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第一章 ようこそ下層世界へ!

ねえ、聞いたことあるかい?

……何でも教えてくれる怪人の話。


非通知の電話が鳴った時、もしかしたらそれは怪人が貴方に電話をかけているのかもしれない。

 

そしたらラッキー! 何でも良い、何でもあなたが知りたいことを聞けば、教えてくれる。


何でもさ、何でも。

聞きたいことに答えてくれる

 

……つっても、タダじゃない。

教え終わったあと、そいつは必ず、あんたに問いを投げる。


もしも、それに答えられなかったら――。


……知ってるか?

怪人の名前。


みんな、こう呼んでる。


「怪人アンサー」って。






「な? どうよ。めちゃくちゃ魅力的だろ?」


「はぁ……」


薄暗い路地裏。


 頭上では壊れかけの換気扇が、ギィ、ギィ、と耳障りな音を立てて回っている。雨水の染みた壁には怪しい広告の紙片が何枚も貼られ、足元には空き缶と吸い殻が転がっていた。その片隅で、ミサキは錆びたドラム缶を机代わりにし、簡素な占い席を開いている。


 客は、酒瓶片手の酔っ払いだった。


 顔は赤い。声は大きい。しかも、さっきから身振り手振りを交えながら、頼んでもいない都市伝説の説明を延々と続けている。


「だって何でもだぜ? 何でも! 運命の相手とか! 金持ちになる方法とか! 上層へ行く手段とかよぉ!」


「そんな都合よくいくものかなぁ……」


ミサキは頬杖をつきながら、並べたカードをぱしぱしと混ぜる。


半分は本物のタロット。

もう半分は拾ったトランプだ。


絵柄も大きさも微妙に違うが、ここは薄暗い路地裏、体裁さえ整えれば案外それらしく見える。占いなんて、雰囲気が九割である。たぶん。


「っていうかお客さん」


「ん?」


「どうして急にそんな話?」


「どうしてってそりゃ……」


男がにやりと笑う。


「アンタの占いが欠片も当たんねぇからだよ」


「うぐっ」


会心の一撃だった。


 「いやぁ〜でもおかしいな……」

 

ミサキは並べたカードを睨む。

 

「お客さん、最近財を築くような出来事があったろう?」

 

「残念ながらねえな」

 

「昔に家族を亡くしてる?」

 

「亡くしてねぇ」

 

「じゃあ恋人がいるだろう!」

 

「いねぇよ」

 

「…………」

沈黙。

男がにやにや笑う。

「才能無いんじゃねぇの?」

「うぐっ」

容赦のない言葉がミサキの胸へ、ぐさりと刺さった。

「きょ、今日は不調の日なんだよ……きっと。年に一度あるかないかの……」

「なんだそりゃ……」


 酒臭い息を吐きながら男は立ち上がった。

「ま、少なくともアンサーの方があんたの占いより当たりそうだ」

「それは……事実かもしれないけど………目の間で言うのは流石に酷くないかい?」

「事実だって自分で認めてら」

「うぐぅ……」

男はげらげら笑いながら背を向ける。

その背中に声をかける。

「まあ、待ちなよ最後に一つ。とっておきがあるんだ」

ミサキが声を漏らす。

「お?」

男が半身だけ振り返る。


 ミサキは椅子の上で背筋を伸ばし、わざとらしくカードを一枚伏せた。その赤い瞳が、薄暗い路地裏の中で小さく光る。

「へぼ占い師だなんて言われたら困るし、これはタダで教えてあげる。しかもね、確実な予言だよ」


「ほう?」


「七日後にこの世界は消失する」

沈黙。

男は数秒ぽかんとしたあと、

「……ばっからし」

男は鼻で笑いながら、路地裏を去っていった。

ミサキは椅子へ背を預け、大きくため息を吐いた。

「ボクだって昔はすごかったんだぞこの野郎ぉ……」

とそこで、携帯が震える。

 

『高額報酬・怪奇回収スタッフ募集』


画面をスクロールする。


破格の報酬。金欠の身としては非常に心惹かれる誘いである

 

「肉体労働かぁ……でもな、お金ないしなぁ……」


数秒、うんうん唸り、そして観念したように立ち上がる。


占い屋はフードを取る。そこから現れた金髪赤目の少女は路地裏から外へと走り出した。




下層の雨は黒い。


頭上を走る排水管から滴り落ちた水に、鉄錆と廃油が混ざるからだ。


降らない日もある。

だが今日は降っていた。


粘つく黒雨が、街全体をじっとり濡らしている。


 彼女の名はミサキ。普段は占い師の真似事で小銭を稼ぎ、財布が軽くなりすぎると、こうして少し危ない仕事へ足を運ぶ。怪奇回収スタッフなどという、見るからに怪しい募集に釣られるのも、別に今回が初めてではない。今日の飯と明日の宿代のためなら、危険の匂いにも多少は目をつぶる。

 

 もっとも、その日暮らしはここじゃ珍しくない。


ミサキが生まれ育ったこの街を一言で表すなら、掃き溜めだった。


 世界には、上層と下層がある。


 下層の人間たちは、空を知らない。頭上を覆っているのは青い大気でも、流れる雲でもなく、遥か高みに築かれた上層都市を支える分厚い鋼鉄のプレートだ。人々はその巨大な底面の真下、世界の影のような場所で、押し込められるように暮らしている。


 太陽の射さない街を照らすのは、不規則に明滅する安物のネオンと、違法配線からぱちぱちと漏れる青白い火花だけだった。密集する建物はどれもジャンクパーツの継ぎ接ぎで、剥き出しの配管からは得体の知れない廃液が垂れ、どこを歩いても、重油と鉄錆の混ざった饐えた臭いが鼻の奥にこびりつく。


 この閉塞の底に生まれた人間の多くは、一生の内にただの一度も本物の太陽を見ることなく、錆びた泥のように死んでいく。


 対して、天上の上層は違った。

 そこには遮るもののない本物の空があり、匂い立つ風があり、瑞々しい緑がある。治安は完璧にコントロールされ、水はどこまでも清潔で、食料は常に溢れている。高度な教育も最先端の医療も当たり前に保証され、住人たちは明日を怯えることなく、穏やかな幸福のなかで生きている。


 努力した分だけ報われる場所。

 未来を信じ、夢を見ることが許される場所。

 そして何より──そこには「自由」がある。


 下層の人間にとって、遥か頭上に浮かぶ上層とは、御伽噺おとぎばなしの国も同然だった。

 誰もが憧れ、誰もが羨み、誰もが一度はあの鉄の天井を突き破って、光の中へ辿り着きたいと願う。


 実際、上層にはおよそ下層が望む「すべて」が揃っていた。

 溢れる富も。絶対的な権力も。奇跡のような技術も。脅かされぬ安全も。満ち足りた幸福も。


 だが、それでも。

 たった一つだけ。


 どれほど金や権力を積もうとも上層には決して存在せず、この下層のにしか存在しないものがある。



 

「まずいな」


バイトに遅れたら、本当にやばい、お金が手に入らなくなっちゃう。後半の言葉は駆けるミサキの背後に解けて消える。


「近道っと」


ミサキは、煤け、変色したフードを深く被り直し、急遽進路変更。大通りを通ると遠回りになると見越して、建物と建物の隙間へ身体を滑り込ませた。


彼女の周囲では、生気のない目をした住人たちが、何かを巡って小競り合いを起こしている。路地裏からは、ドラッグに溺れたジャンキーがぼんやりと中空を眺めている。


どこか角を曲がった先からは乾いた銃声が響く。治安という言葉は、この階層ではとっくに死語だ。最も治安が良かった時代があるかも不明だが。


建物の壁面を埋め尽くすのは、剥げかかった極彩色のホログラム広告と、安物のネオン管だ。

 

「上層への夢を、その手に」「朝廷への忠誠こそが安らぎ」「平均寿命を10年も伸ばした驚きの秘術!? 今すぐこちらまでお電話を!」


胡散臭い広告の列を横目に、ミサキは水溜まりを飛び越えた。


「また雨がひどくなってる……これじゃ服がすぐボロボロだよ。洗濯代だってタダじゃないんだぞ」


 愚痴りながらも走り続ける。


そんな彼女の視界に、ふわり、と青白い光を放つ何かが飛び込んでくる。丸くて尻尾のようなものがあり、半透明なそれは。


人魂。


「うおっと…」


すぐさま身を端に寄せてすぐ、通路の先から、生々しい燐光を放つ人魂が大量に流れ込んできた。ミサキは慣れた動作でその奔流をやり過ごす。

 

人魂たちは「生ビール半額」の文字を半透明の中に浮かばせ、看板としての役割を果たすべく空しく明滅を繰り返していた。

 

「こんなところ通らなくてもいいだろうに」


ミサキは流れていく人魂の群れを見送りながら、小さく肩を竦めた。


怪奇。


人の噂や恐怖から生まれる、正体不明の異常現象。


下層では誰もが知っている存在であり、誰もが一度は遭遇する存在でもある。


逆に言えば、それは下層にしか存在しなかった。


何故だか、怪奇は上層に決して出現せず、この鉄と錆の街から離れようとはしないのだ。噂話の中では、上層の空気が綺麗すぎるからだとか、下層の人間の方がよく怯えるからだとか、もっともらしい理由がいくつも語られているが、本当のところを知る者はいない。




最初から、人々が怪奇を信じていたわけではなかった。


 幻覚だ、見間違いだ、酔っ払いの作り話だ。誰かが退屈しのぎに垂れ流した都市伝説であり、暗い路地裏で暮らす者たちが勝手に膨らませた妄想に過ぎない。そうやって笑い飛ばされた噂は、しかし消えることなく、口から口へ、心から心へと伝わっていった。


 誰かが怯える。


 誰かが語る。


 誰かが忘れ、また別の誰かが思い出す。


 その繰り返しの中で、恐れは少しずつ形を持った。ありもしないはずの足音が夜道に響き、存在しないはずの影が壁に立ち、子供を脅すためだけの作り話が、ある日、本当に路地の奥からこちらを覗き込む。


 そうして怪奇は、下層に生まれ落ちた。


 少なくとも、この街ではそう語られている。


 かつて怪奇は、理解不能な恐怖そのものだった。科学の光が届かない闇に潜み、人々の合理性を嘲笑うもの。行方不明者、理由のつかない変死、神隠し。人々はそれらを事故や病気や運の悪さという言葉で無理やり片付け、見てはいけないものから目を逸らし続けてきた。


 怪奇は闇の側にいた。


 人が語り、怯え、忘れようとするたびに、噂は真実味を帯びる。都市伝説は輪郭を増し、民間伝承は骨格を得る。理屈が通じず、逃げ場もなく、ただ出会ってしまえば終わるもの。だからこそ、怪奇は恐怖の対象だった。


 そして現在。


「安いよ安いよ テケテケ安いよぉ」


「テケ~~~」



市場の一角で、かつて人を怯えさせたはずの怪奇が、雑に値札を貼られて売られていた。


 今日は大安売りの日らしい。


「もう少し安くならない? 足が一本欠けてるじゃない」

「お客さん、それじゃアタシの懐が干上がっちまいますよ!……しょうがないですねぇ、それじゃここは特別に一割引きに負けてあげます」

「………買った!」

「毎度あり!」

 

金銭と引き換えに、かつての恐怖がビニール袋に詰められていく。

不透明だった闇は、科学の光によって白日の下に晒された。


これが、今の下層の日常だった。


 怪奇を扱う技術そのものは、昔から存在していたらしい。呪われた道具を調整して使う者もいれば、怪奇の名を語り、その力の一部を人の身で借り受ける者もいる。だが、それは本来、危険で、面倒で、慎重に扱うべきものだったはずだ。


けれど、下層ではそれが当たり前になっている。


 誰が最初に手綱を付けたのか。


 誰が怪奇を加工し、売り物にし、生活の中へ流し込んだのか。


 そんなことを気にする者は少ない。便利だから使う。金になるから売る。危なくても、今日を生き延びる役に立つなら手を伸ばす。下層の人間は、そうやって何でも利用してきた。怪奇でさえ例外ではなかった。


その結果が、今のこの光景だ。


かつて子供を攫う怪異として恐れられたものは、今では金持ちのボディーガードをしている。頭上では、死者の執念を抽出した人魂が「生ビール半額」の文字を形作らされ、ネオンサインとして虚しく明滅を繰り返していた。


 かつて無差別に包丁を振るった殺人鬼の怪奇たちは、スマホアプリ『タタリー』を通じて、スキマ時間に解体工事へ派遣される手軽な労働力へ成り下がっている。


 全く、便利な時代である。


それでも、値札を貼られたテケテケが袋に詰められ、人魂が安酒の広告として明滅し、誰かの恐怖から生まれたものが雑に使い潰されているのを見ると、胸の奥がどうにもざわついた。


 怪奇とは、もう少し遠くにあるものではなかったか。


 暗がりに踏み込む時の緊張。噂を口にする時のためらい。見てはいけないものを見てしまった時の、あの背筋を撫でるような冷たさ。


 そういうものが、今の下層からは薄れている。


 値切られ、袋に詰められ、広告にされ、使い潰される。便利になったと言えばそうなのだろうが、その馴れ馴れしさが、ミサキにはどうにも気に入らなかった。


「慎みってやつが今の人々からは感じられないよ」


と、一つ文句を言ってみるが、そんなことで腹は膨れない。怪奇の尊厳を嘆いたところで宿代は払えない。結局のところ、今のミサキに必要なのは思想ではなく現金なのだ。世知辛い話である。



 


「並べェッ!!」


集められた労働者たちが、一斉に肩を震わせる。遅れて到着したミサキも、まるで最初からそこにいたかのような顔で列の最後尾に滑り込んだ。怒鳴っているのは、シンカイ組の下っ端らしきヤクザだった。虎柄のスカジャンに、潰れた鼻、黄色く濁った目。手元の警棒を地面へ何度も叩きつけ、集まった連中の注意を無理やり自分へ向けさせている。


 バンバン、バンバンと手元の棒を地面に叩きつけて注目を集めている。


「いつも通りだ! 潜って怪奇拾ってこい! 報酬は出来高! 死んでも自己責任!」

 

「金が欲しいか? なら命を燃やして突っ込め! 飯が食いたいか? なら武器を構えろ!」


腐敗臭の漂う広場に、怒声が響き渡る。


 労働者たちは誰も文句を言わなかった。文句を言えば殴られる、仕事は回ってこない。ここに集まっているのは、怪奇回収などという危険な仕事に手を出さなければならない連中ばかりだ。誰もが目を伏せ、口を閉ざし、ただ合図を待っている。


「……以上ッ! 散会しやがれッ!!!」


その合図と共に、人々は一斉に動き出した。



それを合図に、人々は一斉に動き出した。


 鉄柵の向こうには、暗い階段が口を開けている。そこから先は、加工の網を逃れた怪奇や、廃棄されて野生化した怪奇が巣食う場所だった。市場に並ぶ怪奇は、値札を貼られ、袋に詰められ、扱いやすい形へ整えられたものに過ぎない。その裏では、こうして誰かが危険な場所へ潜り、まだ手のついていない怪奇を捕まえてくる。




一段、また一段と階段を下りるごとに、ネオンの光は遠のいていく。代わりに、生き物の腐敗臭と冷たい油の匂いが鼻を突いた。壁を這う配管は錆び、ところどころから黒ずんだ液体を滴らせている。数段下りただけで、街の騒音は背後へ薄れ、湿った闇が周囲を包み込んだ。


「ええと、どこだったかな」


 ミサキは懐をまさぐり、古びた懐中電灯を取り出した。こういう場所では、何より頼りになる道具だ。もっとも、光を当てたからといって安全になるわけではない。むしろ、こちらの居場所を教えるだけの場合もある。


 それでも、真っ暗闇よりはましだった。

 

ミサキは汚れたフードをさらに深く被り、片手に懐中電灯を構え、暗闇へと踏み込んでいった。


 怪奇に会いたければ、奥へ行けばいい。


 それが、この階層での常識だった。怪奇は闇を好む。湿った場所、忘れられた通路、人目の届かない隙間。そういう場所ほど、噂から生まれたものは濃くなる。


 だがしかし、実のところ、ミサキは奥へ行く気などなかった。


奥に行けば行くほど怪奇に会えることは=狙われるということ。


危ない仕事は、危なくない範囲でやるに限る。なるべく浅い場所に留まり、迷路のように複雑に絡み合った配管の隙間を手際よく回っていく。足元に転がる廃材を避け、天井から垂れるコードをくぐり、時折立ち止まっては懐中電灯の光を左右へ走らせた。

 

錆びたダクトが不気味に軋み、どこか遠くで液体が滴る音が響く。懐中電灯の細い光が湿った壁をなぞるたび、何かの影が素早く横切ったような錯覚に陥る。


「……いないね。今日はハズレかな」


ミサキはそう呟いた。


もっとも、彼女は最初から“こちら”にそこまで期待していなかった。怪奇を見つけて捕まえるより、もっと手っ取り早く、もっと安全で、しかも財布が膨らむ可能性のある稼ぎ方が、この場所にはある。


そう考えた矢先。


「――いたぞ! こっちだ、追い込めッ!!」


暗闇の奥から、複数の怒鳴り声と、激しい金属音が響き渡った。

ミサキたちが音のする方へ駆け寄ると、そこには数人の労働者が、逃げ惑う「獲物」を四方から包囲している光景があった。


そこにいたのは、巨大な頭部に不釣り合いなほど小さな胴体を持つ怪奇だった。顔の大部分を占める大きな目は恐怖に見開かれ、ボロボロに擦り切れた古い着物が、細い身体に張り付いている。見上げ入道や目目連の類として語られたものが、どこかで混ざってしまったのかもしれない。


 かつてなら、夜道で出会った人間を震え上がらせる側だったのだろう。


 だが今は違う。ただの金蔓だ。


「ギギッ……ガガッ……!」


怪奇は絶叫し、四肢を軋ませて抵抗する。だが、労働者たちは情け容赦なく鉄パイプで叩き伏せ、動かなくなったその体を、まるで重い荷物のように五層へと続く階段まで引きずっていく。


「あぁらま」


 ミサキはそれを眺めていた。


少し、油断していたのかもしれない。


背後の闇から伸びた手が、口元を塞いだ。


「んっ」


そのまま、力任せに暗がりへ引きずり込まれる。


湿った空気の中に、粘つくような複数の気配が混じった。


「よう、お嬢ちゃん。こんなとこで一人か?」


暗がりにいたのは男たちだった。


さっきまでバイトの群れに混じっていた連中だろう。その瞳には弱者を品定めする下卑た光が宿っている。


「なぁ、今から自分が何されるか分かるか? こういう時大体三択に分かれるよな。奪うか、犯すか、殺すか、だ」


 男が指を一本ずつ折りながら告げる。


手にしたナイフの刃が鈍く光った。


「聞いて驚け。親切にもなんと俺たちは、奪うだけに留めてくれるそうだ。優しいなぁ…ほら優しいだろ?」


この層では、一人で歩いていること自体が罪だ。誰も助けない。悲鳴を上げたところで、それをだしに楽しまれるのが、この街の常識だった。


 リーダー格の男が、にんまりと口角を吊り上げ、唾を吐き捨てた。


「大丈夫さ。抵抗しなきゃ痛い目には合わさねぇよ ぎゃはは!!!」


男の一人が、ミサキの胸ぐらを掴もうと汚れた手を伸ばし。


――ガッ、という短い衝撃音。


「……あ?」


男が異変に気づいた時には、その視界は真横に叩きつけられていた。


「ぎゃっ!?」「な、なんだこい――」


続く打撃は流れるようだった。ミサキの動きに、男たちは反応すらできない。一人は腹に拳を叩き込まれてくの字に折れ曲がり、もう一人は足首を払われて、汚水に顔面から突っ込んだ。


「た、助け――――」


助けは来ない。それがここでの常識なのだから。


数秒後。下着同然の姿で地面に転がる男たちと、彼らから奪ったばかりの財布や時計を満足げに眺めるミサキの姿があった。


「良いねぇ、臨時収入ゲットだよ。やっぱり、バイトは最高だね」


  つまり、最初からこれも狙いだった。


 ミサキは財布の中身を確かめ、小銭の袋を見つけると機嫌よく懐へしまった。倒れた男たちは誰も動けない。いや、一人だけ、リーダー格の男が震える声を絞り出した。


「あ、あのぉ……もう、いいですかね……?」


リーダー格の男が震える声を出す。


「マジで謝りますんで。これ以上は、その……命だけは勘弁してください……」


「ん~~」


 ミサキはわざとらしく小首を傾げ、手にしたナイフを男の喉元で軽く遊ばせた。ひっと短い悲鳴が上がる。


そして、その刃先を頬に走らせる。赤い線がつーと刻まれる


「怖いかい? 怖いだろ」


男の呼吸がひゅうひゅうと細くなる。


「いい顔してるよ、君」


「ひっ、ひっ、ひっ……」


過呼吸気味に震える男の耳元へ、ミサキはさらに顔を寄せた。


 そして。

 

「わあああああああああああっ!!!!」


全力で叫んだ。


「ぎゃああああああっ!?」


男は腰を抜かし、失禁しながら這うように逃げ出した。


他の男たちも、泥まみれのまま必死に闇の奥へ消えていく。


「あはははははは!!! 怯える人を見ることほど素晴らしいものは無いね!」


「さて、今日のお仕事は終わりっと」


鼻歌交じりに懐中電灯を拾い、ミサキは来た道を引き返した。湿った配管の迷路を抜け、黒い水溜まりを飛び越え、鉄錆びた階段を一段ずつ上がっていく。上へ近づくにつれて、闇に沈んでいた空気へ、ネオンの明滅と怒鳴り声、焼けた油の匂いが少しずつ混ざり始めた。


「あー、戻ってきた戻ってきた」


 ミサキは気の抜けた声を漏らし、フードの奥から周囲を見回した。


 少し先では、先ほど捕獲された一つ目の怪奇を、シンカイ組のヤクザが検分していた。虎柄のスカジャンを羽織った男が煙草を咥え、足元に転がされた獲物をつまらなそうに見下ろしている。周囲では、捕まえた張本人らしいバイトたちが、報酬の額を気にして固唾を呑んでいた。


「……ま、これなら“管”行きだな」


ヤクザが煙草を咥えながら頷いた。


「加工する。ほら、引っ張れ」

 

そう言ってヤクザが顎で指し示したのは、無骨な鋼鉄の箱。

労働者たちが震える手でハッチを開け、まだ微かに震えている一つ目小僧をその暗い空洞へ放り込む。


ガコン、と重いロック音が響いた。


 直後、機械が獣のような唸りを上げる。


 内部で何が行われているのか、外からは見えない。ただ、鋼鉄の箱全体が低く震え、隙間から白い蒸気が噴き出し、硬いものが無理やり折り畳まれるような不快な音だ。


やがて、チィィィン、という無機質な電子音が響く。

排出口からポトリと落ちたのは、一辺が十センチほどの、青黒い四角形。


 かつては怪奇が人を喰らっていた。

 今では怪奇が人の食い物だ。


「ほら報酬だ」


 ヤクザが地面にぶちまけた報酬を必死に拾うバイト達を尻目に、


加工された四角形は、すぐに防護服を着た作業員たちの手でコンテナに積まれ、どこかへと運ばれていく。


ミサキは、運び去られていくコンテナの軌跡を追うようにして、その先にある街の心臓部を見上げた。

淀んだ下層の空気、その最奥に鎮座する巨大な円筒。


通称、「クダ」。


直径五百メートルを超えるその巨躯は、ひび割れた下層の地面から、遥か上空の鋼鉄の天井までをまっすぐに貫いていた。表面を覆うのは、一切の継ぎ目も凹凸も見せない滑らかな白色の装甲である。鉄錆の煤も、油を含んだ雨も、下層に染みついた汚れの何もかもが、その白い肌には触れることさえ許されないように見えた。


 

「管」は、ひび割れた第五層の地面から遥か上空の鋼鉄の天井までを繋ぎ、あたかも崩落せんとする上層の重みを一手に引き受ける巨大な支柱であるかのようにそこに在った。


ここで捕らえられ、四角い資源へ変えられた怪奇は、あの管の中を通って上へ運ばれていく。市場で使い潰され、労働力として呼び出され、見世物にされ、呪具へ刻まれる怪奇たち。その中でも、個体として売るには不安定で、けれど怪奇としての芯だけは濃いものが、こうしてブロックにされて吸い上げられる。


 世界を支えているように見える巨大な円筒は、その実、この街から価値あるものを吸い尽くすための純白の注射器に他ならなかった。


ミサキは、自分の手の汚れを拭うことも忘れ、ただ遠い空の終わりをじっと見つめていた。

 

上層へ行きたい。そう思った。


「あ~疲れた。腰が死ぬぜ」

「今日のは手強かったな。あんなデカい怪奇、久々に見たぞ」

「これっぽっちかよ、命懸けでこれっぽっちかよ」

「文句言うな、食いっぱぐれないだけマシだろ」

「あーあ、酒飲みてえ。飲みてぇ、飲みたくてしゃあねぇ」

「水で我慢しとけアル中」


ぞろぞろ、ぞろぞろと。


 淀んだ空気の中を、怪奇回収を終えた労働者たちが帰っていく。誰もが疲れ切った顔をしていたが、それでも一人で歩く者はいない。下層では、報酬を持っている人間ほど狙われやすい。


 だから、仕事終わりの労働者たちは自然と群れになる。


ミサキも何となくその流れへ混じって歩いていた。



「あ、これどうぞ。読んでみてください」


 不意に、横合いから紙束が差し出された。


 振り返ると、痩せた男がへらへらと笑いながら、通りを行く労働者たちへ粗末なビラを配っている。雨に濡れて端がふやけた紙には、太い字で何かが殴り書きされていた。


「え、ああ」


反射的に受け取ったバイトの一人が、紙面に目を落とした瞬間。その顔から、瞬時に血の気が引いた。


「これって――――」


ふと、前方で喧騒がピタリと止んだ。

家畜の群れのような雑踏が、恐怖という名の力によって左右に割れる。


「――そこまでだ、不穏分子」


凍りつくような、硬質な声。

道の真ん中で、数人の男たちが地面に顔を押しつけられ、無残に取り押さえられていた。その手には「搾取を止めろ」と殴り書きされた粗末なビラが握られている。


「朝廷への反逆、及びに公序良俗を乱す存在とみなし、ここで確保する」

「糞っ!! 糞ッ!! 離せっ!!!!」

「俺たちは本当のことを言ってるだけだ!!」

「上の奴らが俺たちから富を奪ってる! そのことを俺たちは皆知っている!! 目を覚ませ!!!!」


喚き散らす彼らを制圧しているのは、この澱んだ階層にはおよそ似つかわしくない、漆黒の制服に身を包んだ者。


「除去官」だ。


彼らはこの国を清浄に保つための掃除人であり、朝廷の意志を、何の疑いもなく執行する冷徹な刃だ。



「……お前、その手にビラを持っているな」


除去官の視線が、先ほどビラを受け取ったばかりの男に向けられた。


「え! いや、これは今、無理やり渡されて――――」


「お前今から寝床に帰るところだな」


「え?」


 唐突な問い


「お前は今からその不潔な寝床に帰り、合成水の不味さに顔をしかめ、硬いシーツに身を投じる。そして、意識が微睡みへと溶け落ちる寸前、脳はお前の意思に関わらず、今日見たそのビラの内容を網膜の裏に再生し始める。

 静まり返った暗闇の中で、粗末な紙に書かれた『搾取』という二文字が、思考に染み渡る」


「は?え?」


「最初は否定するだろう。だが、一度芽生えた疑惑は眠りの中で増殖する。

 『自分たちが飢えているのは、上が奪っているからではないか?』。

 そう思った瞬間、お前の安眠は終わりを告げる。

 翌朝、お前が目覚める時、その眼には昨日までの従順な国民としての光はない。喉元には、朝廷への反逆真がせり上がっている。足取りは重く、すれ違う除去官の顔を見るたびに、お前は懐のナイフやの重さを想像するようになる。……そう、テロの魂をお前は心に宿すことになるのだ」


「な、な、な……! 何言って……お、お前頭おかしいんじゃないのか!?」


「お前らのような馬鹿は影響されやすいからな。お前が武器を手に取り、無辜の秩序を脅かす怪物へと変貌した時、我々がどれほどの恐怖を味わうか考えたことはあるか? これは非常に、非常に恐ろしいことだ」


「おい、誰か助けてくれ、こいつ頭が――」


「そうなったら怖いからな。だからお前も同罪だ」


除去官の一人が、腰のホルダーから流れるような動作で取り出したのは、鈍い銀色の電磁警棒。


男が弁明の言葉を叫ぼうとした瞬間、警棒がその首筋へと正確に叩き込まれた。


――パチィィィンッ!!


爆ぜるような高周波の放電音が路地裏に響き、男は糸の切れた人形のように、声もなく崩れ落ちる。


「お前らは、揃いも揃ってゴミだ。……まさか、お前らもこいつと同罪か?」


除去官は、足元で痙攣する男を一瞥すら見せず、視線をゆっくりと周囲の群衆へ向けた。まるでスキャナーのように労働者一人ひとりの喉元をなぞっていく。


ぶんぶんぶんぶん。


ミサキは全力で首を横へ振る。


周囲の人間も同様だ。


「クズどもめ……。朝廷に反抗することがどういうことか、これでよく分かっただろう」


彼は手にした電磁警棒のスイッチを切ると、流れるような動作で腰のホルダーに収めた。


「この世界を支えているのは、お前らのような塵芥ではない。朝廷の秩序だ。掃き溜めに相応しい顔をしていろ。抵抗の意思など持つな。ただ生きて、ただ死ね。……いや、待てよ」


彼は事務的な手つきで腕時計の針を確認し、隣の同僚に声をかけた。


「そろそろだよな?」

「え? あ、何放送の話? すぐじゃね?」

「…よしよし。お前ら。今から最高の栄誉に浴することができる、瞬き一つするなよ」

 街頭の巨大なスクリーンを指し示した。

「上皇様の大見えだ」

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