ませる気のない注釈がびっしり並んでいる。下層の粗悪なスクリーンでは、文字の大半が潰れていた。


『下層の民たちは、とりあえず管に行けばこれがもらえます。名前を書いて、持っていく怪奇を書いて、その怪奇にまつわる話を書いて、提出してください。あとは管が選別してくれます』


 上皇は指を三本立てる。


『もう一度言いますよ。試験は全部で三つ。これをすべてクリアすれば、晴れて上層へお迎えします』


 そこで、純白の布に覆われた顔がレンズへ近づいた。


『それじゃ、皆様が語る怪奇を――楽しみに待ってますね』


 上皇は最後に、軽く手を振った。


『ということで、頑張ってくださ~い』


 プツン、と映像が途切れる。


 直後、スクリーンには規約文書のような文字列が猛烈な速度で流れ始めた。読むための文字ではない。読む者のためではなく、読まなかった者を黙らせるための文字だった。


【適格者選別】


【怪奇保持者認定】


【上層移住試験】


【全三試験】


【提出された怪奇、逸話、噂、記録、関連物品の管理権限は管に帰属する】


【試験中に発生した負傷、死亡、失踪、変質、所有怪奇の喪失について、管は一切の責任を負わない】



 やがてすべての文字が流れ去り、最後にたった一行だけが画面に残る。


 ──選ばれし者よ、管を上れ。


 ──己が怪奇を、その手に携えよ。





上皇の言葉が途絶えた。


「素晴らしい。流石は上皇様、全てが素晴らしい素晴らしすぎて素晴らしい。もはや賞賛以外の言葉が罪となる」


 除去官は滂沱の涙を垂れ流しながら、確保した反抗分子の髪を掴み、乱暴に引きずり上げる。男は何か叫ぼうとしたが、電磁警棒を見せられただけで口を閉じた。


「お前らも権利があるなら参加しろ、参加して死ね」


そして彼らは、闇の奥へ消えていった。


連行された人間たちを、再び街で見ることはない。


「……永住権、か」


誰かが、喉に詰まった泥を吐き出すような声で呟いた。


「二週間も名前だけ流しやがって、内容がこれか」


「怪奇を持ってこいって……何だよ、それ」


「でも上層行きだろ。本当に一人でも選ばれるなら……」


「本当に上へ行けると思うか? 朝廷が下層の人間を、たった一人でも上に入れると思うか?」


男はそう言いながら、それでも管の方を見た。


「……まあ、行きてえけどな。上層」

 

「アンタはどうだい?」


 唐突に問いかけられ、ミサキはしばし言葉を探した。

 

「行けるものなら、まあ行きたいよね」


「だよな~~………」


男はしみじみと頷いた。


「だって、ここはもうすぐ滅んじゃうし」


「ん……?」


男の頷きが途中で止まった。


「出来れば安全な所に逃げたいんだけれどねぇ。滅んじゃうし」


「んん?」


「あ、皆にも教えてあげるとね。七日後にこの世界は滅ぼされて――――ってあれ?」


 さっきまで近くにいたバイトたちが、ものすごい勢いで距離を取っていた。


「アッ。……そっすねェ」


ミサキに話しかけてきた男が、眼をすっと逸らす。早歩きで去っていく。処世術ここに極まれり。彼は賢かった。


「何だよ、もう」


ミサキは唇を尖らせた。


 せっかく親切に教えてやったというのに、誰も感謝しない。七日後に世界が滅ぶと忠告してくれる相手など、そうそういるものではないというのに。


 不満げに鼻を鳴らしながら、ミサキは人の流れを外れ、ネオンの届かない裏路地へ入っていく。


 背後の喧騒は、角を曲がるたびに遠ざかった。上層だの、永住権だの、終頁プロジェクトだのと浮ついていた声は、配管の唸りと湿った壁に吸われていく。代わりに広がるのは、下層らしい薄暗さだった。黒い水たまり、錆びた階段、壁からはみ出た配線、用途不明の警告札。ここでは何もかもが壊れかけていて、何もかもがまだ使われている。


「はぁ…でもどうしようかなぁ。プロジェクトに参加する? ……無理無理。ボクは絶対に無理。じゃあ、当てがあるかと言われると……そうでもない」


 そんなことを考えながら、さらに路地を曲がったところで、ミサキは足を止めた。


 男がいた。


 ただし、普通の立ち方ではない。


 天地が逆だった。


 狭い路地の真ん中で、黒いスーツの男が、まるで干物のように吊るされている。両足はワイヤーでまとめられ、その先は建物の隙間を抜けて、はるか上へ消えていた。終点は見えない。たぶん本人にも見えていない。


 黒いスーツに、きっちり締められたネクタイ。


 身なりだけ見れば、下層に迷い込んだ役人か葬儀屋のようだった。だが現在の彼は、顔へ血が集まりすぎて、慇懃さよりも赤みの方が勝っている。人間も逆さまに吊るせば、それなりに愉快な生き物になるらしい。


「………」

「………」


「…妖怪逆さ蝙蝠男?」

「…何ですそれ。あの、見ていないで助けてくれませんかね」


 男の足首にはワイヤーががっちり食い込んでいた。身じろぎするたび、上の方で金属がきしむ。かなり本格的な拘束である。


「…趣味?」


「なわけないでしょう。不幸な事故ですよ。極めて不運な」


中々面白い見世物ではあった。


 とはいえ、いつまでも眺めているわけにもいかない。ミサキは懐からナイフを取り出し、軽く手首を回した。


「じゃ、切るよ」


「できれば慎重にお願いします」


「任せたまえよ」


ミサキはワイヤーを叩き切った。


 実に迷いのない一撃だった。


 そして、その下には水たまりがあった。ただの水たまりではない。下層の路地裏にありがちな、何が溶けているのか考えるだけで損をする、どす黒い種類のやつである。


「あ」


「ぬぎゃっ!!」


さっきまで黒いスーツの男だったものは、今や黒い泥の中から生まれた別種の何かになっている。胸元に張りついていてわずかにその色を保っているネクタイが社会性の唯一の名残だ。


「………ひどく汚れたねぇ」


「誰の……せいだと」


 泥まみれのまま、男が低い声で返した。



 




 ゴウン、ゴウン……。


 深夜のコインランドリーに、重い回転音が響いている。


 下層の路地裏から一枚壁を隔てただけだというのに、そこには妙な清潔さがあった。床はべたついていない。壁に血痕もない。天井から得体の知れない汁も垂れていない。下層基準では、もはや高級宿泊施設と言っていい。実際に寝泊まりしている者もいるので、あながち間違いではなかった。


 洗剤の匂いが、ぬるい空気に混ざって漂っている。


「下層七不思議の一つ。コインランドリーだけは、いつも清潔」


ミサキが乾燥機の熱気を背に呟く。

 

「おやご存じでない?コインランドリーは怪奇を退けるのですよ。曰く、洗濯機の無限なる回転が不浄なる死を払い、乾燥機の熱風が湿った怨念を蒸発させる」


「それ絶対嘘だよ」


「迷い人が好む類の迷信ではありますね」


男は、洗濯機の中で回る自分のスーツを眺めながら、不快そうに顔を歪めた。


「しかし、ひどい目に遭いました。私としたことがあんな…」



 忌々しげに吐き捨てると、ふと思い出したように顔を上げた。



「貴女名前は?」


「ミサキ」


「ミサキ…。私はヤモリと言います、ひとまずよろしく。…さて、それで何がお望みで?」


「お望み?」


 ミサキが聞き返すと、ヤモリは心外だと言わんばかりに眉を寄せた。

 

「私から言わねばならないのですか? お礼ですよ、およそ人助けとしては最低な類に入る対応ではありましたが、それでも私を宙吊りから解放してくれたのは確かですので。だから、お礼ですよ」


「お金とか?」


「それが欲しいのならええ、下層の住人が一年は遊んで暮らせるほどの金を渡してあげましょう。それか呪符でも良いですよ」


「じゅ、呪符はいらない!」


「そうですか、即物的ですね。では金で良いですか?」


あまりにも平然と言われたので、ミサキの心は普通に揺れた。


 一年遊んで暮らせる金。


 それはつまり、一年食べられるということだ。一年寝床に困らないということだ。一年、怪奇回収のバイトで変なものを追いかけたり、変な人間に追いかけられたりしなくて済むということだ。

だが、ミサキが求めているものは、それではない


「上層に行く方法とか?」


ミサキが答えると、男は一瞬、呆気に取られたように沈黙し、それから喉の奥で「はっ」と短く、馬鹿にしたような笑いを漏らした。


すごく失礼なものを感じたミサキの眉に皺がよった。


「失礼。夢を見る権利は誰にでもある。…そうですね、重要なのは怪奇をいかに扱えるか。これに尽きます。……ところでミサキさん、貴女は死にかけた経験はおありで?」


「……なんて?」


「じゃあ、因習村の出身では?」


 「いんしゅうむら?」


「生贄文化や土着信仰の残る閉鎖集落です」


 「…………違うかな?」

 

「では幼い頃にカルトに捕まって儀式の贄にされかけたとか、ご両親が狂信的な信者だったとか、心当たりはありませんか?」


「ボクに両親はいない」


「ふむ。では、殺人鬼の友人や恋人、親類は? あるいは、近頃ストーキングされていたりなどは?」


「全くいない」


「では、何かしら死にかけることは無きにせよ、身の危険を感じたことは?」


「ない」


項目が進むたび、ミサキの人生から怪奇向きの陰影が一つずつ消えていく。普通なら喜ばしいことだ。死因も清潔、家庭も清潔、人間関係も清潔。だがこの男の前では、それがまるで履歴書の空欄のように扱われている。


「これはまた……下層には勿体ないほど幸運と健康に恵まれた人だ。長生きはできるでしょうが、怪奇との相性は致命的に悪いですね」


ヤモリは指先を組みながら続ける。


「怪奇は“死”や“恐怖”へ強く結びついた人間へ寄ってくる」


「より強い死と隣接した者ほど、怪奇を扱う適性を持ちやすい」


「プロジェクトで問われているのは『死を御する力』。それを証明するためには、怪奇を一つでも掌握し、その力を振るえるようにならねばなりません。それも、自身の命を脅かしている対象であればあるほど望ましい。より強力な因果と力を得られますから。貴女の身近にそういった存在がいないとなると、話は難しくなります」


「もっとも、怪奇なら何でもいいというわけでもありませんがね。あまりに強大すぎるものは、そもそも制御不能だ」


「強力な怪奇……例えば、『怪人アンサー』とか?」


ヤモリの指が、そこで止まった。


 ほんの一瞬だけ、洗濯機の回転音がやけに大きく聞こえた。



「……ふむ」


 ヤモリは顎に指先を添える。


「確かに噂になっていますね。その知名度に違わず、強力な個体であるのは間違いないでしょう」


ヤモリは指先で顎をなで、講釈を垂れるように続ける。


「怪奇とは人から人へ語り継がれることで形を成す存在です。ゆえに、有名であればあるほどその力は強まる。もっとも、何をもって『強力』と定義するかは、議論の分かれるところではありますがね」


「じゃあ、もし仮に……ボクがアンサーを手に入れれば、合格できる?」


「無理です。断言しましょう」


即答。


「貴女と同じことを考える人間が、この街にどれほど溢れていると思っているのですか。上層行きの餌をぶら下げられた下層民たちは、これからこぞって怪奇を探し始めるでしょう。売る者、奪う者、騙す者、飼っていた呪いを急に自慢し始める者。街中がにわか狩人で埋まる」


 ヤモリはそこで、わずかに口角を上げた。


「そして獲物を仕留めるのは、そういったにわかではなく、知識と度胸を以前から備えている最も狩人となる」


不意に、洗濯機の終了ブザーが鳴り響いた。

 男は優雅に立ち上がり、乾燥したばかりの高級スーツを手に取る、全くきれいなままだ。それに慣れた手つきで袖を通し、皺一つない状態へと整えていく。衣服というものは偉大だ。人間の中身を変えずに、周囲へ与える錯覚だけを整えてくれる。


「悪いですが貴女にはその素質を感じられません」


「ふーん? 言うじゃないか」


言い返そうとしたミサキの言葉を、ヤモリは濡れたハンカチで指先を拭いながら、無造作に遮った。


「事実を言っているだけです。諦めてほかでも狙いなさい」


ヤモリはスーツの内ポケットから、厚みのある紙幣の束を取り出した。それを無造作に、近くの洗濯機の上に置く。


「これは私を解放した手間賃です。下層の人間にとっては、一生かかっても拝めない額でしょう。受け取って、せいぜい今夜はマシな夢でも見ることですね」


 ヤモリは自動ドアへ向かう。


 最後に、肩越しに少しだけ言った。


「そして夢は、分相応にとどめておきなさい」


「……」


「では、さようなら」


自動ドアが開き、湿った夜の空気が一瞬だけ流れ込む。下層の闇は、外でずっと待っていたように男の背中を呑み込んだ。黒いスーツは夜に紛れ、磨き直された靴音だけがしばらく路地に残る。


 やがて、それも消えた。


 後に残されたのは、ゴウンゴウンと空回りする乾燥機の音と、無機質な洗濯機の上で場違いに積まれた金の束だけだった。


 その金額は、下層で生きるには十分すぎる。

けれど、上層へ伸ばした手を諦める代金としては、あまりにも安かった。



 

 後日。


 ミサキは再び、怪奇を確保するバイトに参加していた。


 いつものようにヤクザの説明を聞き流し、いつものように安っぽいライトを渡され、いつものように湿った階段を下っていく。怪奇回収の仕事に慣れるというのは、命を雑に扱われることに慣れるという意味でもある。あまり誇れる成長ではない。


「ムカつく奴だったな……」


 ミサキはぼそりと呟いた。


 もちろん、ヤモリのことだ。


 あの黒スーツ。あの態度。あの、泥水から生まれたばかりのくせに、なぜか世界を上から眺めているような目。思い出すだけで腹の奥がもぞもぞする。


「………」


「いや、本当にムカついた。人格がねじ曲がってる。絶対に友達も恋人もいないな。確信できる。毎朝、鏡に写った自分を見て悦に浸ってるタイプだ」


 ブツブツと文句を言う。言わなきゃやってられない。


 下層の階段は暗く、湿っていて、妙に長い。足元では水が跳ね、壁の奥では配管が低く唸っている。こんな場所を無言で歩けば、考えたくないことまで考えてしまう。文句は精神の松明である。照らす範囲は狭いが、ないよりはましだった。少しはこの暗澹を慰めてくれる。


そんなミサキの耳に前方から、騒がしい足音が押し寄せてきた。


 最初は数人分に聞こえた。だが、すぐにそれは群れの音へ膨れ上がる。怒号、笑い声、金属の擦れる音、誰かが転びかけて罵る声。怪奇回収の現場ではよくある音だ。人間が優勢だと思い込んでいる時の、あのやかましさである。


階段を抜けた先には、地下廃墟の巨大な吹き抜けが広がっていた。


 そこに、バイトたちが雪だるま式に集まっている。


 最初は数人だったのだろう。逃げ回る怪奇を追ううちに、別区画の探索班が合流し、さらにその声を聞きつけた連中が集まり、気づけば数十人規模の包囲網ができあがっていた。人間というのは、勝てそうな相手を見つけた時だけ妙に団結する生き物である。


「逃げ場はねえぞ!」


「こいつ、戦う気すらねえじゃん」


「さっさと捕まえて上に運ぼうぜ!」


その中心で、ぼろぼろのフードを深く被った怪奇が、震える手で二色の紙を差し出しながら、掠れた声を漏らしていた。


「……あかいかみ、ほしいか……? あおいかみ、ほしいか……?」


数十人の包囲網。怒号と嘲笑が飛び交い、じりじりと間合いを詰める。ミサキはその群衆の最後尾から、様子を窺う。


 いつも通り、この怪奇も「商品」として解体される。そう、いつも通りの結末。


――狩りで優勝するのは、最も優れた狩人です。


脳裏に、あの男の傲慢な声が蘇る。


だが。

 

だが、狩りには不測の事態がつきものだ。


「……あかい、かみ……。あおい、かみ……」


怪奇がそう再度呟き、直後その背後から、赤い紙が噴き出した。


 紙、と呼ぶにはあまりにも巨大で、あまりにも生々しく動くものだった。何百枚もの赤い帯が、広場の空気をまとめて塗り潰すように広がっていく。紙は薄い。薄いはずなのに、それは刃よりも速く、鞭よりも重く、人間の包囲網を真上から叩き潰した。


「なっ――!?」


先頭の男たちの声は、最後まで形にならなかった。


 さっきまで勝利を確信していた群れが、一瞬で悲鳴の群れへ変わる。怒号は裏返り、武器は取り落とされ、人間たちは互いを押しのけながら逃げ始めた。


紙の触手は生き物のようにうねり、周囲の人間をまとめて肉塊へと変えながら、さらに外周へとその捕食域を広げていく。


「っ……!」


冗談ではない。こんなところで死ぬのはあまりに割に合わない!


ミサキは反射的に反転し、アスファルトを蹴った。

背後から迫る津波の先頭が、彼女を狙って鋭くしなる。ミサキはそれを紙一重の跳躍でかわし、階段へ飛び込み、手すりを掴み、二段飛ばしで上へ駆け上がる。下から響く悲鳴と破砕音が、追い風のように背中を押した。全くもってありがたくはないが、それがミサキの足の回転をより速くさせた。




 作業服を着た男たちが、ブロック状に圧縮・固定された怪奇を、手際よく金属製のコンテナへ詰め込んでいる。管へ運び、高値で売り飛ばすための商品の梱包作業だ。


 それは、見慣れた、いつも通りの光景だった。


だが。下の階層から、地鳴りのような咆哮と、尋常ならざる物音が響き渡ると、ヤクザたちの顔から余裕が消え失せた。


「おい、下の連中はどうした!」

「様子がおかしい、積み込みを急げ! さっさとここを引き払うぞ!」


怒号が飛び交い、現場はにわかにパニックへと陥る。

 ミサキはその混乱に紛れて、ここを離れようとする。


 コンテナの横を走り抜け……コンテナ?


 高く積み上げられたコンテナと、その先に続く搬送ルートを視界に入れた瞬間、一つの思考が脳裏をかすめる。


(……待てよ。これ、チャンスじゃない?)


 コンテナは管に運ばれる。管はおそらく上層へと繋がっている。つまり……つまり、こいつに乗り込めれば――――


今、この混乱に乗じてコンテナに紛れ込めば、検問も警備も飛び越えて、一気に「上」の階層まで運んでもらえるのではないか。


「ボクはもしかすると天才かもしれない……」


ミサキは音もなく移動し、積み込み作業の最後に残っていた、一番端のコンテナへと狙いを定めた。そこでは一人のヤクザが、周囲を警戒しながら慌ただしく扉を閉めようとしていた。


男が扉のロックを握り、背を向けた、その瞬間。


ミサキは影から飛び出し、一歩で距離を詰めると、一撃を男の後頭部へ叩き込んだ。


鈍い衝撃音と共に、男は声を上げる間もなく崩れ落ちる。

 ミサキはすぐさま男の襟元を掴んで引きずると、積み上げられたドラム缶の死角へと押し込んだ。


辺りを見回す。ヤクザたちは下の異変に気を取られ、こちらを見ていない。

 ミサキは素早くコンテナの扉をこじ開けると、怪奇が詰まったコンテナの中へと滑り込んだ。



 内側から扉を静かに閉める。中には商品として箱詰めされた怪奇とそれを包むための梱包材。そして男。


男だ。


 一度会っただけで二度目は遠慮したくなる類の男。慇懃無礼という概念が靴を履き、ネクタイを締め、こちらを見下ろすためだけに歩いているような男。つい先日、泥水から別種の生物として誕生し、コインランドリーで社会性を取り戻した男。


ヤモリがすみっこで体育座りをしてそこにいた。



「………」


「………」


お互いの間に沈黙が流れる。



ヤモリは無言のまま、長い脚を伸ばしてミサキの腹部をぐいぐいと蹴りだすように押し始めた。

 ミサキも負けじと、ヤモリの膝を掴み、その力を跳ね返す。狭いコンテナの中で、梱包材をガサガサと鳴らしながら、押し合いが繰り広げられた。


「おいっ!! 運ぶぞ!!」


直ぐ近く、薄い鉄板の向こう側から野太い怒鳴り声が響いた。

 

 びくり、と両者の肩が同時に震える。

 

 コンテナの外でロックがかかる重い音が響き、直後、胃が浮き上がるような衝撃が二人を襲った。フォークリフトがコンテナを持ち上げ、搬送を始めたのだ。


「…………」

「…………」


今は音を立てるわけにはいかない。

 二人は互いに忌々しげな視線をぶつけ合ったまま、ひとまずは休戦を宣言するように、絡めていた手足をゆっくりと引き離した。


冷たい鉄の箱が、ガタガタと不規則に揺れ始める。

 ヤモリは溜息をつくことさえ無礼に感じるような仕草で、再び膝を抱え直し、ミサキから視線を逸らした。


「何故ここに……コンテナに入ってくるのです」


 もう声を出しても良いと判断したのか、ヤモリが非難がましい口調でそう攻め立ててくる。


「そのまんま返すよ。君こそ何をしてるのさ」


「仕事ですよ」


そう言うとコンテナの扉をヤモリは開く。

 

 扉の先は闇に彩られた果てのない空間。


 巨大なアームがコンテナを次々と掴み、虚空の先へと運んでいく。


 そんな運搬ラインが、奥行きも広さも測り知れない暗闇の中に、無数に走っていた。

 

 遥か下方には、ゴミの山がいくつも積み上がっている。


「ここは……」


「異空間ですよ。正確に言えば、異界エレベーターの運用過程で発見された特異領域です。このように物理的な距離や障害物を無視して物資を最短で運搬できるため、非常に重宝されています」


男は汚れ一つなくなったスーツの袖口を整えながら、淡々と解説した。


「へぇー……」


 ミサキは流れていくコンテナの群れを見た。


「ちなみにさ。このまま乗っていけば、上まで行けたりする? それこそ、上層まで」


ヤモリは心底呆れた顔をした。


「そんなことが可能なら、誰も苦労しません」


「だよねぇ」


「このラインの行き先は、せいぜい管の集積場です。それ以上は、物理的な接続だけで辿り着ける場所ではありません。上層とは、ただ高い場所にあるというだけの場所ではない」


「……そんな甘くないか」


ミサキは流れていく箱の列を見つめ、短く呟いた。


 だが、落胆は長続きしなかった。


 上層への道が一つ潰れた。なら、別の道を探せばいい。もともと正規の道など持っていないのだ。閉ざされた門の前で泣くより、壁の穴を探す方が建設的である。


 ふんす、とミサキは小さく息を吐いた。


 そんなミサキの隣、ヤモリは対面に逆方向へ流れていくコンテナを注視している。


「ねえ」


「………」


「もしも~し」


「……あのですね、これから私は非常に重要な仕事があるのですよ。貴女に構っている暇などこれっぽっちもないのです」


「仕事?」

 

「怪人アンサーを扱うというね。貴女のような存在には縁遠い話かとは思います、が……」


 そこで、ヤモリの声が止まった。


「今 アンサー って言ったよね?」


「………」


「言ったよね?」


「……………………まあ、言ったような…言わなかったような」


「つまり今からアンサーに会いに行くってことだよね!?」


 沈黙。これは不味い。勢いに任せて暴露してしまったが、これは本来他言無用の――――


「まあ、実は今までの言葉はすべて欺瞞なんですけ――――」


「連れていってくれ!!!」


「!!!!」


 瞬間、身を翻したヤモリは、開いていた扉から、流れてきた向かいのコンテナへ飛び移る。


 「さようなら!」


 そう言って次のコンテナに目を向けると。


背後で空気を引き裂く鋭い足音が響く。ヤモリが驚愕して振り返ると、そこにはコンテナの角を蹴り跳ぶミサキの姿があった。


「まだ話は終わってないよ!」


「何なんですか貴女は!?」


虚空を舞台に、チェイスが始まった。

 頭上のレールからアームに吊り下げられたコンテナ群は、まるで巨大な回廊のように暗渠を流動していた。

ヤモリは次々と迫りくるコンテナの上を、流れるような動作で跳び進んでゆく。


対するミサキも、それに応戦する。

高速で移動するコンテナの上を、野生の獣さながらの跳躍で飛び移り、アームのワイヤーを掴んではその反動でさらに前方のコンテナへと身体を投げ出す。


コンテナの縁を蹴り、アームのワイヤーを掴み、振り子の反動でさらに前へ飛ぶ。足場は一定ではない。前の箱は沈み、横の箱は流れ、後ろからは別のコンテナが無遠慮に迫ってくる。まともな人間なら三歩で足を滑らせる場所だった。


どちらもまともな人間ではなかった。


前方には、終着点が見えていた。

 

 虚空のただ中に、巨大な鏡が垂直に鎮座している。搬送ラインに乗ったコンテナたちは、その鏡面へと吸い込まれるように次々と消え、波紋一つ立てずに姿を消していく。


「しつこいですね!」


ヤモリは搬送ルートの終わり。鏡の直前で、右下後方へと視線を向ける


そこには、巨大な鏡に隠れるようにして、もう一つ、人が一人通れる程度の小さな鏡が、斜めに配置されていた。知らなければ見落とす。知っている者だけが使う出口。


「では、ごきげんよう」


ヤモリは空中で鮮やかに身を翻すと、その小さな鏡面へと、迷いなく飛び込んだ。

 

 心臓がどくんと高鳴る


 得体の知れない恐怖。


この先で何が起こるのか分からないという本能的な警戒。


 そんなものを押しのけて燃え上がる感情がある。


(ここで逃したら、もう二度とアンサーには辿り着けない……!)


迷いを振り切るように、ミサキは力を脚に込めた。

 コンテナが鏡面に接触する、その刹那――。


彼女は弾かれたように空間を跳んだ。

 反射の光が渦巻く、小さな鏡の奥へと、吸い込まれるようにその身を投じる。


反射の光が渦を巻き、上下も前後も一瞬でほどけた。視界いっぱいに自分の顔が映り、それが細かく割れて、伸びて、溶ける。胃の奥を掴まれるような感覚が走った次の瞬間、異空間の闇も、無機質な駆動音も、すべてまとめて消えた。


 そこは古びたバーだった。


目の前でヤモリが呆然と呟く。

 

「まさかここまでついて来るとは……」


琥珀色のランプが薄暗い店内を照らし、カウンターの奥には、バーテンダーが一人、静かにグラスを磨いている。

 ヤモリは乱れた前髪を指先で整えると、ギシギシと鳴る板張りの床を踏みしめ、カウンターへと歩を進めた。後ろからミサキもチョコチョコ付いて行く。


 「全く、とんでもない貧乏神を拾ってしまった……」


「……ここが、アンサーの場所……?」


安物のアルコールと、幾層にも重なった煙草の煙。

ヤモリは観念したように深い、深い嘆息をついた。


「……ただの待ち合わせ場所ですよ。全く……感嘆するに余りあるしつこさだ。私が何か貴女にしましたか? ………はぁ」


ミサキは彼の泣き言を聞き流し、店内を見回した。


客はいない。椅子もテーブルも、長い間待ちぼうけを食らっている顔をしていた。バーというより、酒瓶を並べた隠れ家である。


 闖入者二人。


「マスターウイスキーを一杯お願いできますか」

「マスター ボクにも彼と同じものを」

 

「奢りさ」


ミサキは華麗にウインクを繰り出す。


「お金ならたくさんあるからね、好きなものを頼んでくれていいよ」


「帰ってください。何でしたらさらに私からお金を渡しても良い。倍払いましょう」


「やだ」


「帰れ」


「いやだ」


ヤモリの懇願に近い拒絶をミサキは涼しい顔で受け流し、ミサキは図々しくカウンターのスツールに腰を下ろした。


マスターは、氷を削る手を止めることなく、感情の起伏を感じさせない手つきで、琥珀色の液体を注いだグラスを二つ、静かに滑らせる。


「乾杯」

「……」


ヤモリは差し出されたグラスの縁を指でなぞりながら、心底嫌そうにミサキを横目で睨んだ。


そして一息に飲み込む

 

「はぁ…何を知りたいので?」


「アンサー」


 グラスを磨いていたマスターの手が、わずかに止まる。


ヤモリは目を閉じ、救いを求めるように天を仰いだ。当然、古い天井に救いはない。染みと埃と、回る気のないファンがあるだけだ。それでも彼は、何かに判断を委ねるようにしばらく黙っていた。


眉間に深い皺を刻み、絞り出すような声で呟く。


「……やはり、先程の私の失言こそが、人生最大の不覚でしたね。己の間抜け加減に本気で死にたくなったのは初めてです」


そう言って、ヤモリは空になったグラスをカウンターへ置いた。


マスターは、何も言わずに二杯目の準備を始めた。


ヤモリはゆっくりと目を開けると、冷徹な瞳が、ミサキを正面から捉える。


「貴女、好奇心は猫をも殺すという格言が何故生まれたのかご存じで? 貴方のような小動物程度の知能しか持たない人間が危険物へ自分から突っ込むからですよ」


ミサキの赤色の瞳が、暗い店内で怪しく光る。


「これは好奇心なんかじゃない」


ヤモリは鼻で笑い、追い払うように手を振ろうとした。


「では教えましょう。怪人アンサーはすでに予約済み、そして売却済みなのですよ」


「所有者がすでに定められている」


「…………」


「一から説明しましょう。貴女は街の至る所で、黒いドレスを着た女の看板を目にしているはずだ。……『簒奪葬儀』のサヨリ。それがアンサーの所有者です」


ヤモリはグラスを置き、淡々と事実を積み上げるような口調に切り替えた。


サヨリ。


下層で怪奇を扱う者なら、その名を知らない方が難しい。怪奇を加工し、買い取り、売りさばく。葬儀を名乗りながら、扱っているのは死者だけではない。死にまつわる物、恐怖にまつわる物、噂にまつわる物。その手に渡れば、どんな怪奇も値段を付けられ、形を整えられ、商品棚へ送られる。


「怪奇を加工し、売る」


「その規模、その技術、その利権において――下層で彼女に並ぶ者はいない」


ヤモリはミサキの反応を確かめるように、わずかに間を置いた。


「誰も彼女の機嫌を損ねるような真似はできない」


それは陳腐な脅しなどではない。


 雨が降れば濡れる。火に触れれば焼ける。サヨリの取り分に手を出せば、下層のいくつもの勢力をまとめて敵に回す。そういう、ただの事実だった。


ミサキは、街頭の電子看板で微笑む彼女の姿を思い出した。整った顔立ちに、どこか冷ややかな、しかし信頼を抱かせる独特の眼差し。


「そんな女性との商談に、貴女のような素人が割り込む隙などありません。アンサーに手を出すのは、サヨリの取り分を横取りするだけでなく、彼女と繋がっている五層の諸勢力すべてを敵に回すことを意味します」


「成程、よーく理解した。君に付いて行けばアンサーの商談に、アンサーに逢えるって事ね?」


「……」



ヤモリの顔から、感情が消えた。


そこに残ったのは、話が一切通じない相手を前にした者の虚無だった。

 

 

「話聞いてました??? 良いですか私は唯々諾々と他者の頼みごとを聞き届ける心優しきボランティアではない。貴女のような部外者を連れていく気など、というかそもそもとして――」

 

「ヤモリ様。お迎えに上がりました」


 バーの重厚な扉が開くと同時に、場違いなほど澄んだ声が響いた。

 

 現れたのは、エレベーターガールの制服を完璧に着こなした女性だった。


 カウンターまで歩くと、無造作にカウンターに置かれていたグラスを、ヤモリのグラスを掴み一気に飲み込む。


女性は空になったグラスを置くと、カウンターの上に転がっていた銀色のジガーを指先で弄んだ。酒を量るための小さな金属製のカップである。彼女はそれを何気なくひっくり返し、コン、と軽い音を立ててカウンターに伏せた。


 


「旨いですね、これ」



 無言でマスターは酒を注ぎ、女性に与える。それも女性は飲みほす。


「旨い」


満足げに喉を鳴らす女性を余所に、マスターは何事もなかったかのように、またグラスを磨くルーチンへと戻っていく。


ヤモリは弾かれたように立ち上がった。ようやく救援が来た遭難者の顔である。彼はミサキを追い払うように片手で押しのけ、急ぎ足で女性の傍らへ歩み寄る。


「おお、ようやく来ましたか! さあ、行きましょう。……ああ、お嬢さん。貴女との不愉快な時間はここまでです。なに、怪奇などに関わらず、精々真っ当に生きてゆきなさい」


ヤモリは勝ち誇った顔で、案内人であるエレベーターガールに付き従おうとした。


 しかし、彼女はヤモリの存在などそこには無いかのように無視し、ただ一点――ミサキを見つめていた。


「?」


何故、自分を見ているのか。理由は分からない。だが、その冷徹な視線の奥に、微かな熱を帯びた興味の色をミサキは感じ取った。

 ――確信はない。けれど、もしこれがチャンスだというのなら。ここで踏み出さなければ、二度とあちら側の世界へ通じる扉は開かない。


 そんな気がした。


「ボクも、彼に付いて行きたいんだけど、良いかな?」


 そう口にする。ヤモリの顔が、即座に歪む。


「一体全体、何を言い出すかと思えば……呆れて物も言えない。 案内人である貴女からも、この分知らずに現実を教えてやってください」


ヤモリが同意を求めて、縋るように女性を振り返る。

 だが、事も無げに返した。


「良いですよ」


「ええ、そうですよね許されるわけ――――はぁ!? 」


 ヤモリが叫ぶ。


「何故!」


「ふむ、理由ですか」


 そんな事を問われるとは思わなかったという顔で、エレベーターガールは首を傾げて見せる。


「恵まれない下層の人間に対する善行? ノンノン」


彼女は人差し指を立てて、左右にチッチッと振った


「では、将来への投資としての見返りを期待して? ノンノン では、全くの気まぐれ? ノンノン。ノンノン!」


ミサキへと歩み寄った。ミサキの赤の瞳と女の瞳が交差する


「人とは快楽物質の奴隷。なればこそ――面白ければ、それで良い」


女性の瞳が、ミサキの金色の瞳と至近距離で交差する。


「少なくとも、私はそう思います。とりあえず退屈な今日に1面白を追加するんです」


「いや、ですがこれは貴女が勝手に判断して良い案件では――」


「責任および権限は私に一任されてますが?」


 それを言われるとどうしようもないじゃん。ヤモリは黙った。


案内人の女性は、いたずらっぽく目を細めると、左右の拳をぎゅっと握り込み、ミサキの目の前へと突き出した。


「とはいえ、何もなしに乗せるのはツマラナイ。ですので、ここは……そう、古風にコイン当てとしましょうか」


 彼女は握り込んだ拳をミサキの鼻先で軽く振ってみせる。


「どこにコインが入っているか。当てられたら、貴女も招待しましょう。外せばそこで終わり。乗りますか?」


「乗った」


「では、どちらに?」


ミサキが即答する。続けて答える。


 「どちらの手にもない」


 女性の目が細くなる。


「コインは、そこのあんたが最初に伏せた銀色のカップの中だ」


 エレベーターガールが、ひらりと両手を開いた。


そこには当然のように、何も握られてはいなかった。


「――正解。ふふ、簡単すぎましたかね」


 次の瞬間。


「ハッ――ハハハハハ!!」


ヤモリが高らかに笑い出した。

 

「 残念!無念! 銀色のカップの下だと、そう言いましたよね? それは間違い。何故なら…そこにコインは無いのですから!」


高らかに哄笑するヤモリ。彼には見えていたのだ。

 案内人がバーに足を踏み入れ、ジガ―をひっくり返したその流麗な動作。その影で、彼女がコインをグラスの底に仕込む一瞬。並の観察眼なら見逃しただろう。だが、彼の眼は欺けない。

 

ポケットの指先に触れた、硬質で冷たい金属の感触。

 

「そうすでに私がかすめ取ったのですからっ!」


まじかよコイツ。ミサキとエレベーターガール。加えてバーのマスターまでもが同じ感想を抱いた。



「どこにあるのか当てろと言われて、貴女は外した。つまりここで終わり回れ右、お家へゴーホーム! さようならバイバイシーユー。 ………これは事実だ、変えようもない。このコインは貴女にはもったいな――――」



ヤモリは、ポケットからゆっくりと手を引き抜いた。

広げた掌。そこにあるはずの、鈍い真鍮の輝きを突きつけてやるために。


――だが。

 彼の掌の上にあったのは、ビール瓶の王冠だった。


「な……!?」


 慌ててポケットをあさり、裏地を引きちぎらんばかりに探る。ない。コインなど、どこにもない。――――ない!!


「馬鹿な……私は確かに、掠め取ったはず……確実に!」


「はて?」


 エレベーターガールは涼しい顔で言った。


「何か勘違いをなされていたようですね」


 ひらりとジガーを持ち上げる。


 そこには、ヤモリが盗んだはずの――いや、最初からそこにあった本物のコインが、動かぬ証拠として鎮座していた。」


 やられた………! 

 

「ヤモリ様。そろそろお時間となりますのでこちらに。それと……どうぞ、ミサキ様。そしてあちらへどうぞ」



  彼女が指し示した先で、バーの壁が歪み始めた。


 何の変哲もないレンガ壁だったはずの場所に、じわりと黒い線が走る。染みのように広がり、ひび割れのように深まり、やがて内側から空間そのものを押し広げるようにして、銀色の扉が現れた。


 エレベーターの扉だ。


 古びたバーの壁から生えてくるには、あまりにも無機質な金属だった。表面には複雑な回路図のような模様が彫り込まれ、薄暗いランプの光を受けて鈍く光っている。酒と煙草と古い木材の匂いの中に、突然、別の世界の部品が差し込まれたようだった。

 

「さあ、どうぞ」


案内人が招き入れるように開閉ボタンを押すと、中は外観からは想像もつかない。黄金色のベルベットが敷き詰められ、柔らかい暖色の照明が灯る、贅を尽くした箱庭のような空間だった。


ヤモリはまだ何か言いたそうに口をもぐもぐさせたが、ミサキに「後悔しないことですね」と、捨て台詞を吐くと中へ入って行く

 


ミサキがその豪華な内装に気圧されながら一歩踏み込んだ、その瞬間だった。


――ウィィィィィィィィィン……。


重厚な扉が閉まると同時に、足元の高級なベルベットを突き破るようにして、床下から何かががせり上がってきた。

爆撃機のスロットルを思わせる巨大で武骨な鋼鉄の操縦桿だ。


 それをガッと案内人がつかむ。


「へ………?」


ミサキがその急展開に呆気にとられたのも束の間。視線を横に向ければ、いつの間にかヤモリが壁際に設置された強固な手すりを、両手でガッッッチリと握りしめていた。というか何なら腕を絡ませていた。


 ヤモリはミサキへ視線を向け……ふっ、と笑う。



 それは、これから起こる無慈悲な事態を熟知している者の笑み。そして、何も知らずにただ立っている無知な相手を、心底哀れみ、嘲笑う笑みだ。


「それでは超特急で行きます。エレベーターガールがご案内~~~~~♪」


エレベーターガールの細い指が力を籠め、彼女は一切の躊躇なく、操縦桿を限界まで手前に引き倒した。


「ぎ、えっ……!?」


直後、ミサキの視界が火花を散らす。

凄まじいGが、ミサキの全身を床に叩きつけた。暴力的な射出の衝撃。


ミサキの体は、慣性に従ってエレベーターの奥壁まで無様に弾き飛ばされた。


窓一つない箱庭の中で、ベルベットが床から剥がれ、ただ爆音のような駆動音と、内臓が口から飛び出しそうな加速感だけが支配している。これは移動ではない。弾丸として撃ち出されているに等しいのだ。


「……!」


ヤモリは、苦悶の表情を浮かべながらも、最初から全力でしがみついていたおかげで、どうにかその場に踏みとどまっている。だが、その顔は遠心力で醜く歪み、必死に食いしばる歯の間からうめき声が漏れていた。


一方、何も知らされていなかったミサキは悲惨だった。床をボールのように跳ね、壁に叩きつけられ、もはや上下の感覚すら失っている。彼女は朦朧とする意識の中で、唯一動いていない「支柱」――ヤモリの足首と、手すりの根元に、なりふり構わずしがみついた。


「!?」


みっともない姿だが、そうしていなければ自分の体がバラバラの肉片になって壁にこびりついてしまう。そんな恐怖が彼女を支配していた。ヤモリは足にしがみつかれた不快感に顔を歪めたが、それを蹴り飛ばす余裕すら今の彼にはなかった。


どれほどの時間が経ったのか。

胃の中身が逆流し、脳が揺れきったその時、唐突に無重力が訪れた。


――キィィィィィィィィィィッ!!


耳を劈くような制動音が響き、エレベーターが停止する。

扉が開いた瞬間、ミサキはボロ雑巾のように床に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。


隣ではヤモリも壁へ寄りかかり、顔色を失っている。


案内人だけが涼しい顔だった。


「到着いたしました。お二人とも、お疲れ様です」


そう言って、操縦桿を床下へ収納する。

 

ヤモリは震える手で襟を直すと、服の皺を整え、ミサキに何か言いかけ、せりあがる吐き気に阻まれ、少し息を整え、再度言い直す。


「おやおや。随分と情けない格好ですねぇ」


「……死ぬかと思った!」


ミサキが涙目で睨みつけるが、ヤモリは鼻で笑って取り合わない。

 

「さて、私のお役目はここまで」


案内人の女性は、満足げに二、三度その場でステップを踏むと、エレベーターの敷居を越えようとする二人の背中に、鈴を転がすような声を投げた。


「……では、良き機会となることを心よりお祈り申し上げます」


エレベーターガールのその声に促されるように、ヤモリはよろよろと、しかし虚勢を張った足取りで出口へ歩き出した。ミサキもまた、回る視界を無理やり固定し、彼の背中を追って未知の空間へと足を踏み出す。


二人が降り立った瞬間、背後の扉は吸い込まれるように消滅した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。